第2話 自殺志願者と明るい女

 彼女の声を初めて聞いたのは三日前の金曜日。朝のホームルーム。

 

「今日から一年三組でお世話になる琴川ことかわ 奈月なつきです。好きなことは楽しいこと全般。嫌いなことは嘘をつかれること。それと私は心臓に爆弾があります。いわゆる不治の病ってやつらしくて、二回心臓が止まっちゃたことがあります。お医者さんが言うには、三回目は覚悟してくれとのことなので次止まったら、そういうことです。なのでみなさんに仲良くして欲しいとは私からは言えません。むしろ、あんまり仲良くしないほうがいいかもしれません。実は三回目もここ三ヶ月以内が危険だと忠告されてます。へんなことを立て続けに言ってごめんなさい。でも知ったうえで関わって欲しかったので」


 黒板に書いた名前を隣にして彼女は淡々と自己紹介をした。

 教室には囁き声が充満していたけど、僕は一向に気に止めなかった。

 それよりも、ある一つのことが脳内でグルグルと回っていたから。

 

 −−今日、死んでしまおう。

 

 僕と両親には問題があった。特にアル中の父は醜悪そのもので、働きもせず、母から金を恫喝する毎日だった。その暴力性は日を増すごとに凄烈さを増していき、次第に手から物になり最終的にタバコの火を押し付ける行為にまでおよんだ。かもられる母は自己犠牲ばかりの弱い人間だった。夜に出勤して朝に帰る仕事をただのパートと偽り、いつでも作り笑顔を忘れない人だった。そんな母が逃げるように自殺したのは今年の春先、桜が咲く近くの公園で首を吊ってるのを父が偶然発見した。自殺に追い込んだ張本人も妻が亡くなったのがショックだったのか、重度のノイローゼになり心療施設に入院している。

 

 一人になってからは母が残した貯蓄と死亡保険金に縋る毎日だ。

 

 頼れる人はいない。祖父母と呼べる人は僕の小さい頃に死んでしまったし、顔も知らない叔父や叔母が僕を助けるわけもなかった。

 

 住む場所も三人暮らしだった頃のマンションから、家賃の安い小さなアパートへ。

 バイトをすることも一時は考えたけど、高校でバイトは禁止されている。家庭の金銭面に事情がある場合は担任に話を通せばできるらしいけど、いささか僕は人というものに敏感になりすぎた。きっと社会に適応できない。

 

 桜が嫌いになったあの日から三ヶ月が過ぎたこの日、積もり膨らんだものが心に急に押し寄せ、僕は僕をどうしようもなく嫌いになっていた。

 

 教室の窓から空を見上げていたら「隣になったよ。よろしくね」と転校したての彼女が話しかけてきたので、億劫だったが「よろしく」と返した。全くもって彼女のことなど蚊帳の外だったけど、どうせ今日で会わなくなると踏んでいたから。

 この日の放課後、なにもかもどうでもよくなり学校の屋上に向かった。右手の遺書には大好きな文豪がくれた綺麗な言葉を一言、一枚のルーズリーフに添えた。

 

 −−今日は月が綺麗ですね、と。

 

 屋上のフェンスは腰辺りまでしかなく飛び越えることは容易だった。

 きっと飛び降り自殺した者が過去におらず無警戒なのだろう。

 一歩踏み出せば身体を重力に殺されるという状況。その中で吹く暖かい風は妙に現実感を帯びていた。視線を落とすと帰宅する生徒の群れも蟻んこみたいに小さい。屋上の僕を見て駆けつけようなんて奴はいない。そもそも通い慣れた高校の屋上を帰り際に見張る生徒などいるはずもなかった。

 

「やっと死ねる」

 

 死んだ母を憂うように、狂った父を恨むように、この世界を呪うように、妬ましほど青い空に吐き捨てた。身投げする前の自分に対する最後の当て付けでもあった。

 

 −−全く持って嫌な人生で、嫌な人間だった。

 

 呆れ笑いと傾く身体。生と死の境界線を跨ごうと右足から前に‥‥

 

「ちょっと待ったぁ。お葬式なんて出たくないよ」

 

 突如、素っ頓狂な声が耳を通り、右足を宙で止め戻した。振り返ると本日転校してきた彼女が顰めっ面で棒立ちしており、その手には花柄のノートが縦に丸められていた。

 

「‥‥ほっといて」

 

