第5話 断片

1.

 太陽が高く昇った頃に起き出した彼らは、ジェシーの用意した遅めの朝食、というよりは、昼食を取っている。昼食のメニューは白身魚とトマトのスパゲッティ、野菜のたっぷり入ったスープ、レーズンの入ったパンである。加えてテーブルの上の水差しはいつものジェシーの水にレモンが添えられて爽やかな香りを放っており、初めて水瓶座のジェシーの水を口にしたセシリアは目を真ん丸にして驚いていた。

 食事とジェシーの水の美味さ、そして家族が揃った安堵で寛いだ心を取り戻したセシリアの語るには、やはり彼女をさらったのはリーチ・ティーチで、ティーチの後ろには更に黒幕がいるそうで、どうも黒幕というのは貴族らしい。ここまでは水瓶座が懸念していたよりもはるかに滑らかにセシリアは語ったのだが、しかし黒幕の名や、"例の物"とアルフィナの血筋について話が及ぶと、途端に口が重くなった。


「そんな顔をしちゃ美人が台無しだ」


ディリンジャーがセシリアのグラスにレモン水をついだ。


「お心遣いありがとうございます」


少し頭を下げて、セシリアは一口水を含んだ。口中に拡がるレモンの爽やかな香りと、ジェシーの魔法がさざ波のように揺れる心に沁みていく。微かに眉間に皺を浅くして、セシリアは改めて家族の顔をひとりずつ見つめていった。


「あのね、みんな。もしも、みんなの覚悟がまるでできていなかったとしても、アルフィナが自分の能力に自覚してしまった以上、それに関わるわたしが知っていることはすべて話すつもりよ。それが父さんとの約束だから。けれど、これはわたしたち家族の問題。アルフィナが水瓶座の皆さんに頼んだのがわたしの救出なら、もう十分に依頼は果たして下さっているでしょう」


これには家族も一度黙った。確かに、もう十分すぎるほど水瓶座には世話になっている。


「もうわかっていると思うけど、他人を巻き込んでいいような話ではないの」

「おれたちの力を信じられないっていうなら、それはきみの判断だよ」


不意に、それまでずっと黙って食事を続けていたキッドが口を開いた。いつ間にか彼の前の皿だけ、料理がすべてなくなっている。スープの最後の一口をキッドが飲み干すのを見ながら、セシリアは軽く目を伏せた。


「信じられないだなんて、そんなこと。あなた方が手伝って下さるのならどれほど心強いか……。ですが、あなた方にどれだけ迷惑がかかるか知れません」

「だってさ、ママ」

「水臭いわねぇ。……なんて、甘っちょろいことを言うような暮らしを、あたしたちもしてきた訳ではないけれど」


ジェシーの切れ長の瞳が、正面からセシリアの顔を見た。


「でも、妹さんの魔法でも、あたしたちは有用だそうよ」


セシリアが一度、ジェシーの瞳を見返して怪訝そうに視線をそらした。それからとなりのアルフィナに顔を向け、数日会わない間に何か起こったことを改めて実感しながら説明を求めた。


「あなた、本当に自分の魔法を知ってしまったのね、アルフィナ」

「まだ使いこなせてはいなくて、本当に"そういう気がする"ぐらいなんだけれど……」

「小さな頃からあなたの"気のせい"は外れたことないじゃない」


親しい姉のことばに、アルフィナはそばかす顔を微かに緊張させたが、その眼差しは真剣であった。リーチ・ティーチに連れ去られる前とは明らかに違う強さが妹の瞳に宿っていることを知り、セシリアは誇らしいような、少し淋しいような気持ちを持て余した。

 風に揺られて舞うばかりの野の花のようであった妹が、自分で風を掴んで飛び立つ鳥にいつの間にか変身している。籠に閉じ込めておくことも愛情であるかもしれないが、守るつもりが傷付けてしまう場合もあろうことをセシリアは知り、そっと妹の頬を撫でた。


「そう。本当に、この方たちを信じているのね」


アルフィナのブラウンの瞳が微かに揺れて、音もなく滑って向かいに座る青年を見た。姉妹を救出してくれた青年である。アルフィナが運命を運ぶ鳥ならば、彼は翼を休める木であろうか。それとも運命の受け取り手なのであろうか。セシリアには予言のような能力はないから、わからない。

 だが、セシリアには姉として、妹をずっと誰よりも近く見守って来た経験と愛情があった。その二つの魔法を超える得難い能力が、彼女の愛する妹の小さな胸にあらわれた萌芽を見つけて、少女の新たな季節が到来したことを姉に告げていた。

 セシリアは、真面目に全員の顔を順に見回した。祖父母にはやや恐れが見えたが、水瓶座の四人とアルフィナからの拒絶は感じられない。ならば、と、セシリアは目を閉じて、また一口水を飲みくだす。心にまで染み渡る魔法の水が、弱い心に決意を促した。


「わかりました。お話します。でも……おじいさん、おばあさん、そして……誰よりも、アルフィナ。わたし、これからあなたにとって、とても酷い話をするわ。許してね」


となりのアルフィナが唾をごくりと飲み込む音がした。セシリアはその妹のそばかす顔に瞳を向けて、まずは微かに笑ってみせた。


「でもね、ひとつ誤解しているわ。あなたは何か勘違いして、自分のことをまるっきりの養子だと思っているらしいけど、あなたは本当に母さんの子だし、あたしの妹よ」


アルフィナの頬にさっと喜色が紅を刷いた。


「本当なの?セシリアは、本当にあたしの姉さんなのね?」

「そうよ。落ち着いて考えればわかるでしょう。わたしたちの花の魔法、おばあさんと一緒でしょう。これはおばあさんから母さんへ、そして、わたしたちに受け継がれてきたものよ」


養子ではなかった!アルフィナはまずその事実に喜んだ。自分は祖父母とも、母とも、姉とも、血のつながった家族。母の顔は知らないが、きっと姉に似た美人であろうと思っている、その美しい母から産まれたことを信じていていいのだ。

 その喜びと同時に、アルフィナは自分の魔法がやはり万能でないことを知った。家族と血のつながりがないのではないかと恐れるあまりに動揺し、本来使えるはずの魔法能力が妨害され、真実を見抜くことができなかったのである。まだまだ自分の魔法を制御できていない証であった。

 だが、それに気が付いたところで急に落ち着いてすべてを見通せるほど、少女は達観していない。束の間の喜びが収束すると、次の不安が湧きあがり、少女の視界に再び濃い霧をかけた。


「……それじゃ、父さんは?」


母の顔を知らないアルフィナには、実際には父だけが親であった。だが、話の流れを考えれば、父こそが、血のつながりのない家族だということになってしまう。

 アルフィナの心細げな声に顔を上げたのはキッドである。ジェシーが大盛にしてくれた食事をすっかり平らげて、水を飲みながら話を聞いていたが、このときふっと瞼を持ち上げてセシリアを見た。セシリアも、それに気が付いた。

 セシリアと目が合うと、キッドはまた視線をすっと手元に落として黙った。今、何かを言う気はないらしいが、この青年は何か勘付いているのではないか、セシリアは訝しんだ。

 セシリアは水瓶座ほどに魔法が使えなかったが、知識として、魔力の波動を読み取れる魔法使いが多くいることは知っていた。役人たちは現場に残された魔力痕を分析して犯人を追跡することができたし、血縁関係にある人間の魔力の波動は類似するため、それで生き別れの親子が再会できたなんて美談もある世の中なのである。あるいは、この青年もそういう理由でアルフィナの正体にはじめから気付いていたのではないだろうかと疑ったのである。

 アルフィナは水瓶座の全員を信頼していたが、殊、この青年に対する視線が違うことは姉のセシリアの目に明らかで、やはりこの青年が、妹の人生に何か深い関わりを持っているのは確からしい。それが吉凶いずれかはわからない。吉であることを祈るのみだが、青年は未だ何も語らぬつもりらしく、セシリアは諦めてとなりの妹に目線を戻した。

 妹に、真実を話さねばならない。妹の本当の名を、そして、本当の父の名を。セシリアにとって、その名はあまりにも重かった。だが、告げる時が来てしまったのである。

 

「あなたの父方の名……いいえ、アルフィナ、あなたの本当の名は、"フィリツ"よ。アルフィナ・ニーア・フィリツ。それが、あなたの名前」


少なからぬ衝撃が座を走った。当然である。フィリツとは、この国の王家の名であった。

 アルフィナとて、さすがにそのぐらいのことは知っている。だが、自分が王族だなどと信じられるはずがない。ブラウンの瞳は、あまりのことに見開かれもしなかった。


「……そんなはず、ないでしょ?だって、あたし、あんな田舎の子で、フィリツなんて……」


だが、冗談にしてはあまりにもつまらない。姉の目は真剣であった。


「信じられないのも無理はないわ。でも真実よ。あなたの本当の父親は、ソルドロ・トールセン・カレド・フィリツ殿下。先代のカレド大王の第四子にして、当代のリトレ・フィリツ陛下のご実弟でいらっしゃる、ソルドロ殿下なのよ」

「まさか!」


アルフィナよりも早く、祖父のジェラルド・アマートがテーブルを叩いて叫んだ。キッドが冷めた目つきでグラスを持ち上げて、自分の水が零れないようにしたことに気がついた者はいない。


「ソルドロ殿下がアルフィナの父親だと!?そんなことが有り得るはずがない!」


アマート氏はあまりに予想外のことに憤慨しており、となりでは夫人が青ざめていた。やはり、この祖父母もアルフィナの父親については知らなかったのである。アマート氏は続けてセシリアの肩越しにアルフィナに語り掛けたが、その顔は強張っていた。


「アルフィナ、大丈夫か。まさか、有り得るはずのないことだ、お前が殿下の御子だなどと。母さんが殿下にお近づきになれるはずはないのだからな」

「そんなに、すごい方なの?」


王弟というだけでどれだけ位が高いかわかりそうなものだが、アルフィナは動揺していて変な質問をした。その心情を慮り、祖父は深く頷く。


「そうだ。何しろ、国王陛下の弟君であらせられる。先代、先々代の御名を受け継がれていることからもわかる通り、将来を期待され、約束されていた、偉大な方だった。……あの時までは」

