第4話 フラクセン・カレン

1.

 アルフィナは、ひとり秘かに、夜道を急いでいた。頭上には半分欠けた月がのぼっている。少女はいつもの花柄の服の上に大きな上着を羽織って、頭にはスカーフを巻き、顔を隠して目的地へとひた走っていた。

 あれから四日が経過していた。家族の危機に自身の隠された能力に目覚めたアルフィナであったが、まだ己の新しい魔法を使いこなすには至っていない。


「予言と言っても、いろいろだからね。見えないものを見えるようにヒントを探すのは、周りの人間の仕事だよ」


キッドや水瓶座の人々はそう言って励ましてくれたが、肝心の姉の居場所を占うこともできない自分の能力に、正直、アルフィナは絶望していた。これではなんの助けにもならない。今使えなくて、一体どんな場面で有用だというのだろう。

 問題は、相手が要求してきた「例の物」というものがなんなのか、アルフィナにも祖父母にもわからない、ということであった。


「"それ"を持っていけば借金はなくなる、ということでした。見つからなければ金を払うしかないが……」

「およしなさいな。いくら払っても、その例の物とやらが出てくるまで難癖をつけて次の要求が来るだけですわよ」


メアリーが言うまでもないことではあったが、金など払えば払うだけ、相手はつけあがるに決まっている。何しろアルフィナの父親は現在連絡がつかず消息不明で、相手の言うことが本当かどうか確かめようもないのである。本当にケガをして借金を作っているのならば潔く金を払って迎えに行くのだが、まず、それは有り得まい。あまりにも相手の要求は雑に過ぎ、しかしそれで強引に出られるだけの理由を持っていると見るべきであった。


「つまり、理由はあなたではなく、息子さん――つまりアルフィナ嬢の父親の方にあるということですな。その名を出せば見当がつくであろう、と言いたかったわけだ。しかしあなた方は知らなかった。こりゃあ向こうも誤算でしょう。例の物とやらが何か、何につながる重要物か、まるでわからんでは、どうしようもない」


ディリンジャーが弱ったことになった、という顔をした。まさか家族が何も知らされていないとは敵も考えなかったであろう。出し惜しみをしていると見て、誘拐したセシリアに危害を加えられては困る。あるいは妹のアルフィナをも奪いに来るかもしれないし、彼女たちの父親も既に囚われている可能性も捨てきれない。

 と、じっと俯いて考えていたアマート老人が、ポツリと呟いた。


「却って、あの子が知っているのかも……」

「あの子とは、お姉さんのセシリアのこと?」


老人が語るには、姉妹の父親というのはアマート家にとっては婿である。この婿もかつて舅と同様に城勤めをしていたが、若く勇敢であった婿は、舅よりも深く王室と関わりを持っていた可能性がある。その時に何か重大事に関係するに至り、その証拠となるようなものを所持しているのであろう、と言うのであった。


「あれが娘と結婚したときには、わしもまだ城におりました。いらん争いを避けるために、あれはわしら夫婦には仕事の話はしなかった。それだけ危険な仕事についていた、という言い方もできるのかもしれません」

「仕事を辞めたのも突然でした。その理由も私たちは詳しく聞かされていませんが、大きな失敗があったと……。ですが、妻……つまり、私共の娘ですが、彼女と娘のセシリアには時折職場でのことを話していた様子でしたので……」


後を受けたアマート夫人の声も明るくはない。ジェシーが大きく息を吐いた。


「やっぱり先にセシリアちゃんを助けなきゃいけないわね。本末転倒ってやつだけれど」


恐らくアルフィナの血統についても、祖父母より姉の方が詳しいのであろう。水瓶座はそう考えていた。

 奇妙なのは祖父母の態度だった。アルフィナの感応の魔力は明らかに祖父母から受け継いだものではない。何者か優れた魔法使いの血をひいているはずで、祖父母の様子からして、どうもその現在消息不明の父親の血でもないらしいのだが、結局、何者なのか未だ不明である。祖父母は答えを言わなかった。不可解であった。

 アルフィナに彼女の魔法能力について話をする際、血統について言い出す前に、キッドは祖父母に目で合図を送りはしたのである。だが、話を止めたり、慌てるような様子を見せなかったから、キッドはアルフィナに魔法能力が遺伝であることを伝え、アルフィナ自身も己の魔力が祖父母のものとは異質であることを知った。そこで祖父母が躊躇することなく、少女の本当の親の名を言ってくれることを全員が期待していたのだが、そうならず、それどころか祖父は、突然キッドのことを魔法を使えないような人間は信用できないなどと攻撃しだして妻と孫娘とを困らせ、それで有耶無耶になった話題をディリンジャーが戻そうとしたが、結局、祖父母が答えを言うことはなかった。


