好きって言葉が言えなくて

村雨 優衣

第1話 今日も月は綺麗です

 そっとこの世界から消えてしまおう。そうすれば君に会えるかもしれない。

 高校の屋上へ続く階段を一段一段登っていく。

 今夜の空は僕と君が好きだった満月の空。

 その中で僕は誰にも邪魔されず、心ゆくまで隣にいない君を想うだろう。

 

「今日も月はきっと綺麗です」

 

 おまじないのように言った言葉が僕の内臓に反響する。染み渡る。

 脇の小窓から差す夕暮れの色。今日がきっと最後の月見になる。

 見終わったら君に早速会いに行くよ。

 会ったらなにから話そうか。でもきっと自殺したことを君は怒るんだろうな。

 そうなったら先に死んじゃったことをネタに逆ギレしてやろう。多分喧嘩になると思うけど、今の僕にはそれすらも楽しい。まるで祭りの前夜みたいだ。

 君と話すことをまとめながら、ドアノブに手をかける。

 ーーきっと最初の会話はあの言葉からだろう。 

      

       *

  

「今日、東雲くんは死なない?」

 

 学校の昼休み。長い黒髪を涼風に泳がせ、琴川 菜月は言った。

 七月にしては肌寒い陽気。屋上に流れる彼女の声と瞳には過ぎた春の面影がある。

「どうだろうね。保証はできないけど多分死なないと思う」

 

「ならよかった。私も今日はきっと死なないと思う。保証はこっちもできないけど」

 

「‥‥そうか」

 

 他人としゃべることが得意ではない僕は、手に持った焼きそばパンにひとまず視線を安定させにいく。小説と睨めっこするのは得意なのに人と面と迎って話すのは苦手だ。

 どうして彼女みたいに人と笑顔で話せないんだろう、そう自分に苛立ちを感じることがこの頃よくある。

 会話が途切れてから二秒ほどして、彼女のせせら笑いが小さく耳に届いた。

 

「東雲くんはやっぱり不器用だね。思ってることが多すぎてうまく口にできないタイプだって私は踏んでるよ」

 

 違う。言いたいことはまとまってる。ただ、それが口から出ないだけ。

 

「確かにそうかもね。でも君は器用なのだから僕みたいな根暗を相手にするより、他のクラスメイトと関係を持ったほうがいいんじゃない?」

 

 ストローでイチゴオーレを飲む彼女を一瞥し、僕は焼きそばパンを口に運ぶ。自分に対しての僻み根性も一緒に胃の中に戻ってくれないかと思った。

 

 彼女の顔は顰めっ面になっていた。はぁー、という嘆息もこちらに聞かせるために吐かれたものだろう。ニコニコ平和主義の日本で、表情と息遣いだけで他者に不服を知らせることは彼女の才能なのかもしれない。

 

「いきなり饒舌になったと思ったら、やっぱり東雲くんは不器用だし、バカだね。私は東雲くんと関わりたいと思っているんだよ。友達なんだから」

 

 歯が浮くようなセリフを言えるのも才能。彼女の場合は無傷でそれを言い、聞かされた他人を恥じらせ、黙らせるのだからさらに凄い。

 

「東雲くんは最初、私に興味なかったでしょ?」

 

 また急に。なんの脈略もなく‥‥。

 

「‥‥なかったよ」

「じゃあ今の私はどう?」

「なにその質問」

「今の私はどおぉぉぉぉぉぉ」

 

 僕の耳を引っ張り寄せ、鼓膜を破る勢いで元気をぶつけてくる。

 恥ずかしい思いをしたくない。かといってなにか言わないと。

 

「‥‥少しだけ」

「少しだけ?」

「‥‥興味はあるよ」

 

 突然、彼女は僕の顔を両手で挟み、自分へと向けさせ、

 

「東雲くんは照れ屋さんだね。きっと好きな人に直接『好き』とは言えない人だね」

 

 僕は反射的に視線を落とすと、慌てて彼女の手を振りほどいた。精一杯の抵抗、というのは過ぎた表現かもしれないけれど、頬に溜まった熱はうさいほどリアルだった。

 

「あんまり罵るなよ。そんなこと君には関係ないだろ?」 

 

「ごめんごめん。東雲くんがあまりにも可愛いからつい。いいこと教えてあげるから許してね」


 あっけらかんとした声音が静かに耳を抜ける。もちろん彼女に反省の気配などない。悪意があれば叱責することもできるのだが、猫みたいに無邪気なので深く嘆息するだけに留まってしまう。

 

「なんですか? いいことって」

 

 どうせ聞かないと怒るだろう?

 

「さっき、私に興味があるって言ったよね」

 

「言ったけど。そこまで意味はないんだ」

 

「なら、もっと私を見てもいいよ。私は東雲くんにじっと見られても不快じゃないし、だから目と目が合ったりしても急に逸らさないでもいいよ。でも見られて嬉しくなるってわけじゃないからそこだけは勘違いしないでね」

 

 はっきりと物怖じせずに彼女は言った。

 聞かされた僕は耳まで熱くなり、どう返答していいか分からず口ごもる。

 

「やっぱり東雲くんは照れ屋さんだね。でも可愛いと思うよ、照れ屋さんって」

 

 沈黙を破るような明るい囁き。僕が黙ってしまうのを見越していた気がする。

 

「僕は男なんだから可愛いはやめてくれないか?」

 

「えぇ、いいじゃん。かっこいいよりも、私は可愛いの方が好きだなぁ」

 

「君が良くても僕は嫌なの。可愛いなんて、なんか弱そうなんだし」

 

「それは東雲くんの憶測じゃない? ゾウさんも、キリンさんも、パンダさんも、みんな強いけど可愛いよ」

 

「僕はゾウも、キリンも、パンダも可愛いって思ってない。だいたい野生の動物に至近距離で遭遇したら、ネズミでさえ恐いと思うよ」

 

「じゃあいいよ、東雲くんは可愛くないってことで。その代わり東雲くんはネズミよりも弱い人間ってことだからね」

 

「なんだよ、それ」 

 

 聞こえぬように僕が呟くと、彼女は「よっこいしょ」と飛び跳ねるように立ち上がって大きく背伸びをした。

 

「なんだか幸せだね、東雲くん」

 

 広げた手を口に添え眠気を隠す彼女の姿は確かに幸せそのものだと思った。

 けど、それを素直に肯定できない。だから黙った。

 今を幸せと認めてしまえば、後は不幸に下がるだけだと感じてしまうから。

 

「やっぱり不器用だね」

「‥‥それは認めるよ」

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