「あの時……?」

星の遺跡パシェ・タルトの氷の海ね」


ジェシーが唐突に口を開いた。アマート夫妻が驚愕の表情で赤い口紅の大男を見る。まったく予想通りの二人の表情を、ジェシーはわずかに眉を持ち上げて見返した。


「驚いてらっしゃるの。そうでしょう。お上はかなり厳しく緘口令を敷いていたはずだものね。でも、そのぐらいのことを知らなくて、水瓶座の座長はやってられないわ」

「馬鹿な。あの事件は、その場にいた者しか知らないはず……」

「そうよ、その場に目撃者は大勢いたわ。その全員が白昼夢だと思い込めるとでも?あるいは、あなた以外の兵士が皆、自分の胸の内にあの衝撃を留めておけると信じてらしたなら、ミスター、あなたにお婿さんが真実を言わなかった理由がわかろうというものよ。きっとアルフィナの真実の話は、お人好しには耐えられない物語なんだわ。そうでしょう、セシリア」


ジェシーのことばに、セシリアがつらそうに目を伏せた。アマート夫妻が話が見えずに、あるいは見えていて見たくないように、しきりに互いの顔を見ながら顔を歪めている。当事者たるアルフィナは、姉の表情に不安を濃くしたが、それでも顔を上げてジェシーを見返した。


「でも、ここまで来てやっぱり話を止めてなんて言わないわ。わかるように教えて、ママ。パシェって、なんのこと?」

「古い言葉よ。星の国ゲーツァ・タルトの言葉で遺跡のこと。この国の最北端、ゲ・ト・シュツィオの町から見える、海面から突き出た謎の輝く建造物の一部を"星の遺跡"と呼んでいるの。確かにそこに見えるのに、海からも空からも誰も触れることはできない。奇妙な封印魔法がかけられていて、何もわからない"それ"は、昔から彼の国の遺跡だと言われてきたわ。封印魔法を解き、遺跡の詳細を調査することが、伝説の星の国ゲーツァ・タルトの秘密を解く鍵になると考えられている。――最後の調査は、そう、二十年ほど前だったわね。緘口令が敷かれていた事件を知っているのなら、ミスター、あなたは調査に加わっていらしたんでしょう?」


ジェシーとアルフィナの視線に、ジェラルド・アマート老人は顔を俯けた。妻がそっとその肩を抱くと、その皺だらけの手に己の手を重ねて、アマート氏は嘆息した。


「ええ。正確には二十一年前。わしは、あの海におりました」


後星暦1713(王国歴220)年、遺跡調査隊が北端の町ゲ・ト・シュツィオに到着したのは春の日の午後のことであった。天気もよく、波も穏やかで、翌日、調査隊は早速に調査のための船に乗り込み、町を出た。

 遺跡の周囲は特殊な封印魔法による結界がはられている。目視では距離数メートルのはずの遺跡に近づくと、いつの間にか反対に数メートル先まで空間を飛び越えてしまって、それ以上距離をつめることができないのだ。また、周囲の海域では遺跡が放つ強大な魔力に釣られて、危険度の高い魔獣が多く棲息しており、遺跡の調査のためには選りすぐりの戦士と魔法使いが必要なので、彼らを援助するための多数の名もなき兵士たちも同じく欠かせない存在であった。その中に、アルフィナの祖父ジェラルド・アマートはいたのである。

 この時の調査隊には、当時の王カレドの三人の息子たちが参加していた。長男のウォールナッド、次男のリトレ、そして三男のソルドロである。王の子どもたちの中でも抜群に生まれつきの魔力が強大な三人で、魔法権威のエドクセン王国にあって、魔法才能の豊かな王子たちは次の玉座をかけて争っているライバルでもあった。今度の調査でいかなる働きをしたかで後継者が決まるとも噂されていた。


「ウォールナッド殿下は知恵と正義感をお持ちで、ソルドロ殿下には勇気と純然たる攻撃力がおありでした。わしはソルドロ殿下の御座船のお近くに侍る小舟で、そのお姿を見つめる老兵だったが、今思えば、お二人のその才能がいけなかったのかもしれません」


アマート氏は語る。老いた瞳には昔日を懐かしみ、同時に恐れる風があった。

 長男のウォールナッドが結界に綻びを見つけ、それを広げるべく、兄弟は魔力を結集させて伝説の魔法国家に挑んだが、それは丸太で門扉を破るような、強引で暴力的な方法であった。

 三人の王子を先頭に、王国の精鋭魔導士たちが総力を挙げて結界に攻撃を仕掛けていた。見えない障壁に弾かれながら、強大なエネルギーが、強烈な光と、雷にも似た音を轟かせながら必死に壁を突き破ろうとしていた時、突如目も眩むほどの閃光がほとばしり、調査船団が吹き飛ばされた。


「訳がわからなかった。何か衝撃波のようなものをくらったと思うのですが、とにかく、気が付いたときには、わしらは全員海に投げ出され、船は壊れて……」


ジェラルド・アマートは、そのとき、咄嗟に近くに浮いていた船の破片らしい木材に捕まった。付近で同様に生き抜くためにできる限りのことをしていた仲間たちの動きが止まったのは、直後であった。不意に虹色の光が辺りを包み込み、調査隊の全員が一斉に遺跡の方向を見た。


「虹色の光は遺跡から放たれていました。眩さに耐えながら必死で目を凝らすと、遺跡の前にひとりの男が空中に浮いて立っていたのです。光のため定かではありませんが、生身の人間とは思えないような美しい男だったと記憶しております」


その男が船団を攻撃したことは疑いようがなかった。恐らく、遺跡の守護者であろう。この世の者とは思えない神々しい光を放ち、冷たく美しい目で男は先頭の三人の王子を見下ろすと、その引き結んだ唇を開くことなく、幻のように消え去った。

 一瞬の沈黙の後、かろうじて船の残骸に立っていたソルドロが雄叫びを上げて遺跡に生身で突進した。勇気と力ともに、彼は強烈な自意識を持っている男であった。

 ソルドロは足場にしていた船の残骸を強く蹴って高く跳躍し、残った魔力を拳に集中させて遺跡に殴りかかったが、既に遺跡の結界は完全回復を超え強化されており、ソルドロの体は空しく弾き返されて海に落ちた。

 そのとき、周囲から獣の咆哮が響き渡った。調査団の総力を結集した魔法と、そしてそれをはるかに凌駕した遺跡の守護者の魔法、そして遺跡の封印結界……膨大な魔力反応に引き寄せられた海の魔獣たちが一斉に調査団のいる海を目指し、襲って来たのである。

 ウォールナッドは氷の魔法の使い手である。彼は咄嗟に自身の魔法で周辺の海ごと魔獣たちを凍らせて人々を逃がしたが、そのときの魔法規模は類を見ぬ広大さであった。そのため「氷の海事件」と称されている。不思議なことに、船の多くが大破したものの、遺跡の守護者の魔法により負傷した者はほとんどいなかった。しかし魔獣が迫っているとなれば命が危うい。みな、必死に泳いで逃げた。

 長男ウォールナッドの氷に続き、彼らを守ったのは次男のリトレであった。リトレはこの時までただ魔力が強大である以外の才能を見せたことがなかったが、この時初めて、その強大すぎる魔力を以て魔獣の攻撃を防いだ。それは自身を守るためにやったことであったが、魔力の大きさに比例して結界自体も大きくなったため、結果として調査団全員を守ったことになり、その功績により今の地位があると言ってよい。残る二人の兄弟は挺身して大きく負傷し、玉座をめぐる争いから脱落した、というのが、当時関係者たちの間で流れた噂である。

 がっくりとうなだれながらアマート老人は語った。心配したセシリアが、祖父の肩にそっと手を置くと、アマート老人は何度も首を振ってから孫娘の顔を見つめた。


「ソルドロ殿下はお変わりになられた。元々、粗野な言動の目立つお方ではあったが、事件以来、いよいよ乱暴で気難しくなられたのだ。それが、アルフィナの父だと?」


信じられん、老人は再び机を叩いた。そんなことがあるはずがない。自分の愛する娘が、あの男に抱かれたというのか。いつ。何があって。

 セシリアが祖父の疑問に答えるに、ギリギリと拳を固く握った。


「母さんがお城に行ったことは何度もあったわ。父さんに会いに行っていた。そのときに、殿下が母さんを無理矢理に……」

「そんな!」


悲鳴をあげたのはアルフィナである。ブラウンの瞳を大きくみはり、小刻みに体を震わせながら立ち上がった。


「嘘よ……。そんな……。嘘。嘘だっ!」


本当の親を知りたいと自ら言ったとはいえ、いくらなんでもこんな話を聞く覚悟があったはずはない。セシリアが産まれる以前、既に両親は結婚していたはずである。ソルドロは人妻に手をつけたということであり、しかも、母はその行為を拒もうとしていた――つまり、母は強姦された。その結果が自分という命だなんて!アルフィナは心が上げる悲鳴のままに涙を散らして叫ぶと、その場から逃げようとした。

 となりを走り去ろうとしたアルフィナの体を、キッドが立ち上がって抱き止め、抑えた。混乱しているアルフィナは泣きながら、腕を振りほどこうともがき出す。


「離して、キッド!あたし、こんな話、聞きたくない!」

「きみが聞くと言った!」

「いやっ!だって、あたしは母さんの子で、姉さんの妹で、おじいちゃんとおばあちゃんの孫で、みんなに愛されて生きてきたと思ってた!なのに……なのに、そんな無理矢理に、なんて……そんな話なら、あたし、聞きたくなかった!あたし、望まれて産まれたんじゃなかったのよ!本当なら生まれてない人間だった!愛されてなんか、なかったんだ!」