(あれ、わざとだろうな)


キッドは、祖父の唐突過ぎる敵意を疑っていた。まるっきりの嘘でもあるまいが、まるっきり本気だったわけでもあるまい。確かに、あのとき銃を撃ったことで、老人に、目の前の青年が魔法を使えない人間だという気付きと不安を与えたことは間違いなかろうが、それにしたって、いきなり過ぎた。


(もしかして詳しいことは知らないとか言っていた、あれって本当なのか。彼らもあの子の本当の親が誰か知らない……)

 

それを、本当はアルフィナ自身の魔法で調べさせようと思ったのかもしれない。未来予知をできるほど強い感応能力者ならば、自分の出生を調べるぐらいはできるだろうと考えたのではないか。能力が遺伝すると聞けば、自然、アルフィナは自分の魔法が誰から来たものか悩むであろう。それで魔法を使えば、あるいは……と期待していたのに、キッドが止めてしまったのである。


(それが魔法も使えない、本名も名乗らない、直前のあの子の魔法で過去に問題がありそうだってわかっているようなクソガキじゃ腹も立つ、か。……いや、あるいは、おれがきっかけだと思った、かな)


これまでも度々、アルフィナは予言の魔法を使ってきたはずである。だから家族はそれを知っていて、今度も彼女の予言を信じて行動しているのだが、恐らく、キッドについて予言したときほどの魔法を使ったことは今までになかったであろう。あのとき少女は、別に何か問題を解決しようとしたわけではない。単に目の前の青年について知ろうとして、結果、青年の過去を言い当てて、未来についても予言してしまったのである。目の前の不安を取り除こうと直近の未来を予言してきたこれまでとは、明らかに魔法の強さが違うことに気がついた祖父は、この奇妙なヘーゼルグリーンの瞳の青年が孫娘の魔法に何らかのプラス作用をもたらすと考え、彼を巻き込むことで、更なる覚醒を促そうと思ったのであるかもしれない。

 祖父の推測は強ち外れてもいなかった。結果として、アルフィナはキッドについて更に未来を予言し、しかも今まで完全に自分の魔法について無自覚であったのが、あのときは確かに意識のある状態であった。間違いなく大きな成果であったが、しかし、結局アルフィナの血統については謎のままになってしまった。


(祖父母も知らないんだとすれば、"例の物"ってのと同じだ。あの子の血筋は王家に関わる重大事。例の物がなんだか知らないが、すると、姉さんが両方答えを持っているってことになる)


アルフィナもそれを感じているのであろう。だから姉の居場所を魔法で探そうとしても余計な気持ちが邪魔をして、上手く集中できないのに違いない。元よりやっと自覚したばかりの不安定な魔法である。セシリアの居場所を探すのは、やはり水瓶座の仕事であった。

 彼らはまず、アマート一家から聞き出した情報をぜんぶ整理した。整理、と言っても、その情報量はごく少ない。ほとんど役に立たないに等しいが、それを例の隣町クルツァの役人クリミットにも共有した。まったく信頼性のないキッドの手配書をアルフィナに渡した白髭の男である。過去の手配書や裁判記録などを当たらせ、アマート家に押し入った男と特徴の似た人物がいないかを探らせた。

 同時に行った地道な聞き込みは、相手の人相のみに留まらず、酒やパン、水などの消耗品、銃や弾薬などの武器類、衣料品まで含め、あらゆる商品を扱う店に声をかけ、近頃急に注文が増えたりはしなかったか、その動向をさりげなく聞き出していった。


「で、おかしいのはここだ」


キッドがジェシー、メアリー、ディリンジャーの三人のみを自室に招いたのは二日前の真夜中であった。ならず者の町クルトペリオと隣町クルツァが載った地図をテーブルにひろげている。アマート一家は二時間ほど前に眠ったことをメアリーが確認していたが、四人は声をひそめ、小さな机に顔を付き合わせて相談していた。


