第6話

 床に突っ伏している彼の周りをぐるりと取り囲むようにして大輪の花たちが、鮮やかな色で咲いていた。それは花の絨毯を敷き詰めた華やかな空間、まさに圧巻だった。


「トー……マ?」


 否——正しくは、転がっている、と表現した方がいいのだろうか。本来なら枝から伸びた柄の先に付いているはずの花が、己の首を冷たい床に転がして部屋一面を覆い尽くしていた。


 床にうずくまるトーマの身体は小刻みに震え、目は大粒の涙で濡れそぼっていた。


 まるで一枚の絵画のような光景に——奏多はこの瞬間、時が止まったようにさえ感じた。

 思わず目を奪われてしまう。


 そんな彼女を現実に引き戻したのは苦しげな彼の嗚咽だった。


 両手でその口を覆い苦しげに呻く彼を介抱しようと慌てて駆け寄ろうとして、奏多は、再びその足を止めていた。


 


 彼から生み出された白い牡丹の花は両の手に収まることなくそのまま床にポトンと落ちた。


 《花を吐き出している。》


 その非現実的な光景を半ば綺麗だと思ってしまう自分をブンブンと振り払って、彼に駆け寄った奏多は、その背中をさすってやった。


「大丈夫……?」


 いつもなら「ヤメロ」などと一蹴するだろうが、もうそんな気力も無いのだろう。彼はただただ身体を震わせるだけだった。


 ようやく身体の震えが止まった。彼は全身にビッショリ汗をかいていた。



「……。入るなって言っただろ」


 顔を見るやいなや、ぼそりと一言。

 ねっとりとした視線を向けられ、奏多は思わず視線を逸らしていた。


「こんな姿、誰にも見られたくなかった」

「…………う……」


 そりゃそうよね。


 自分が吐き気を催している場面に赤の他人が介入してくる図を想像して、すぐにブンブンと頭を振る奏多。なんだか気持ち悪くなってきた。


 ……うん。そりゃそうだよね。


 ひとりで納得して、口をついて出たのはやっぱり謝罪の言葉だった。


「……ごめん……なさい」

「…………まあ、さ。遅かれ早かれ、見られてただろうし……。クロイのヤツも、多分、話をするよりも実際に見てもらった方が理解を得やすいと思ったんだろ。ヒャクブンはイッケンにシカズってやつだ」


 クロイの名前が出てきて、奏多はヒュッと息を飲んだ。「ノックを忘れずに」……確かにあの一言を放ったということは、彼がどんな状況下で奏多と再び合間見えるのか予知していたかのようだ。


「これで納得いったろ」


 トーマは床一面に転がる花を蹴散らして立ち上がった。


「オレは呪われてんだ」


 呪い。相手が憎くて憎くて仕方がない。

 呪い。呪いを受けた彼。呪われている。

 彼は……一体、何をしたんだろう。


「はあぁ……。……ようやくその呪いを解く方法が見つかったと思ったのにな」


 独り言のようにつぶやいたトーマに、奏多は「そうだった」と声を上げた。


「その、手鏡のことなんだけどね!」


 奏多の言葉にトーマが身を乗り出す。


「まさか、修理出来そうなのか!?」

「う……。あ、いや、そこまでは分かんないんだけど……」

「なんだよ。だったら期待させるようなことなんか言うなよ」

「ごめん……」


 このままだと、「ごめん」が口癖になってしまうなぁ、と奏多は一人ごちながら、


「さっきクロイさんが色々調べるって、言ってたよ」

「あれは、オレを安心させるためにとりあえずああ言ってるだけだ。分かってる」

「…………」


 否定も肯定も出来ない。

 気まずい空気が流れる中、トーマはキッチンに立って蛇口から冷たい水をゴクゴクと飲んだ。

 栓をひねって口元をシャツの袖で拭くと、思い出したかのように奏多を振り返った。


「そうだ。オマエ、オレになんか用があってここまで来たんだろ」

「おっ、オマエ……って、私は、奏多って言うの! ちゃんと自己紹介したでしょ」

「興味ないからそんなの覚えらんね」

「こっ……このっ……!」


 煮えたぎるものを抑えて、奏多は先ほどの質問にキチンと答える。


「あのね。クロイさんがアナタを呼び戻しに行ってくれって。もう頭が冷えた頃だろう、って」

「ハイハイ。一言多いんだよ。先に行っててくれ。着替えてから行く」


 ふぅ、と溜息を吐くトーマは気のせいか、先ほどよりも落ち着いているように見えた。


       ◇◆◇


 先にクロイの元へ帰ろうと部屋を後にした奏多は無機質なドアを閉め、再び何もない廊下を歩いていた。


 彼女の心音は、これまで聞いたことのない音を立てていた。


 未だに信じられない——しかし、先ほどの光景は確かに自分の目の前で起こって、確かに現実なんだということを、ようやく脳味噌が理解した。脳が理解したところで、体感的にはやっぱりあれは夢だったのではないかとの疑念がふつふつと湧いているのだが。


 ——いや、いや。でも、でも。


 先ほどから、否定しては肯定し、否定しては肯定——この繰り返しだった。

 

 彼は魔女に呪われていて、その呪いのせいで苦しんでいる。そしてその呪いを解くために必要なのが、自分が壊してしまった手鏡……。


 そこまで考えてから、はたと気づく。


 そもそも私が今いる、この世界って……。


 『他人よりもまず己の身を案じよ』とはよくいったものだが。


「え……え? 待って……いや、うん。落ち着こう、私。……。ここ、どこ……!?」


 よく分からない事態が立て続けに起こったので無理はない。


「私……」


 急激な不安に駆られる。


「私、お家に帰れるのかな……」


 ここが日本なのかすら分からない。

 多分、日本じゃない気がする。何故か言葉は通じているけど……世界のどこかには、日本語が通じる国でもあるのかな。


 持てる知識で精一杯考えてみて、結局ひとつの結論に至った。


「ひとまず、クロイさんに相談しよう」


 良い人そうだったし。きっと、何か力になってくれるはず。


「うん。そうだよ、きっと」


 あえて口に出して、自分を鼓舞する。


 ——よし。


 固く拳を握りしめ、再び廊下を歩き始める。いつのまにか向こうから人がやって来て奏多とすれ違った。


「——この世界に異物が混入したと思ったら」


 すれ違いざまにつぶやかれたその言葉は奏多には届かなかった。

 と、今度は先ほどよりも幾分か大きな声で——といっても、耳元で囁かれてようやく聴き取れるくらいの声で、その人物は奏多に囁きかけたのだった。


「アナタ、元の世界に戻りたくない?」

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