アルフィナは悲痛に泣き叫んだ。大好きな家族との血のつながりが証明され、喜んだのも束の間、自分がおぞましい行為の結果できた子どもだと知ったのである。アルフィナのその姿に祖父母が涙を流したが、彼らもまた衝撃から立ち直ることができず、孫娘を支えてやることができなかった。

 そんな家族の様子が、キッドには悲しかった。


「望まれない産まれだったとしても!」


キッドがアルフィナを抑えながら叫んだ。驚いたアルフィナの動きが止まる。少女の体をしっかりと両腕で抱いたまま、キッドが切なげな声を出した。


「望まれない産まれだったとしても、愛されていなかったなんて、きみが言うなよ」


アルフィナが顔を上げた。その顔はまだ衝撃と悲しみに濡れ、眉間に皺を寄せて緊張していたが、少女のそばかす顔を見下ろすヘーゼルグリーンの瞳もまた、微かに泣いているように見えた。その複雑な色彩には、深い悲しみと淋しさが広がっている。少女の思いもよらないような苦しみが青年を捕らえていることをアルフィナは知った。

 アルフィナは、先日自分が、そのつらい過去の一端を覗いたことを覚えていなかった。だが、仮に覚えていたとしても今は驚いたであろう。それほど哀れな美しさを、このときのキッドの瞳はたたえていたのである。そして、これほどの孤独な色を隠して、普段まるで無垢な澄んだ輝きを放つ瞳を持つキッドという青年の強さを想った。

 彼は、どうやってこの悲しみを隠して、いつも笑っているのだろうとアルフィナは思った。この時も、キッドは笑っていたのだ。一瞬だけ悲しみを吐き出すように叫んだけれども、アルフィナが見た時には、キッドは少女に微笑みかけていてくれたのである。その優しさにアルフィナは肩の力を抜いて、そっとキッドの袖を握りしめた。


「愛していたわ」


セシリアが呟いた。アルフィナが振り返る。


「愛していたわ、アルフィナ。母さんは、あなたを愛してた。だからあなたを産んだ。あなたを産まない選択だってあったけれど、父さんと母さんは、あなたを産んで、育てることを選んだの。だから父さんは城勤めをやめたのよ」


姉妹のよく似通ったブラウンの瞳から、同時に涙が零れ落ちた。こんな話をして、セシリアだってつらくないはずがない。今この場で言わねばならないと自分を励まして、必死に平静を装ってみたが、彼女もまだ十九の乙女なのである。

 キッドがアルフィナの背中をそっと押した。一瞬、アルフィナは躊躇したが、すぐに早足で姉の胸へ飛び込んで、また大粒の涙を流した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、セシリア!」

「あたしたちは、みんなあなたを愛してる。それだけは忘れないで、アルフィナ」


姉妹が泣きながら抱き合う姿に、祖父母もやっと立ち上がって二人を抱きしめた。

 それは感動的な光景ではあったが、メアリーは見ていない振りをして水を口に含んだ。これでめでたしめでたし、いつまでも幸せに暮らしました、と言えるならば、どんなにいいだろう。愛し合う家族四人をしばし見守って、ディリンジャーが咳払いする。一家は慌てて離れた。


「いや、感動のエンディングにしてあげたいのは山々なんだが、申し訳ないな」

「いいえ!すいません!続きをお話します!」


セシリアが涙を拭いながら座りなおす。そう、まだ肝心な話が終わっていないのだ。ジェシーが空いた皿を下げながら、淡々とこれまでの話をまとめた。


「ご主人の職場に顔を出した時にソルドロ殿下に目をつけられたお母さんが、身籠ったことをわかっていて実家に戻った。ご主人は妻のために仕事を辞めて、今は遠くへ出稼ぎに出ている。アルフィナは王族の血を引いていて、とんでもない魔法を使えるけれど、あなたたち親子はそれを隠しながら、それとは関係のない、慎ましい暮らしを送っていた。そういうこと?」

「えぇ、あらましは」

「でも、それだけが真実じゃありませんわよね」


メアリーの指摘に、セシリアがピリッと瞼を震わせた。アルフィナが首を傾げる。


「まだあるの?」


正直を言って、アルフィナにはこれ以上の話を耐える自信がなかった。今だってキッドが止めてくれなかったら、この隠れ家を飛び出してしまっていただろう、と、無意識にアルフィナの視線はキッドを探した。

 そのキッドがいつの間にかまたひとりでパンをかじっているの見て、アルフィナはぱちくりと目を瞬かせた。まったく拍子抜けした気分である。まだ恐ろしい話が続くのかと怯えたアルフィナであったが、キッドのその無造作な姿が、不思議と不安を落ち着かせてくれた。


「なんか、あたし大丈夫な気がしてきた。話して、セシリア」


アルフィナが何故だか力強く頷くので、セシリアは不思議に思ったが、落ち着いてくれたのならば越したことはない。

 アルフィナの声を聞いたキッドが、これで話を進めてよさそうだと判断したのか、口いっぱい頬張ったパンを水で流し込んでセシリアを指差した。


「ソルドロの名前まで出したんだ。つまり、敵の狙いはアルフィナってことだろ?リトレの次の王が誰か、後継が決まっていない今、ソルドロの隠し子ってのは、なるほどちょっと厄介だ」


アマート一家がそろって再び全身の筋肉を緊張させた。対して、水瓶座の四人は落ち着いている。次の玉座をめぐるお家騒動らしい、など、アルフィナがフィリツ家であると知らされた瞬間に、簡単に予想できる話であった。

 彼らとしても想像以上に大きな話になったのは間違いないが、そう考えて遠慮しようとしていたセシリアに、この場で話をするよう促したのは彼らでもある。今更聞かなかったふりもできないし、この期に及んで協力しません、というのも、あまりに薄情だ。アルフィナと違って、彼らにはその程度の覚悟はあった。

 とは言え、感情論は抜きにして、必要な情報がまったく不足していた。ディリンジャー、メアリー、ジェシーと三人が順に口を開く。


「リーチ・ティーチはケチなコソ泥だ。とても直接政治に絡むような男じゃあない。やつに入れ知恵した何者かってのが気になるところだな」

「"例の物"っていうのは、それ自体が力を持つものですの?それとも、何かを証明するものかしら。例えば、王家の血筋とか」

「敵はアルフィナちゃんの力を知っているのかしら?それによって対応も変わるはずよ。予言者の力は貴重な導きだもの」


最後にキッドがヘーゼルグリーンの瞳をまっすぐセシリアに向ける。


「きみたちの父親が、今度の騒動に本当に絡んでいるのかも重要だ。まだ城と繋がりが?」


水瓶座がそろってセシリアの顔を見つめた。

 セシリアはもはや視線をそらすこともできなかった。彼女は母の最後の願いを託され、父のために秘密を守って来ただけの乙女で、根はアルフィナと同じ農家のそばかす顔の娘である。胆力に於いて水瓶座にかなうはずがない。もう、こうなったら、何もかも話してしまおう、助けてもらおう、と思った。


「父の敵は知りません。でも、父がかつてお仕えしていた方はわかります。――先年、お亡くなりになられた、ヤルタ妃殿下です」


キッドがその名を聞いて、微かに目を細めた。


2.

「ヤルタ……。ヤルタ・ベルリアニ・フィリツ……?」


キッドとメアリーがほとんど同時に同じ名前を呟いた。さらにことばを続けたのはメアリーである。


「ウォールナッド殿下のお妃ね。お父様は、彼女に直接?」


メアリーの問いかけにセシリアは少し考えてから答えた。


「わたしも父からは最低限の話しか聞いていないんです。母は小さい時に亡くなったし、母の日記も残ってはいるけれど、城のことはあまり。お仕えしたと言っても、どれほど関わっていたのか……。あなたは妃殿下を?」

「昔、少しね。本当に昔。……そうですわね。ずいぶん重大なお話を聞いてしまったから、わたくしもひとつだけ告白しますわ」


懐かしい人を思い出しているのか、メアリーの唇がいつもに増して美しい笑みの形をつくる。メアリーはグラスの中の水を眺めつつ、自分の中のあたたかな思い出を取り出した。


わたくしは、とある貴族の出です。いろいろあって、今は身分も失ってしまって、ママにお世話になっている身ですけれど、ほんの幼い頃にはお屋敷に住んでいましたのよ」

「メアリー、お姫様だったの?」

「あら、アルフィナ。あなたの方が位は上かもしれなくてよ?わたくしはフィリツではないもの」


メアリーが美しい笑顔と美しい声で言えば、王弟の娘だという重苦しい事実もなんだかおとぎ話のように華やいで感じられて、アルフィナが微かに目元を赤らめた。そんなアルフィナの反応に、メアリーはこれまた眩しいほどの微笑を向けてから、細い指を伸ばして水差しのレモンをつまむ。


「あの方は、このレモンのよう。ヤルタ様にお会いしたのは、今のあなたより小さい頃でしたかしら。腰まで届く絹のような亜麻色の髪に、ライトブラウンの優しい眼差しをお持ちの、春の日差しのような方でしたわ」

「亜麻色?」


はた、と、セシリアとアルフィナが姉妹で睫毛を上下させた。亜麻色の髪といえば、昨夜彼女たちを救出してくれた人物と同じである。メアリーが、くすり、悪戯めいた笑みを浮かべた。


「そう。キッドを変装させるときの髪色はわたくしが選びましたの。キッドははじめ嫌がりましたけれど、なんでだったかしら」

「嫌がったのは、あの変装ぜんぶだよ」

「そうでしたわね。でも、あなたが初めてあの鬘を被ったとき、わたくしは、あなたの眼差しが不思議とヤルタ様に似て見えて、こっそり驚いたんですのよ。もちろん、輝きは天の星と地面の石ころほども違いますけれど」


キッドが口元を膨らませてそっぽを向いた。それを見たメアリーがクスクスと微かな声を立てて笑う。

 この女はよくこうして笑い、その笑う声には少女のような可憐さがあった。アルフィナが初めて見たメアリーは、あの薄暗いテントの中の眩いステージの上に凛と立っていて、炎の女神のような迫力と強さを持ち、男たちが波濤のような歓声を上げ、熱狂的に歓迎していた美女である。それがこのような笑い方をするのは意外であったが、アルフィナはその案外に悪戯っぽいところを好ましく思った。