「二週間前に、空き家だったローロイドの館が買い取られてる」

「ローロイド?"ルーレット・キング"の?」


ディリンジャーが長い腕を曲げて腰に当てた。


「ルーレットで稼いだ金をパッと使いきって死んだ、夢みたいな男だな」

「下らない夢ですこと」


ふん、と鼻で笑ったメアリーをディリンジャーが睨む。女にはわかるまい、と言ってやりたかったが、本当に口にすればきっとジェシーと二人で反撃してくるにちがいないと黙った。

 代わりに、ディリンジャーは別の一点を指して意見を述べた。キッドが示したよりも郊外である。


「ここの別荘もひと月前に売れて、最近人が入ったということだ。郊外で人目にもつきにくいが……」

「アルフィナちゃんの言う男と似た人物を目撃したってクルツァのカジノで聞いたわよ」

「クルツァで遊ぶんでしたら、ディックの言う別荘の方が近そうですわね。こちらではなくて?坊やが言う家はクルトペリオの端ですわよね。クルツァの町に出るのに時間がかかり過ぎませんこと?」


ふむ、と、キッドが口元に手を当てた。


「それはそうなんだけれど、トントールの話じゃ近頃見ない客が増えたらしいんだ。いかにもならず者体の男どもらしい。クルトペリオじゃ正体のわからない男なんて珍しくもないが、奇妙なのは、そいつらをおれが見ていない」

「あの町に流れてくるような男どもが酒場に出入りしないってのは、なるほど妙だ」


ディリンジャーが髭を撫でた。考え事をするときのこの男の癖である。それから長い指でハンサムな顎を包むようにいじる。メアリーも紫の瞳を細め、ジェシーは腕を組んで地図を見つめた。


「酒とパンを急に買い付けたのは、どちらも同じだったわね。近くの店で調べがついているわ」

「武器については魔力付加の有無に関わらず調べましたけれど、特に目立った話は聞きませんわ。もっとも、既に魔獣とやらを連れているのでしたら不要でしょうけれど」

「クリミットの爺さんは?おれの手配書まで持ち出したんだ、役立たないなら撃つよ。もう死んだとばかり思っていたのに」

「あんたの前に出なかったのは単純にあんたと仲が悪いからよ」

「当たり前だろ。あいつ、昔おれを追いかけて縄かけようとしたんだぜ?やだよ」


話の内容の割に、二人とも淡々とした口調である。キッドが「それで?」と上目遣いに質問の答えを促した。


「ひとり、それらしいのがいたわ。リーチ・ティーチってコソ泥。ケチな泥棒をしていた男だけど、女漁りもひどいやつ。三年前にヘラルダ広場で買った娼婦をあんまりひどく扱ったんで男衆を呼ばれてね。そのときに他の客から財布をとっていたのがバレて、そのまま突き出されたっていう馬鹿な三十男が、アルフィナちゃんたちの言う男に似てるって」


ジェシーの声に嫌悪が色濃い。ディリンジャーも女を雑に扱う男に憎々し気に眉を顰めた。


「ヘラルダ広場といったらゼンダー市の観光名所だな。旅行客狙いのコソ泥が、ずいぶん遠いところまで逃げてきたもんだ。逮捕歴があるなら、そいつの魔法記録・・・・は?」

「もちろんクリミットが調査済みよ。ティーチの魔力は多くない。使える魔法は、ちょっとした人形を作って操る能力ね」


人相、指紋などと同じように、魔力も個人によって差がある。魔力の量及び強さ、扱える魔法の種類は、個人の魔力の質によって変化すると考えられており、便宜的にそれは「魔力の波動」と呼ばれていた。その波動によって、優れた魔法使いは相手を特定、あるいは追跡することもできるという。そのため、犯罪者はその他プロフィールと一緒に、専用の装置で測定した魔力を記録される決まりになっていた。


「人形?」


メアリーがぽってりとした唇を微かに動かした。キッドも指を鳴らす。


「それだ」

「魔獣と思われた巨大猿の正体だな」

「ああ。問題は、せいぜい相手の懐に飛び込む程度の人形しか操れなかった男が、どうしてそんなことができるまでの力を得たか、だけれど。この際、それは後回しにしよう。セシリアの救出を優先したい」


ジェシーが頷いて、太い腕を解いた。


「今挙がった二軒に絞って調べを進めましょう。ディック、あなたは目撃証言のあったカジノでもう少し情報がないか当たってちょうだい。連絡用にうちの子を二人連れて行っていいわ」