「なに? 声が小さくて聞こえないんだけど」

 

 彼女は鋭い眼光でこちらに近づくと、フェンス越しに僕の胸ぐらを掴み寄せた。彼女がそうする前に飛び降りなかったのは自分でも不思議だった。ただただ、接近してくる彼女の姿を傍観者のように眺めてしまっていた。

 

「‥‥制服引っ張られると痛いんだけど」

 

 縦巻きにされたノートで彼女は僕の脳天を叩く。深いため息も聞かされた。

 

「早くフェンスを跨いでこっちに来なよ」

  

「君には関係ないでしょ」

 

 バシ、と二発目の打撃が炸裂した。いくらノートによる攻撃でも振り被るスピードが尋常ではない、いわゆる本気なのだ。

 

「聞きわけがないと何発でも打つよ」

 

 渋々、黙ってフェンスの中に身体を戻した。死ぬことは恐くなかったけど、痛みを感じることは耐えがたかった。

 

「命の恩人に向かってなんて口なの?」

 

 三発目の打撃が唸ると花柄のノートはバキバキになっていた。

 

「ごめん」

 

 心にもなくそう言った。それが一番簡単だったから。

 

「なにがごめんなの?」

「なにがって‥‥自殺しようとしたこと」

「そんなこと本当は悪いなんて思ってないでしょ? 分かるよ、それぐらい」

「じゃあなにを言えばいいの?」

「もう自殺しないって言って欲しかった」

「‥‥‥‥」

 

 黙る僕を見て、彼女のノートを握る力が強まった気がした。

 

「なんで黙るの? 言える自信がないの? それとも言う気がないの?」

「君に‥‥なにが分かるんだよ」

 

 もう殴られてもいいと思い小声を荒げた。力を振り絞ってもそれしかできなかった。

 

「分かるよ。今の東雲くんをほっといたら明日にでも死んじゃうことぐらい」

「だとしても君には関係ないでしょ」

 

 彼女は僕の言葉に動揺した。でもそれはほんの一瞬だった。

 

「確かに今のままの私なら関係ないかもしれない。けど今から東雲くんと私が友達になるなら救う理由はあるでしょ?」

 

「‥‥なに言ってるの。意味わかんないよ」

「その意味わかんないが、意味わかんないんだけど」

 

 彼女がボロボロのノートを振り上げるのを見て僕は身を竦めた。

 

「分かったから‥‥暴力はやめて」

「なら明日からの二連休、東雲くんと遊びたいです」

「‥‥はぁ」

「友達が遊びたいって言ってるの!」


  軽くポンと頭に乗せるようにそれで叩かれた。さっきまでと違い痛みはなく、恐れて閉じた目を見開くと生きた笑顔がそこにあった。

 その後は半強制的に遊ぶ約束を受諾させられた。

 校門で別れる際には「自殺して約束破ったらごめん」という僕の言葉も笑われ、「今の東雲くんなら大丈夫。なんたって私の友達は約束は破らないから」とわけのわからない返しをされた。冴えない六畳アパートに帰宅すると、この日はすぐにベッドに転になった。いつもなら居た堪れなくなる天井の光景も、その時の僕には不思議と耐えられるものになっていた。

 

 −−彼女との約束はとりあえず守った。休みの初日はカラオケとボーリングをして、会った時から彼女がはしゃいでいない時間帯は一つもなかった。口下手な僕だけど、彼女が喋ることには奇妙な魅力があり穏やかに過ごせた。二日目も正午から午後の六時ぐらいまで遊んだ。この日は駅前の映画館に行った後、「東雲くんは趣味とかないの?」「小説を読むのは好きだと思う」「じゃあ見に行こうか?」という会話の流れで駅ビルの書店に二人で足を運んだ。手に取った新作小説の表紙を見つめる僕を、彼女は横で眺めながら微笑んだ。その様子を一瞥した時は偉く柔らかい表情ができるんだな、と感心したけど口にはしなかった。言葉にしてしまえば、きっと恥ずかしくて死にたくなるから。

 そうやって思ったこととは裏腹に、僕の中で『死神』が地盤駄を踏んで悔しがっているのが妙におかしくて小さく笑った。そんな僕を指差して彼女は「今、笑った。すごく楽そうに笑った」と驚きながら言ったが、僕はなんだか意固地になってしまい、「笑ってない」と踏ん張るように返したのだった。

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