「そのヤルタ様ってお妃様、素敵な人だったのね」

「ええ。今まで会った誰よりも高貴な美しさをお持ちの方でしたわ。それでいて本当にお優しいの。わたくしがヤルタ様とお会いしたのは、実は一度だけ。ほんの短い間で、二言、三言、挨拶程度の会話をしたかしら。お話したことは覚えていないけれど、それでも本当によい方だったと思っています。直接ではないにしろ、あの御方にお仕えしていたのなら、あなたたちのお父様のことは、私は信じられるように思いますわ」


メアリーが穏やかで美しい眼差しをセシリアに向けた。しかし、アマート家族がほっと安堵したのも束の間、メアリーの瞳は直後、ぴしりと厳しい輝きを放つ。


「ですけれど、それはあくまでわたくしの感情論」

「感情論?」

「仕事は別だ」


メアリーのとなりから、ディリンジャーの低い声がした。意味を理解したセシリアが、テーブルの下で拳を握りしめる。


「わかっています。でも、助けてほしいの」

「報酬は」

「"例の物"を差し上げます」


全員の視線がまたもセシリアに注がれる。緊張のあまり、チリチリと空気が微量の静電気を発しているような息苦しさを感じたが、セシリアは背筋を伸ばし、ジェシーの顔を見つめて条件を提示した。


「それと引き換えに、リーチ・ティーチと黒幕の男を追い払って下さい。本来ならば無関係のあなた方には絶対に渡せないものです。やつらが欲しがっている"例の物"――即ち、アルフィナがソルドロ殿下の子である証となる、光の指輪リツ・ペリューグをお渡しします」


ジェシーがカッと目を見開いてセシリアを見返した。美しい男である。赤い口紅を引いてギラギラと目を光らせる様は、どこか悪魔的ですらあった。しかしセシリアは怯まない。いや、内心では怯え切っているが、表面には出さないように努めていた。父の行方は知れず、既に敵に一度囚われた身である彼女には、もはや逃げる場所がない。ここで多少の無茶をしてでも、己と家族を守らねばならぬという意地と覚悟を必死に握りしめている顔つきであった。


光の指輪リツ・ペリューグですって?」


ジェシーの声がザラついた。メアリーも紫の瞳を、そこから何か魔法でも放ちそうなほど見開いてセシリアを凝視する。ディリンジャーは目を細めて顎を持ち上げて、キッドだけはセシリアの顔を見ずに、行儀悪く頬杖をついて睫毛を物憂げに伏せていた。

 セシリアの祖父母もやはり驚愕に顔色を青ざめさせている。アルフィナが王家の血筋だということすら知らなかった彼らは、婿と孫娘がこれまで隠していたことの重大さを思い知り、驚きを通り越して恐怖すら抱いている顔つきであった。

 肝心のアルフィナは、むしろ周囲のその空気に怯えていた。クルトペリオなどというならず者の町に来たり、夜中にひとりで敵地を視察に行ったり、親しい人のためには行動力のあるアルフィナであるが、この頃の彼女は、まだ基本的には、優しいが臆病な、そばかす顔の少女であった。この少女が美貌の師に出会い、成長するまでには、まだもう少し時がかかる。


「何か、また怖い話……?」


誰に尋ねるべきか視線を迷わせながらアルフィナが声を出した。キッドのおかげで衝撃と悲しみから立ち直りつつも、知らなかった真実が次々と暴かれていくことに対する恐怖と警戒とは、完全に消えてはいない。

 震える少女の声に答えたのは、ディリンジャーとジェシーである。


「大変に怖い話だな、本当なら。その指輪は、はじめエドクセン王国の建国を記念して、建国の父タンリツェン・フィリツ大王が特別に八つ作らせたっていう家宝だ。古い言葉をわざわざ使ってる辺りに価値が現れてる。値段をつけられるような代物じゃあないがね」

「八という数字でわかるかしらね。星の国の伝説の八勇者"八つ星パ・バルツァ"、史上最高の魔法戦士たち。その伝説にあやかっただけの、ただのアクセサリーよ」

「ただの、アクセサリー……」

「ええ。ただのアクセサリー・・・・・・・・・よ。最高級の金属と、最高級の宝石が材料で、フィリツ家の紋章である星の龍が刻まれたって噂の、ただの指輪」

「ママ?それって、ものすごく貴重な、本当に偉い人しか持てない物っていうことよね?」


今度は全員の視線が一斉にアルフィナに刺さった。ジェシーが代表する。


「レガリアのひとつよ」


さすがにアルフィナも目つきを険しくした。

 レガリア、即ち、王権の象徴たる神器。このエドクセン王国においては、王冠、王笏おうしゃく王盾おうじゅんの三種とされている。王冠は単純な権威の象徴で、王笏は攻めの魔法を、王盾は防御の魔法を、それぞれ意味しているという。魔法国家の長たる証の三種の神器は、いずれも星からの授かり物であり、神秘の力を持っているということになっているが、その実際はわかっていない。


光の指輪リツ・ペリューグは、レガリアというよりも、王位継承権を持つ証になる物ですわ。下級貴族や市民には公表していないものですけれど、王が認めた実力者だけに与えられ、そして八つの指輪をすべて集めた者が、次の王となる決まり……そんな話でしたわね。近頃はすっかり廃れた風習だということでしたけれど」


貴族の出だと宣言したばかりのメアリーが、その出身故に説得力のあることを言った。ジェシーら水瓶座がこのことを知っているのも、メアリーが話したからである。アマート老人の表情を見れば、その辺りの事情は一兵士であった彼よりもメアリーの方が詳細に知っているらしいことは間違いがなかった。

 アマート老人はとなりのセシリアを見た。その視線に気が付いたセシリアが、哀れむような視線を返す。父から聞いていたことと、母の日記に記されていたこと、そしてメアリーの話の内容は一致していた。

 ディリンジャーとジェシーが自分たちの中で内容を整理しようと、はっきりと声に出して疑問を呈した。


「だが、おかしくはないか。そのルールに則れば、指輪は王が子に渡すもの。ソルドロとやらは王の弟だ。これまでの王国の歴史の中で、王が兄弟に譲位したことがあったか」

「八代ヨシューネは六代ノルブの弟よ。ノルブの子・七代ツグルブが夭折したために即位した。でも今回の場合は、ソルドロが指輪を返還していなかっただけでしょう。先にカレド大王がウォールナッドとリトレ、ソルドロの三人の子に指輪を渡していたものの、例の氷の海事件によって二人が脱落し、争うまでもなくリトレが即位した。そのとき返すべき指輪を、ソルドロは持ち続けていたってところかしら」


更に、ずっと黙っていたキッドが、薄目を開けて他人事のように呟いた。


「リトレには跡を継がせるべき子がない。娘はほとんど臣下の家へ嫁いだし、男もだいたいみんな凡庸だ。跡継ぎがないのを周囲はどれだけ恐れていることか。……おれには関係のないことだけれどね」


その言い方はあまりにも不遜だとセシリアやジェラルド・アマート老人は思った。なるほど、王家の問題など、この小さな無法者アウトローには関係がないであろう。

 だが、ジェシーはこの問題に長く頭を悩ませていた。彼らの商売は、ずいぶん世情に左右されるのである。次の王が取り締まりを強化したりしたら、スタッフの中に日陰者を多く抱えた水瓶座は仕事ができなくなる可能性もある。

 後継者争いが激化して、実際刃を交えるようなことになったら、売る品物も変化するであろう。古来、戦争によって巨万の富を築いた例は数知れず、彼らもそうなれる可能性を持った一団ではあった。だが、時局を誤れば結果は真逆となる。商品を確保するためのルート、商売相手、これらは平時であろうと戦時であろうと流動的であり、不変の価値を持つ商品もない。

 加えて、水瓶座は自分たちの戦闘能力を商品とした裏家業にも片足を踏み入れており、規模は極小さいが、その性格はある種の傭兵集団でもあった。もしも王の後継者争いが更に発展するとすれば、そちらにこそ大きな影響があると見るべきかもしれない。既に、この自分の出自を知らなかった農村の少女にまで危害が及ぶ段階にあるとなれば、何名かの王族の間で既に争いは始まっていると見るべきか。

 その争いに加わるのは勇気と確かな判断力を要する。ルージュを引いた唇を引き結んで、この美しい男はずっと考えてきた。ジェシーは心優しい、正義の人として知られていた。老若男女問わず、どんな人間に対しても慈悲と愛情の籠った抱擁をすることができるジェシー・サダルメリクの人望があってこそ、水瓶座は成立している。指輪を受け取ることは、その平等を壊しはしないか。水瓶座にとって是か非か。ジェシーは迷った。


「ソルドロ殿下が指輪を下賜なさったのは、生まれてくる子の可能性にかけたということかしら。殿下には他に御子がおいでだけれど、可能性は多い方がいい。自分が座ることのできなかった玉座に、せめて自分の子を……人の親として、そう願うのは無理からぬこと」

「でもそれが争いを産むんです。わたし、もう恐ろしくって、いや。父が何をしたいのかもわからないし、そのために、あんな風に誘拐されて、脅されて、そんな戦いに、家族が巻き込まれるのは嫌なんです!」


セシリアが再び涙を流しながら語調を強めた。その意味がわからないほどアルフィナは愚かではない。むしろこのとき、アルフィナは乾いた瞳で姉の横顔を見つめ、事の重大さを見極めようとしている風であった。


「指輪を手放せば、王位継承権を放棄できる……?」


独り言のようなアルフィナの声に、セシリアは弾かれたようにとなりを振り返った。そこには自分によく似たブラウンの瞳を持った、妹の愛しい顔がある。

 アルフィナの呟きには、真実の断片があった。

 人質として攫われたセシリアの身柄は、ひとまず救出された。大きな怪我もなく、余計な財産も奪われず、無事に再会を果たしたのである。だが、水瓶座の言うように、敵がこのまま黙って引き下がるわけはない。安全確保のためには彼らの協力が必要だったし、それには仕事に見合う報酬も必要だと理解していた。