「ああ。任せておけ。ついでに二代目ルーレットキングの称号をいただきたいもんだな」

「夢中になったら、即、拳骨よ」


ジェシーの視線に、ディリンジャーが首を竦めた。あの膂力で殴られるのは勘弁である。キッドがニヤリとそれを笑ってからジェシーの顔を見た。


「おれはちょっと知り合いの女の子たちに話を聞いてみる。女好きなら、こんな知らない土地でじっとはしていないだろうから」

「そうね。どっちの家にしても、女好きなら誰か潜入させるのは容易だわ」

「任せといて」


ジェシーの目線に、キッドは短いことばで肯いた。パタパタと広げた地図を折り畳む顔は飄々と笑っているが、チラリと部屋の隅の荷物を見た瞳には微かに躊躇の色が浮かんで消えた。

 それから、ジェシーはアマート家の様子を見に行かせたスタッフの話をしたが、こちらは特に収穫はなかったらしい。アマート家が荒らされた形跡はなく、付近に怪しい人影や、異常な魔力反応は検知されなかったということであった。


「相手は律儀に指定した十日を待つつもりみたいね。それだけ手出ししづらい危険物をアマート家が抱えているって考えることもできるけれど、もしかしたら相手が相当お馬鹿な可能性も捨てきれないわ」

「ですけれど、一家の皆さんの警護はしておいた方がよろしいでしょうね」

「それはあたしたちでやりましょう、メアリー」


この話を、こっそりと部屋の外で聞いていた影がある。アルフィナであった。夜中、トイレに目が覚めた少女は、あの不思議な青年の部屋の戸の隙間から灯りが洩れているのに気が付いてしまったのである。少女の体重は軽く、足音はほとんどしなかった。アルフィナは隙間から断片的に聞こえてくる話を必死に頭に詰め込んで、話が終わる前にそっと自室へ引き返した。

 姉が囚われているとしたら、キッドの言っていたクルトペリオの家か、ディリンジャーの言っていた郊外の別荘か。二択であるという事実が、少女の心を動かした。


(ふたつの内から選ぶぐらいなら、あたしの魔法でもわかるかも……!)


少女は初めて自分の意思で魔法を使うことを選んだ。

 キッドとディリンジャーは、その後、二日、帰ってこなかった。アルフィナはその二日間、必死に魔法を使おうと試みたが、こちらもさしたる成果は得られなかった。候補に挙がった建物は二軒ともアルフィナは見たこともなく、そのせいで占えないのだろうと少女は考え、そして、それがわかっているからジェシーらも自分に何も言わないのだと思った。

 実際はもうひとつ、アルフィナが手を出すには危険だと判断したことも大きな理由であったし、それによって老夫婦にまた心配をかけることもあるまい、という心遣いでもあるのだが、必死のアルフィナは、それには思い及ばない。


(見たことなくて占えないなら、近づいてしまえばいいんだわ)


自分でも驚くほど強気になった。あの嫌な男と対面するのも、変な猿を見るのも恐ろしくってたまらないが、そんな恐ろしい目に姉が遭わされていると思うと、もう少女の心はたまらなかった。自分が恐ろしいことよりも、はやく大好きな姉を助けてやらなくては、という思いが強かったのである。

 誰かに相談をすることも考えたが、そのためには水瓶座の話を盗み聞きしたことも告白せねばならない、とアルフィナは思った。そうなっては、もしかしたら叱られて、却って何をするにも見張られてしまうんじゃないかと子ども心で考え、祖父母が寝静まってからこっそりと抜け出すことにしたのであった。


(どうか、バレませんように!)


館の前まで行きさえすれば、何かわかるかもしれない。ちょっと外観だけ見たら、すぐに引き返すつもりで、少女は隠れ家を抜け出したのである。

 郊外の別荘とやらは場所の見当もつかないので、先にキッドの言っていた館に行くことにした。クルトペリオの町ならば隠れ家からさほど離れていないから、自分の足でも行けるはずだ。ときどき道に迷いそうになったが、勘で走った。もちろんこの場合の勘とは、アルフィナの場合は微かな魔力が働いている。迷うことはなかった。

 月明りを頼りに進んでいくと町はずれに怪しい館が見えてきた。さほど大きくはない三階屋だが、鉄柵に囲われていて、いかにも怪しい。アルフィナは当然ギャンブラーの名など知る由もなかったが、この家はルーレット王とあだ名された男が博打で稼いだ金を惜しみなくつぎ込み、道楽で建てた家であるから、大層派手な外観をしていた。屋根は血のように赤く塗られ、窓という窓にはコウモリの装飾がしてある。柵も月明りに何やら攻撃的に尖っていて、アルフィナから見ると不気味としか表現のしようがない悪趣味さだった。

 せっかく贅沢に建てた家であったと言うのに、最近まで空き家だったというだけあって、ところどころ壁は崩れ、窓もひび割れていた。塗装も風雨に晒されボロボロになり、それがまた、夜という時間帯も手伝って、お化けでも出そうな雰囲気を醸し出して、アルフィナはぶるりと身震いした。


(だめ、だめ!ここまで来たんだから!姉さんがいるかもしれないんだから!)