 好機だと、セシリアは決意した。

 水瓶座は、セシリアの見たところ相当の実力者に思われた。セシリアにそれを正確に見極める判断力などありはしないが、間違いなく彼らは彼女を救出し、また、未だ多分に未知の部分があるとはいえ予言能力を有する妹の信頼を得ているのだから、これ以上の保証はないであろう。しかも躊躇するセシリアに真実を話すよう要求したのは彼らの方である。セシリアは、彼らにすべてを託そうと決めた。

 それはつまり、水瓶座に面倒事を押し付ける、という意味である。


「そうよ。あなたが王なんて、なる必要ないもの。そのために、こないだより、もっと危ない目にあうのよ。でも王族の証なんてなければ、悪い奴らに狙われることもない」

「おっと、セシリア。その言い方はよくない」


ディリンジャーが八の字髭をいじりながら、子どもを諭すような言い方をした。


「ただの厄介払いに俺たちを利用しているって聞こえるが、そう受け取って構わないかね?」

「……ええ。構いません。父が何をしているのか、どこにいるのかだってわからない。でも帰ったら一緒に畑を耕そうって、約束したの。父が帰ってくる家を守るのが、わたしの役目です」


セシリアの瞳は真剣である。ディリンジャーの追及は続く。


「しかしな。なら最初から変な抵抗しないで、敵さんにぜんぶ渡しちまえばよかったろう?」

「それは……」

「そいつが王になるのは、嫌。だが、かわいい妹も自分も安全なところに隠れていたい、か?」


気まずい沈黙があった。セシリアは睨むようにディリンジャーを見上げ、ディリンジャーはずっと髭をいじっている。先に沈黙を破ったのは、セシリアであった。


「その通りです。ごめんなさい……わがままを言って……。でも……」

「いいわ」


ジェシーがセシリアの言葉を遮った。キッドがディリンジャーよりも素早くジェシーを睨んだが、ジェシーが大きな手のひらをキッドの顔の前に突き出した。一瞬、また不満そうに口元を膨らませたキッドだが、黙ったまままた顔を背けた。

 セシリアが、揺れる瞳をジェシーに向けている。ジェシーが同じことばを繰り返した。


「いいわ。契約成立よ」

「……成立?」

「エドクセン王国フィリツ王家に関わるスキャンダル、そして王家の至宝たる光の指輪リツ・ペリューグ。悪い話じゃないわ」

「……それじゃ……」


そろって期待に満ちた眼差しを向けるアマート一家に、ジェシーはとびきりのウインクをして見せた。


「だいたい、セシリアみたいなかわいい女の子に、こんな悲しそうな顔させるやつ、社会のために成敗しなくっちゃね!」


パッとセシリアの顔が華やいだ。


「ありがとうございます、ミスター・サダルメリク!」

「いやだ、ミスターだなんて!ママよ!ミスターも、ミスもミセスもお断り!」


手を振りながら裏声で主張するジェシーに、キッド以外の全員が様々な表情で顔を見合わせる。更に何か言おうとしたセシリアの口に、そのジェシーがピッと人差し指をたてて忠告した。


「勘違いしてはだめよ。あたしたちは、あくまであなたたち一家に降りかかる火の粉を払うだけ。対岸の火事の消火活動までするつもりはないわ」

「わかっています。お渡しする指輪については、皆さまのお好きなように」

「好きにした結果、あなたの大嫌いなリーチ・ティーチの親分に渡しちゃうかもしれないわよ」

「それは……いいえ、それでもいいの。言い訳にしかならないけれど、わたしの手からは絶対に渡せない相手でも、他のルートならばしかたない。運命だったと諦めます」


そう悲しそうに言うセシリアの手を、アルフィナの小さな手が包もうとした。まだ指の長さが足りずに、その手は頼りなく姉の手に重なっただけであったが、アルフィナの目は強く輝いている。口元に微笑を浮かべて、アルフィナは深く頷いた。


「大丈夫。セシリア、信じて」


セシリアは、戸惑いの笑みで聞き返した。


「"大丈夫"って……見えたの?未来が」

「えっと……ぼんやり、だけど。でも、セシリアは大丈夫だって、たった今、誰かに言われたような気がするの。おじいちゃんも、おばあちゃんも、もう危ないことはないわ」

「アルフィナがそう言うんじゃ安心ね。それじゃ、アルフィナ、もうひとつお願いするわ」


ジェシーが意味ありげに笑っている。アルフィナが察して、立ち上がった。


「セシリア。リーチ・ティーチの後ろにいるっていう貴族は誰なの。教えて」

「アルフィナ。あなた……」

「うん。占ってみる。この後、あたしたちがどうするべきか。あたしたちの敵って言う、その人が、どう動くのか。あたし、やってみる」


アルフィナが小さな拳を胸の前でぎゅっと握りしめた。その様子は無邪気そのものであったが、瞳は真剣である。アルフィナは一度、大きく深呼吸をした。突然閃いた家族の予言が余程良かったのか、非常に前向きで、張り切って腕捲りまでしていた。

 その様子を見たメアリーが、落ち着いて作業させるために食器を片付けながらキッドに耳打ちした。


「ずいぶん不安定ですけれど、あんなものですの?」


アルフィナの気分の落ち着きのなさを言っている。ボロボロと涙をこぼしたかと思えば夢見る瞳で覚悟を語り、不安に苛まれては突然予言を口にして、今や楽観の気配すらある。予言と言っても百発百中とはいくまいに、アルフィナはそれに関してはいやに自信があるようで、それも不安であった。

 メアリーの言いたいこともわからないではないが、と、キッドは軽く首を傾げて答えた。


「彼女はまだ自覚したばかりで魔法出力が安定していないし、だいたい、あんな話をしたところだもの。無理だよ」


キッドの声は遠慮がない。メアリーが何を言ったかはわからなかったアルフィナであったが、キッドのことばを聞き咎めた。


「無理じゃない!やります!」


やると言ったって、何をどうすればいいのかわからない。アルフィナはこれまで自分で意図して予言をしたこともないのだし、まだ姉の口から黒幕の名を聞いてもいないのだから当然だったが、キッドのことばが気に食わなかったようでやる気だけは漲っていた。とりあえず腕まくりした両手をぎゅっと握りしめ、全身を力んでみる。だが、何も起きない。

 胸の前で両手を組んで祈るようにしてみたり、やはり最初に戻って拳を握ったり、アルフィナなりに必死なことは伝わるのだが、占いは一向、成功の気配がない。代わりに少女の足元にはポンポンと愛らしい花が、少女が力むに合わせて一輪ずつ咲いた。


「あれれ?」


アルフィナが絵に描いたような戸惑いの声を出す。半径三十センチメートル程の小さな花畑が足元に誕生した頃には、ジェシーとアマート夫人が食後の紅茶とコーヒーまで淹れていた。ディリンジャーが髭を撫でて、咳ばらいをひとつした。


「オホン。……などとわざとらしい行動を取ってみるのもこの際いいだろう。お姫様、ちょっと一旦、力を抜こうか」


セシリアも小刻みに頷いて、妹に休憩を促している。アルフィナの肩が他人目にもかわいそうなほどがっくりと落ちた。術者の気分に同調するように、足元の花もそろって頭を垂れてしおしおと悲しそうに消えていく。


「なんでだろう……。さっきまでは考えなくっても知りたいことがポワッと浮かんでくるみたいに見えたのに」


メアリーとディリンジャーが同時に肩を竦めて、キッドに目配せをした。予言者の知り合いがいるというキッドが、今この場では最もアルフィナに適切な助言ができるであろうという期待が込められた目である。キッドは先程から二度それを無視したが、三度目で折れた。


「あー……えぇと、レディ?それを世間じゃ虫の知らせって言う。誰にだって起こる。他人のよりきみのは確かかもしれないけれど、そんなのは予言じゃなくって予感の域を出ないよ」

「それじゃ、どうやればいいの?」

「どうって言われてもな……」


キッドに占いができれば手取り足取り指導もできようが、彼自身が予言者なわけではない。首を捻って考えた。

 アルフィナには花を咲かせる魔力と、感応の魔力と、二種類が生まれながらに備わっている。前者は本人も以前から自覚していたものであり、身近に同じ能力者がいるからなんとなく使えるらしいが、後者はこの数日でやっと存在を知っただけの能力である。まだアルフィナ自身の体感として実感されておらず、これまでの経験から、意図的に魔法を使おうとすると前者の魔力が優先されてしまっていることは、先ほどの様子で明らかであった。


「まずは、二種類の使い分けができるようにならないと駄目ねぇ」


ジェシーが美しい手つきでコーヒーカップを口に運びながら呟いた。


「でも、さっきまではできてたの。あたし、キッドさんのことも占えたし、ついさっきセシリアたちの未来が輝いて感じたのも、絶対嘘じゃないもの」

「んー。でもレディ、そのときの感覚、表現できる?」


アルフィナの口が中途半端に開いた状態で止まった。キッドがほらね、と言わんばかりに両手を開く。


「無意識なんだ、きみは、まだ。予感を覚えていられるようにはなったけれど、意識して操作できるまでにはなってない。……よし。まず魔法の基本中の基本からにしよう。おれが魔法を教えるのも変だけれど、なんとかなるさ。いいかい。自分の体に川が流れていると想像してみて」

「川?」

「そう。その川の水がきみの魔力だ。魔力の川がみんなの体に流れているとしよう。それから、その川のどこかに、魔力の湖がある。これはダム湖。魔力を溜めておくためのもの」


アルフィナは目を閉じて想像してみた。自分の体の中のどこかで魔力が生み出され、それが川になって流れている。そして湖に流れ着く……。

 アルフィナは家の近くの川を思い出した。そこに馬を引いて行って、一緒に散歩をするのが好きで、その景色をイメージしてみたのである。清らかな流れを辿ると湖があって、陽光を反射した湖面に時折小魚が跳ね、パシャリと涼し気な音を立てている。


「それぞれの水量が魔力の大きさだと思って。川が大きな人は魔力をたくさん生み出せる。湖が大きい人は魔力をたくさん貯めておける。魔法を使うときっていうのは、そこから水を汲みだすイメージでいい」

「水を、汲みだす」


アルフィナは、川辺に膝をついてバケツで水を汲むときを想像した。素直な少女なので、そうやって具体的に想像すると微かに手も動く。その動きを見て、キッドはアルフィナが何を考えているかを察して話を合わせた。


「そのバケツさ、穴は空いてない?コップで足りるときもあるし、せっかく汲んだ水を零しちゃうときもあるだろ?つまり、その水の汲み方っていうのが、技術の部分。どうやって、どのぐらい汲むか、汲んだ後の水をどう利用するか、それが本来の魔法の扱いなんだけれど、きみの場合はその前から問題があってね」


アルフィナの眼がぱちりと開いた。


「問題?」


キッドどころか、全員が肯いている。セシリアが自分の右手にぱっと花を咲かせて妹に見せた。


「あなたの川、ふたつあるでしょ?」

「あっ。占いの川と、花の川」


姉の手から花を受け取って、アルフィナが気が付いた。ジェシーがパチリと指を鳴らした。


「そうよ。アルフィナちゃんは、今までお花の川は自分で知っていた。でも、感応の……占いの方は知らなくて、放置されている間に、湖が貯水量を超えちゃって溢れちゃってたのよ」

「それがこないだまでの夢遊病状態。本当に無自覚に予言をしていた頃の話さ。で、今は、そのダムがついに決壊して、一気に放出された魔力が暴走しているって感じだ。それでやっとレディは自分のもうひとつの川の存在に気が付いた。今は、そんなところかな」


アルフィナの脳内で、静かな美しい湖の向こう側が轟音と共に崩れ落ち、巨大な瀑布となった。遊ぶ魚たちは大慌て、歌う小鳥は逃げ惑い、穏やかな平和が流されていく。


「ど、どうしたら止まるの……?」


創造力の豊かな女の子だな、と皆は思った。慌てふためくアルフィナの眼前に、キッドがテーブルに残っていたグラスを取って突きつけた。


「まずは探すこと。きみのもうひとつの魔力を。今、溢れている湖を。きみの体の中にある暴流だ。穏やかな花の色はきっとしていないかもしれないけれど、恐れないで」


言われたアルフィナがじっとグラスを見つめていると、ジェシーが手のひらを少しずつ動かして、ゆっくりとグラスに水を満たしていく。コポコポと音を立て、無色透明の水がどこからともなく沸き上がってくるそれは、アルフィナに自身の神秘を信じさせた。

 アルフィナは目を閉じた。深く、深く、己に問いかける。ことばにならない想像の問いかけ。コポコポとグラスに湧く水の音を全身に感じ、己の中に沈み行くような不思議な感覚がアルフィナを包み込んだ。そうしている内に、ふと、指先に何か触れたような感触があり、アルフィナはパチッと目を開いた。


「……あった」


ブラウンの瞳をばっちり開いたアルフィナの表情は、新鮮な驚きに満ちている。


「あった!ありました!なんて言うんだろう、何か熱い流れのようなものに触った気がする!」

「おめでとう。その曖昧な心持ちこそ魔力の本当だ。強いアルコールを飲んだときに似てるんだが、お姫様には伝わらないからな」


ディリンジャーがニヤリと笑っている。この男に言わせると、魔力は酒が喉を通るときの、焼けるような感覚そのものなのだそうである。間違いなく自分の体内に何かがいるのに、それに直接触って取り出すことができない不可思議なエネルギー、それを魔力だと彼は言う。


「人によって表現は様々だ。それを上手く捕まえて、出力、形を制御するのが魔法の基本」


アルフィナが手を握ったり開いたりしている。これまでまったく無意識だった自分の魔力というものに初めて触れた感動と興奮、戸惑いで、じっとしてはいられない様子であった。


3.

 アルフィナが己の魔力をきちんと認識できたことを確かめて、キッドはグラスをテーブルに戻し、今度はそのとなりに地図を開いた。


「さて。ほんとなら、ここでその魔力制御の基礎練習が必要だよね。たぶん、きみ、花も思う通りには出せないだろ」


図星であった。アルフィナはきゅっと唇を引き結んで言い返せない。祖母も姉も、一輪だけ好きな花を花瓶に活けるということができるのだが、アルフィナは花の色形も本数もまだまったく自由にはできず、偶然に頼っているのである。ここで意地を張って嘘をついても意味がないことはわかっているので、恥ずかしそうに肯いた。キッドは首を少し傾げただけで、追求しない。


「やっぱり。ま、そんなのは今度メアリーに習えばいいよ」

「あら、わたくし?」

「レディに気に入られてるみたいだから。でも今度ね。今はとりあえず、さっき出会ったばっかりの占いの川に集中してくれ」


キッドが淡々とした声音で言いながら、地図に指を滑らせていく。皆がテーブルの周りに集まって覗き込むと、クルトペリオの地図と、アルフィナの家近くの地図が二枚広げられていた。キッドの指は昨夜のリーチ・ティーチのアジト辺りで止まっている。


「……やっぱり、いきなりは、危険だな」


キッドが低い声で呟いた。地図を確認していた指を離し、顔を上げてアルフィナの顔を見つめると、顎に手を当てて、また首を傾げる。不思議そうに眼を瞬かせながら、アルフィナが家族と顔を見合わせていると、キッドが「よし」と何か思いついた様子で顎から手を離し、親指でメアリーを指した。


「ちょっと試してみよう。メアリー、さっきの妃殿下の顔を思い浮かべて」

「?顔を思い出すだけでよろしいの?」

「いいよ。できれば、一緒に余計なことも考えてくれると嬉しい。何か楽しいことない?」


メアリーは少し昔を思い出す顔で考えてから、形いい唇を微笑ませて頷いた。


「わかりましたわ。アルフィナちゃんに、わたくしの心を読ませるんですのね。妃殿下の顔を当てられれば成功、というわけ。それでは、妃殿下と、わたくしの母、それから、思いつく限りの美人を思い浮かべてみますわ」

「メアリーの頭の中を覗くの?」

「そ。狙い通りのものが見えるかどうか、やってみよう。おれの知り合いの予言者曰く……」


言いながら、キッドはまた首を捻って知り合いの予言者のことを思い出そうとした。それは世に二人といない予言者の究極だとキッドが語る人物で、女であるということ以外、水瓶座にも多くは語っていない。あまり周囲に触れ回ることでもないと普段は話題にしないのだが、今は彼女の言葉に頼るしかなかった。


「運命は、蜘蛛の巣と同じ。その蜘蛛の糸はあまねくすべての生命の魔力が集まり編まれたもの。過去、現在、未来、すべての時間、すべての世界は蜘蛛の巣のように無数の分岐を作りながら、すべては繋がっているって。予言とは、その蜘蛛の巣の一点に触れ、そこから時間を辿るもの――そんなような内容だった、かな」

「魔力の蜘蛛の巣?でも、魔力のない人は、それでは占えないってこと?」

「やりづらくはあるってさ。おれのことが、きみによく見えなかったようにね。とは言え、すべての生命に魔力はある。どんなに少なかろうと無ではない。関わるすべてのものが影響し合って生きている。彼女はそう言っていた」


キッドの、本人も半信半疑ながらの説明によれば、その人の周囲の人々のみならず、水、草木に虫、石、大地、空気ですらが、すべて生命と記憶を持っている。その生命と記憶の魔力は糸のように連なり、それが運命の蜘蛛の巣を形成する。言うなれば、これまでのアルフィナは頭上の蜘蛛の巣に気が付かずに歩いていて、いきなり顔に蜘蛛の巣がかかるという不運と同じである。そんなようなことをキッドは言った。


「周囲の景色に溶け込んでいる蜘蛛の巣も、雨が降ればよく見える。さっき見つけた魔力の川に水を流して。湖から水を汲みだすんだ。それを相手の蜘蛛の巣にかけるように。それで運命は読み取れるって、簡単に言っていたんだけれど……」

「いや、わかんねぇよ」


ディリンジャーが冷たく言い放った。キッドが苦々しい顔で抗弁した。


「仕方ないだろ!おれが予言者なわけじゃないんだから!」

「でも、やってみるしかありませんわ。さ、どうぞ、アルフィナちゃん。わたくしの方は準備万端でしてよ」


メアリーの声に、アルフィナが緊張した。だがメアリーの言う通り、とにかくやってみるしかないのだ。アルフィナはたっぷり深呼吸をして目を閉じた。もう一度、先ほどの川を思い浮かべる。自分の体の中に、魔力が流れ巡っているイメージ……その流れを強めるように……その先の湖へ注いでいくのを確かめて、そこからそっと今、必要な分を汲みだすように……。

 アルフィナが、今度はそっと瞼を持ち上げて、静かに息を吐きながらメアリーの顔を見つめた。右手をメアリーにかざすようにすると、手のひらから目に見えない魔力の波動が波紋のように広がって、メアリーの魔力に反射して返ってくる。ちょうど暗闇で音の反響を頼りに障害物を探すように、アルフィナは注意深く神経を傾けた。


「亜麻色の髪……いいえ、この人じゃない。この人は……?ちがうわ……」


アルフィナがぶつぶつと独り言を呟き始めた。彼女の脳裏には、今、どうやら複数の人間の顔が浮かんでいるらしい。だとすれば、ひとまず感応の魔法は成功である。更にその中から目的の人物を探せれば……三十秒ほども経過した頃、アルフィナの指先が微かに震えた。


「……この人」

「教えて。どんな方?」


メアリーが柔らかく訊ねる。


「亜麻色の髪、あたたかなライトブラウンの瞳。唇が少し薄いのね……あぁ、カレンに似ているって言っていたのがわかるような気がする。鼻が高いわ。優しそうな眉。首も手足もほっそりとしていて、背が高くて、芯のある感じのする女性。薄い水色のドレスを着ている……」