震える足を叱咤して、アルフィナは一歩、踏み出した。それから一歩、また一歩、慎重に、見つからないようにと歩いていく。

 しかし、これが良くなかった。館の周辺は道に砂利が敷かれていて、一歩ごとにジャラリと音が鳴る。ふつうに歩けば見咎められても通りがかりで済んだであろうに、なまじ緊張して一歩一歩をじっくり大切にしてしまったばっかりに、足音が不自然になった。


「だれだっ」


柵の内から男の野太い声がして、アルフィナはひっと体を強張らせた。ガシャガシャと門の鍵をあける音が夜空に響く。アオーッと犬の吠える声がして、屈強そうな男が三人道に飛び出てアルフィナを見つけた。


「なんだ、チビ。こんな時間にひとりで何してる」


ひとりがガラガラ声で灯りを近づけながら言う。顔は暗くてよく見えないが、キッドと出会った酒場にいたような恐ろしい顔の男たちにちがいないとアルフィナは思った。


「おい、待て。見ろよ。女の子だ」


こちらは少々間抜けな声であったが、アルフィナにそれを笑うような心の余裕はなかった。なんとか逃げなくては。逃げ切れるだろうか。足が動かない。声もうまく出ない。

 男たちがジャリジャリと足音を鳴らして距離を詰めてきて、ようやく、ひとりの顔が見えた。鼻が曲がっている以外は特徴のない顔だが、その顔に浮かぶいやらしい笑みはアルフィナの全身に嫌悪感と恐怖とを走らせた。


「こ、来ないでっ!」


やっとアルフィナは声を絞り出して叫んだが、恐怖に引き攣った声は自分でもがっかりするほど弱々しくて甲高かった。男たちはもちろん子どもの悲鳴を怖れるはずもなく、ゲラゲラ笑ってさらに近づいてくる。


「"来ないでっ"だってよ。ひひひ」


アルフィナは十四歳である。実際の年齢よりも少々幼い外見のこの少女は、これまで異性から性的興味の視線を向けられたことがなかった。初恋は、近くに住んでいて勉強を教えてくれた年若い優男で、六つのときの話である。そんなものを恋と呼べるかも定かではないが、以来それらしい感情を異性に抱いたこともない。幼い幻想から、まだ目覚めてもいない純な乙女であった。

 それが突然、下卑た男どもの視線に晒された。男どもの真意はわからないが、恐怖のあまりに少女は本能的に上着の前を掻き合わせて逃げようと試みる。その初心な反応が男たちを喜ばせた。


「逃げるのか?それともかくれんぼかな、お嬢ちゃん?」

「遊ぶなら家の中で遊ぼうぜ。外は寒いだろう」

「やめて!来ないでください!いやっ……」


アルフィナの抵抗など蚊に噛まれた程度にも感じない様子で、男どもは簡単に少女の口を塞ぎ、体を担ぎ上げ、館の内に運び込んでいった。

 いかにも成金趣味の玄関を抜けると、家のサイズに不似合いなほど巨大な金メッキの階段があらわれた。その上には見事なシャンデリアと巨大なルーレットの彫刻が飾られ、ただしそれらは長く手入れをされていなかったので、全て古びて輝きは衰えているのが無常のあわれを演出している。

 この家の中の、すべてがそうであった。床も、壁紙も、窓枠も、カーテンも、階段の手すりも、何もかもがギラついていて、悪趣味で、ボロボロであった。その中をアルフィナは男の肩に担がれて運ばれている。何度か彼女なりに頑張って、男の体を蹴ろうともがきもしたが、まったく効果はなく、少女はズダ袋みたいに乱暴に担がれていた。

 男はアルフィナを担いだまま大階段を上って二階の廊下をずんずん歩き、隅の部屋のドアの鍵を別の男に開けさせて、真っ暗な部屋にアルフィナを放り投げた。


「きゃっ!」

「しばらくここにいな!朝になったら見に来てやるからな」

「"先輩"と仲良くしてるんだぜ!」


床に放り投げられて転がるアルフィナに、男たちは乱暴に告げた。アルフィナは慌てて立ち上がったが、少女の手が届く前に無慈悲にドアは閉められ、外から鍵がかけられた。ガチャガチャとドアノブを何度もいじったが、中からは開けられない仕組みらしい。


「そんな……。出して!お願い、出して下さい!!だれかっ!!」


ドアを叩いて必死に叫ぶ。無駄だろうと思ったが、せずにはいられなかった。

 その時、暗い部屋の隅で何かが動く気配があった。アルフィナはびっくりして振り返る。目を凝らすが、窓から差し込む月明りだけでは家具の影と混ざってしまって、正体がわからない。


「だれ?だれかいるんですか?」


恐る恐る問いかけると、衣擦れの音とともに若い女の声が返って来た。


「その声……アルフィナ?」


アルフィナは驚いた。聞き間違おうはずがない、答えた声は大好きな、探し求めたあの姉の声なのである。


「セシリア?姉さんなの?そこにいるの?」

「あぁ、アルフィナ!あなたなのね!」


物陰から女が立ち上がる。窓から差し込む光でやっと顔が見えた。あまり高くはない背に、少し太い腰つき。自分と同じそばかす顔は、やはり探し求めた姉のセシリアである。


「セシリア!」


アルフィナは駆け寄って抱き着いた。


「無事だったの!あぁ、でも、少しやつれたんじゃない?大丈夫?」

「大丈夫よ。会いたかったわ、アルフィナ。よかった……」


セシリアは一度妹の体を強く抱きしめ返し、顔を確かめるように額を撫でたが、直後、


「待って!」


アルフィナの体を抱きしめたまま、動きを止めた。微かに眉間に皺を寄せて妹の顔を見下ろす。


「どうしてここにいるの?まさか、あいつがまた家に?」


セシリアは誘拐された日からこの部屋に監禁されていた。当初の予想よりもずいぶん相手の態度はマシで、粗末ながら食事も出るし、体を拭くことも許されている。男どものいやらしい目つきは屈辱であったし、体に触られることもあったが、どうも約束の期日まではセシリアを傷つけまいと徹底しているらしく思われた。約束の日に、約束の教会へ例の物を持ってきさえすれば、彼女自身にも家族にも手は出さない、それは、彼女を誘拐した張本人のことばである。

 だというのに、何故、妹はここにいるのであろうか。


「何か、また無茶な要求をされたの?」

「ちがうの。ごめんなさい、セシリア。あたしがいけないの」


アルフィナは姉の腕に縋りつくようにしながら、必死でこれまでのことを説明した。家族で相談してクルツァの町まで助けを呼びに行ったこと。そこで紹介された賞金首を探しにクルトペリオの町へ行ったこと。水瓶座と出会ったこと。自分の魔法のことも話した。


「あたし、キッドさんたちの話を盗み聞きしたの。それで……」

「なんて無茶なことを……」


セシリアは肩を震わす妹の頬をまたそっと撫でた。それからようやく気が付いて、部屋の灯りをつける。妹の顔がはっきりと確認出来ると、やはり安堵した。妹の無謀な行動は自分のためとはいえ褒めらられたものではないし、今が危険な状態なことに変わりはないのだが、こうして元気な姿を見られたことは嬉しい。


「あたしのために頑張ってくれたのね。魔法のこと、驚いたでしょう?」

「セシリア姉さんも、やっぱり知っていたの?」


静かに微笑みながらセシリアが頷く。妹の小さな手を取って、自分の膝の上に乗せた。


「知っているわ。もしかしたら、おじいさんたちよりも」

「それじゃ、あたしの本当の父さんと母さんのこと、やっぱりセシリアが知っているのね!」


アルフィナがそばかす顔を勢いよく上げて訊ねた。セシリアが驚きに目を瞠る。アルフィナと同じブラウンの瞳で、じっと妹の顔を見た。


「あたし、もうわかってるの。あたしは養子なんでしょう。おじいちゃんたちは、本当はあたしの両親が誰なのか知らないんでしょう?」


姉には正直に言った。アルフィナはセシリアのことを昔から信頼しきっている。

 そんな妹の真剣なまなざしに、セシリアは微かに首を振った。自分のいない数日の間に、見違えるように妹が成長していることに驚きつつ、優しく栗色の前髪を撫でてやる。妹の眼差しは、それまで隠していた秘密を探し当て、水瓶座の協力があったとはいえ、すべてを受け入れるつもりの眼差しに見えた。家族が思っていたよりも、この少女はずっと強い心の持ち主なのかもしれない。


2.