アルフィナがゆっくりとメアリーにかざしていた手を下げた。周囲は息を呑んで二人を見つめている。メアリーが美しい微笑を更に輝かせ、深く頷いた。


「正解よ」


アルフィナ本人を含めた全員が、ほっと胸を撫でおろす音が聞こえそうであった。そのぐらい全員が緊張していたし、そういう緊張感が、アルフィナの魔法にはあったのである。

 初めて魔法を使いこなした喜びにアルフィナが唇をもにょもにょ動かしていると、セシリアが肩を抱いて一緒に喜んでくれた。祖父母もにこにことしていたが、キッドがまたいそいそとテーブルに地図を広げたのを見て、黙った。


「よし、善は急げ、だ。再開、再開。感覚を忘れない内にやっつけちゃおう。レディ、こっち来て。大丈夫?疲れてないかい?ママ、レディに水」


ジェシーがグラスの水をアルフィナに手渡す。アルフィナは戸惑いながらもそれを一口飲んで、キッドのとなりから地図を覗き込んだ。

 キッドがまず、一枚目の地図の一か所を指さして、アルフィナを見た。そこが自分の家であることを少女は理解して、同じ場所に指を這わせる。それから、キッドはもう一枚の地図の教会のところにペンで印をつけ、そこからリーチ・ティーチのアジトになっていた家まで線を引っ張った。地図を広げたのは、せめて対象をアルフィナがイメージしやすいように、である。


「ひとつ注意することがある。きみの占いが魔力を使うものである以上、その反応が相手に感知されることもある。相手が魔法で防ぐこともできるし、場合によって、逆探知して攻撃をしかけてくることだってないとは言えない。変だと思ったら、すぐにやめるんだよ」

「わかりました」


アルフィナの声に不安を感じ取ったキッドが、ペンを置いて、アルフィナの右手を左手で握った。アルフィナが少し驚いてとなりのキッドの顔を見上げる。キッドは地図から目を離さずに、代わりに左手に少しだけ力をこめた。


「怖かったら、こうやって誰かの手を握ればいい」

「あら、うらやましい。こっちの手はあたしがもらうわ」


ジェシーがアルフィナの左に立って、少女の左手を大きな手で包み込んだ。メアリーとディリンジャーがテーブルの向こう側から笑いかけ、セシリアがアルフィナの後ろに立って左肩に手を置いた。反対の肩には、祖父母の手が重ねられ、アルフィナの唇が弧を描く。


「ありがとう。やってみます。セシリア」


心得たセシリアが妹の肩を撫でながら息を吸い込んだ。やはり緊張して少し震えるセシリアの体を、ジェシーが空いた片腕を伸ばして抱きしめる。


「大丈夫よ。さあ、セシリア。アルフィナにヒントをあげて。彼女の魔法が万全であるように」

「ええ。……わたしたちの敵の名は、リーチ・ティーチ。その黒幕は、貴族のプララリック・コモドール」

「リーチ・ティーチ。プララリック・コモドール……」


アルフィナが口の中で敵の名を繰り返し、ジェシーとキッドの手を離して、地図の上に両手をかざした。指先にまで力がこもり、ピンと爪まで伸びている。目を閉じ、開き、微かに手を動かし、顎を左右に、上下に動かしながら、アルフィナは必死に見極めようと努めた。

 凡そ二分。祈るような沈黙の時間が過ぎた。額に薄っすらと汗を浮かべながら、アルフィナが口を開く。


「教会で、何かあるわ」

「時は」


キッドの短く鋭い問いにもアルフィナは淀みない。


「今夜、遅く。でも、教会の中にいるのは、キッドと、もう一人だけよ。……ああ、あの家のドアを壊した男の人!」

「おれと、ティーチね。オーケー。じゃ、教会に乗り込むのはおれの仕事だ」

「んー……あたしたちの家は、大丈夫みたい。コモドールって人は、うーん?どこ?」


そこでアルフィナの集中が途切れたのをキッドが察し、地図の上に突き出していた手を遮った。


「もういいよ。お疲れ様」

「……ふう。本当に、なんだか、すっごく疲れたみたい」


アルフィナは頬を紅潮させ、笑っているように見える。立て続けに魔法を使いこなした充実感が満ちているのであろう。ジェシーがにっこり笑って、もう一度グラスに水を用意してやった。


「上出来よ。さ、これを飲んで、少し休みなさい」

「ありがとう。……美味しい」


一口飲んだだけで、空っぽになった魔力の湖に、新たな水が注がれるような心持である。これがジェシーの魔法の本当の力なのだと理解したアルフィナは、残りを一気に飲み干した。乾いた大地に雨が染み渡るように、体に元気が、心に安らぎが戻ってくる。

 アルフィナはにっこり笑ってグラスをジェシーに返した。それから家族と二階に上がって、少し眠るという。


「驚いたわね」


一家を見送るジェシーのつぶやきは愛情に満ち、キッドはそれにため息で答えた。

 それから、ジェシーはディリンジャーを伴って、一度隠れ家を出た。夜のために、馬と馬車を用意してくるという。ジェシーの言いつけで食器を片付けながら、メアリーは改めて予言のことをキッドに問うた。


「実際どうでしたの、お友達の予言って言うのは?」


キッドはメアリーの顔も見ずに皿を洗い場に運びながら答えた。


「どうって……とんでもないよ。食事中に急に人の顔を見て"頭に気をつけて"なんて言われたこともあるしさ。三時間後に転んで頭ぶつけて"これのことか"って。そんな小さなことから、あるときは、大型魔獣の襲撃を三日前に予言して、船を二隻救ったこともある。彼女は"心の目を常に開いておけば、自然と見えるもの"って言ってたかなぁ」

「心の目?」


メアリーが先に洗い終わったスープカップを拭きながら聞き返す。キッドはそのとなりで、かめから汲んだ水をさげた食器にまわしかけ、汚れが乾かないようにした。ソースの油が水面に水玉模様の油膜をはるのを見て、なんとなくフォークでつっついて子どものように遊んでいると、メアリーが呆れて鼻を鳴らす。


「あなたに訊くのが愚かかしらね」

「誰に訊いたって同じだろ。予言なんて、できるやつ限られてるんだから」

「アルフィナがどこまで行けるか、あなたのお知り合いのお話が参考になると思いませんの?」


先程キッドが言ったアルフィナの特訓を、半ば本気で考えているのであるらしい。アルフィナがメアリーになついたのはわかっていたが、メアリーの方でもアルフィナを気に入ったらしいのはキッドには少し意外であった。もしやヤルタ妃の思い出が影響しているのではあるまいか。妃の親切を思い出し、その親切を他人に返すつもりなのか。あるいは少女時代の自分とアルフィナとを重ねているのかもしれない。


「心の目を開いておくっていうのは、いつも微量の魔力を放出してアンテナをはっておくということですわよね。先程のお話でいうところの蜘蛛の巣をいつでも見逃さないように。やはり、そうしておくのが正解かしら?」

「あれは基準にするなよ」


キッドが流しから顔を上げて、不満そうに眉を寄せた。


「あの人の魔力は無尽蔵だ。ふつうに考えたら、ずっと魔力を垂れ流すなんて疲れるし、効率が悪い。メアリーだって、寝ても覚めても四六時中、指先を燃やし続けるなんて考えるだけでぐったりするだろ。アルフィナが王族の膨大な魔力を受け継いでいるとしたって、出力調整はできるようにならないと」

「そうですわね。アルフィナは才能はありそうですけれど、まずは心を鍛えなくては。魔法は精神状態に大きく左右されますもの」

「ま、そこは彼女の問題だろ」


とにかく、アルフィナ自身が己の力と向き合っていくしかないことは変わらない。いずれきちんと力を受け入れ、学び、制御できるようになれば、ぐんと頼もしくなるに違いなかった。

 アルフィナは誰かから学べばいいとして、メアリーにはもうひとつ気にかかることがある。それはやはり、初めてこの隠れ家でアルフィナに過去を言い当てられたときのキッドの反応であった。


(この坊やの謎も謎のままだわ)


 メアリーの本名はメリアスタ・ラナルト・リリーム。大貴族であった。名家ラナルトの女を母に、王都アスキア北東の要ガルム城を代々守護するリリームの当主を父に持つ、王国屈指の名門の姫である。それが水瓶座などという旅の行商芸人一座にいるには理由があるが、その魔力は名門の血を裏切らぬ強大さを誇り、貴族であった時分から炎の女神の呼び名を欲しいままにしている。その能力のために彼女はある重大事件を起こし貴族身分を剥奪され家を追われたのであるが、彼女の追放を以て事件は収束された。

 メアリーは貴族の名を失い無法者アウトローの仲間入りを果たしたが、その代わりにまったく自由の身である。"火傘"の二つ名は、彼女がステージで愛用の日傘から火炎を放出する様子を称えたもので、キッドの"払暁のガンマン"のように悪名ではない。

 キッドという青年は謎だらけであったが、特にこの手配書が奇妙で合った。キッドがいつ、何故、"払暁のガンマン"という名で手配されたか、誰も知らないのである。

 その名が一部の人間たちの間に広まったのは、凡そ三年前、彼が"赤ひげ"の海賊船に乗っていた頃の話であった。

 "赤ひげ"ロト・エイファムとその一味は、魔獣跋扈する北方の海を制し急激に勢力を拡大しているために、近頃、王国も警戒を強めているという一大悪党集団である。一般市民への被害はあまり聞かないが、襲いかかる敵には情け容赦のない残虐ぶりを示し、かつて北端の町ゲ・ト・シュツィオに於いて、一晩で役所を壊滅させたなどという噂もあった。

 その海賊船に、滅法腕のいいガンマンが乗船していたことがある。それが"払暁のガンマン"であるという噂で、その正体は手配書に記された特徴とはまるで一致しないはずの華奢な青年であった。


(でも、誰も理由を知らないのよね。手配された理由も、特徴がまるで一致していない理由も。――まあ、黄金銃ってところだけは間違いないから、みんな信じているのでしょうけれど)


そう、キッドは確かに"黄金銃"を持っている。その銃で、かつて、どんな事件を起こしたというのであろう。アルフィナのことばからは、キッドがかつて火事の中を逃げたようなことが伺えたが、それが関係しているのであろうか。


「おれの手配書のことなら考えるだけ無駄だぜ」

「なんですって?」


心を読まれたかのようなキッドの発言に、メアリーが珍しくビクリと肩を跳ねさせた。キッドが笑う。


「あはは。わかるよ、おれの正体を考えてたんだろ。メアリーもDDも、他の連中も、時々そうやって怖い顔でおれを睨む。おれが何者だろうって。どんなヤバいことをして賞金をかけられたのかって。あれだろ。あのレディがおれのこと、帰らなかったとか、家が燃えているとか、変な風に言って、おれが逃げたから。あのまま彼女が暴走していたら、確かに手配書のことまで暴かれただろう。だから逃げた。みんなに、おれのこと知られたくないからさ」


そう言うヘーゼルグリーンの瞳の、なんと底の知れない危うさを持つことか。メアリーは時々恐ろしくなるのである。だがキッドの言うことは理解できた。こんな商売をしていれば、猜疑心丸出しに詮索の目を向けられるのは慣れっこである。


「失礼。余計な詮索ですわね」

「余計だけれど、いいよ。暴けるものなら、やればいいさ。でもね、メアリーやDDがおれの正体を知るんだとしたら、たぶんそれは彼女のせいだ」

「ええ。そうね。わたくしたちの関係を変えるとしたら、やはりあの子。アルフィナが、私たちの世界を、これからずいぶん変えてしまう気がしますわ。私のこれも予言ではなくて予感ですけれど」

「まったくね。ああ、恐ろしくなってきた。彼女の来訪が前触れだ。先触れだ。露払いだ。ああ、嫌だ」


キッドがもう一度、油膜をつついた。


「おかしなことを言う。お前があのお姫様を連れてきたくせに」


いつの間にか、用を済ませて戻ってきたディリンジャーが、食堂から顔を突っ込んで突然会話に参加した。キッドがそのニヤついた顔を見て嘆息する。ディリンジャーの言うことを否定できない自分が嫌であった。


「ああ、おれが彼女に出会ってしまった。だから嫌だ。まるでこれじゃ呪いだよ。あるいはこれが運命だ。まったく自分の墓の穴を掘るために、おれは少女を導いた。破滅だ。自滅だ。ああ、嫌だ」


大袈裟に嘆くキッドにディリンジャーが唇の端を持ち上げた。いつも飄々と風のように捕まらないキッドを悩ませているのが、あの素朴な面立ちの少女かと思うと愉快でならない。

 この青年が勇気と覚悟ある人間を愛するのは昔からで、相手が子どもであろうと老爺であろうと、一度その心根を気に入ると肩入れしてしまう性分であることをディリンジャーは知っている。アルフィナのような女の子が、あのクルトペリオの、しかも昼間から飲んだくれの溢れる酒場で、声も足も震わせながら必死に訴え出たのであれば、キッドはまず断れない。キッドがそういう性格であることをクルツァのクリミットという役人もわかっていたから、アルフィナに手配書を渡したのである。

 案の定、キッドはアルフィナに味方して、その日のうちに水瓶座に顔を出すと少女の姉の救出を頼んだ。仕事だが、少女の様子からして報酬はないかもしれない。だが、見捨てるにはかわいそうだ。そんなことを言っていた。それがまったく予想外の大物で、大変な事件に巻き込まれることになってしまったのだ。キッドの後悔は深いが、その自業自得が傍から見ているとおかしくてならなかった。


「"キッドは裏切らない"だろう?彼女の予言が的中するなら、お前の銃に国の何が懸かっているのか、見届けさせてもらいたいもんだ」

「馬鹿言うなよ。そんなとこまで付き合ってられるか」


キッドが吐き捨てるように言って、慣れた手つきで皿を洗い始めた。やや大きな音を立てているのは、これ以上話すことはないという訴えであったが、ディリンジャーは無神経にとなりに立って手元を覗き込む。


「どうだかな。お前はああいう子を、実際、裏切れない性格だから」

「あのな。面倒事に巻き込まれてるのは、お前らだって一緒なんだぜ。ひとのこと笑ってる場合かよ」

「構わんね。俺は元来博打打ちだ。お家騒動だなんて確かに面倒で厄介だし、この国が誰のものになろうが知ったことじゃあないが、こんなビッグな賭けはない。アルフィナと家族にその気があるかはわからんが、光の指輪リツ・ペリューグをいただけば、一口ぐらい、なぁ?」

「ほんっと、ばかばかしい」


キッドが心底嫌そうに鼻から息を吐いた。それからメアリーを振り返って、そっちはどうなんだと、なお不機嫌そうに問う。メアリーは知らん顔で洗い場を出て行った。


「あっ。おい、メアリー!片付けはやれよ!」


トントールやファンたちが見たら卒倒しそうなほど色っぽい背中に思い切り舌を出して毒づきながら、仕方なくキッドはひとりで皿を洗った。ディリンジャーは相変わらずとなりに立っているが、この男がこういう仕事をやらないのはもうわかりきっているから、それには期待していない。

 眉間にくっきり皺を寄せて、ひとりで黙々と洗い物を片付けていると、となりでそれを見下ろしていたディリンジャーが急に距離をつめてきて、キッドは皿を落としそうになった。ギリギリでジェシーの気に入りの花柄の皿をキャッチして顔を上げると、ディリンジャーが腕まくりした手を水に突っ込んでいる。


「どしたの」


驚きすぎて、実に単純で散文的な問いになった。このご婦人方に大人気の美形の紳士は、ご婦人方に大人気すぎるが故に家庭的なところはまるでない男である。手先は器用だったが、炊事に洗濯、掃除に裁縫と、そういうことは放っておいても女たちが勝手にやってくれる、そういう人生を送ってきたから、己がそれをするという発想がそもそもない。キッドが片づけをしているとき、大抵ディリンジャーは爪や髭を整えるか、誰かをからかうか、カードをいじるか、とにかく気ままに自分勝手にしているのが常であるはずなのだ。


「別に」


訝るキッドに対するディリンジャーの返事も素っ気ないものであった。薄気味の悪さを感じたキッドがそろりと距離をとりながら、一度水をためていた栓を抜き取る。ディリンジャーのうしろを通ってまた水を汲み、流しいれると、意外な手早さでディリンジャーが食器を洗い始めたのでキッドはまたも驚いた。

 となりに立つと、下を向いたまま、ディリンジャーが低い声でキッドに囁いた。


「望まれない生まれだとしても、愛されることもあると、お前、本当に思うか」


一瞬、キッドの手が止まった。アルフィナにキッドが言ったことである。


(ああ、そういうことか)


ほんの少しの間をおいて、キッドも下を向いたまま、淡々と囁くように返した。


「彼女が言ったんだ、死んだ連中におれは愛されていたって。愛されていない子が、そんなこと言うはずないよ」


言うと、


「そうか」


それだけ、ディリンジャーは呟いた。

 八人分の洗い物を、二人で手際よく片付けていく。数秒、静かな洗い場に、カチャカチャと食器と水とが触れ合う音だけが響いた。


「似合わないぜ、DD」


キッドが、ディリンジャーの肩の下からそっと囁いた。体格のいいディリンジャーと小柄なキッドではずいぶん頭の位置が違う。まっすぐに立つと、キッドの頭はディリンジャーの肩ほどしかなかった。


「自覚はあるさ」

「そう」


また沈黙の時間があった。キッドが皿の水を切って、となりの水切り用にあけておいた台へ並べていく。ディリンジャーはまだ下を向いたまま、残りを洗っていた。この男にも過去はあるし、家族もあるのである。

 その腰に、不意にキッドが肘打ちをした。さすがにディリンジャーが「あたっ」と小さな悲鳴をあげて首をまわし、犯人の顔を見ろした。


「お前な、急に何するんだ。割るところだったろ」

「あはは。いつものお返し」


斜め下から見上げてくるキッドは、下唇を噛むように白い歯を見せて、ヘーゼルグリーンの瞳を細めた。悪戯っぽいくせに、へんに毒気のない顔である。


「愁いを帯びた色男ごっこなんて、柄じゃないだろ」

「何を言う。俺はいつだって哀愁漂う大人の色気で人気があるんだ」

「はいはい。男のおれには、まったく理解できない人気だけれどね」


手を振って水滴を飛ばすキッドに、ディリンジャーが肩を竦める。ちょうどそのとき、ジェシーが戻ってきた声がして、キッドはパタパタと軽い足音をさせて迎えに行った。ディリンジャーも後の片づけはそこそこに手を拭い、そのまま歩き出し掛けて、いかにも手伝っていた様子であるのを指摘されるのを嫌い、袖を戻し、髪を整えてから、いつもの気障な紳士の顔でキッドの後を追った。

 陽は傾いていた。もう少ししたら、出発である。

 キッドも準備というほどの準備もないが、一度部屋に戻ろうしたところを、ディリンジャーに呼び止められて振り返った。


「なに……」


言いかけたキッドの顔に、ディリンジャーがふざけて投げキスをした。キッドの顔がみるみる歪む。


「そんな顔するなよ。慰めてくれた、せめてもの感謝じゃあないか」

「次やったら、その口に黄金銃を咥えてもらう」


言い捨てて大股に去っていくキッドの背を見て、ディリンジャーがいつものニヤニヤ笑いをしているのを、たまたま見かけたジェシーが不思議そうに、だが愛情深く見守っていた。

 それから数時間後、雨の降り出した夜道を、一行は教会に向けて進んでいた。プララリック・コモドールとやらの所在は尚、不明であったが、リーチ・ティーチを捕まえれば何か吐くであろう。

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