 アマート一家は、仲の良い家族であった。祖父も父も城勤めを辞めてから元々少なかった稼ぎは更に減り、父は他所に働きに出ていて、母は亡く、小さな村の外れの小さな家に暮らす家族は決して裕福とは言えなかったが、誰もそれを不満に思わず、いつも食卓には笑顔が絶えない、あたたかな家庭であった。

 アルフィナは、その中でぬくぬくと愛に抱かれ育った。十四年間、一度もその関係を疑うこともなく、家族の一員として生きてきたのである。だが、アルフィナには、家族の他の誰も持っていない魔法能力が生まれつき備わっていた。本人だけが長くそれに気がつかずに生きてきたのだが、ついにそれを自覚したのである。

 それは喜ぶべきことであった。魔力の制御は、己の魔力について知ることから始まる。アルフィナがずっと無意識に行って来た魔法を、意識して使い、結果を記憶できるようになったのは明らかな成長であり、姉として、誇らしいことである。

 だが、同時にそれは、一匙の淋しさをセシリアの心に溶かしこんだ。アルフィナが隠れ潜んでいた本当の己に気がつくことは、セシリアには、これまで何も知らなかった妹が自分の手を離れていく巣立ちの兆しに思えたのである。

 薄暗い部屋で、セシリアはひとつだけ妹に尋ねた。


「あなたは、まだあたしを姉さんと呼んでくれるの?」


アルフィナは、己の魔法能力が祖父母や両親から遺伝するはずのない種類のものだと教えられ、己を養子だと思ったのだという。どうも少々勘違いをしている部分もあるようなのだが、それを正す前に、セシリアはそれだけ確認しておきたかった。もしかしたら血がつながっていないのかもしれないと言いながら、それでもまだ自分のことを姉と呼んでくれるアルフィナの優しさと健気さが、セシリアには、嬉しい反面、信じられないような思いもあったのである。

 だが、当のアルフィナは、自分の言っていることがおかしいことだとは微塵も思っていないのであった。


「当たり前でしょ!」


アルフィナの答えは、迷いなく素早かった。


「あたしの父さんと母さんが誰でも、あたしが本当は誰でも、セシリアは姉さんよ。大好きな姉さんだから、あたし、早く会いたくって、ここに来たのよ。……来ちゃ、だめだったかもしれないけれど」


アルフィナは最後に決まり悪そうに、後悔と反省のことばを付け加えたが、セシリアは喜びのために、そこは聞かなかったことにしてくれた。そんなことを責めるよりも、アルフィナに話さねばならないことがたくさんあると彼女は思ったのである。自分を誘拐した犯人のこと、犯人たちが狙っている物のこと、アルフィナの本当の親こと――祖父母にも隠してきた、父母から教えられた真実を、ついに話すときがきたのだと覚悟したのであった。

 だが、まだここは誘拐犯の家である。当然ながらまったく落ち着いて話などできないし、どんな危険があるかもわからない。とにかく、まずは脱出が先であった。


「ありがとう、アルフィナ。あたしも、あなたのことを永遠に妹だと思ってるわ。でも、話は後にしましょう。あなたの血筋のことも、他にも、父さんたちから預かっている、あなたに言わなきゃならないことがあるんだけれど、大事な話だから、帰ってからにしたいの。おじいちゃんやおばあちゃんにも聞いてもらいたいし」


アルフィナも肯いた。

 アルフィナが捕まってしまったのは、まったく自分の迂闊であったが、せっかくこうして姉と再会できたのだ。大事な話などというものがなくとも、一刻も早く二人一緒に帰って、はやく祖父母を安心させてあげたかったし、それに、勝手に抜け出してきてしまったから、水瓶座の皆も今頃、自分を探しているかもしれない。


「セシリアは"例の物"っていうのが何か知ってるんじゃないかって、みんな言ってたわ。本当に知っているの?」


そんな秘密らしいものを姉が隠しているような様子を見た記憶はアルフィナにはなかった。あの小さな家で、家族の誰にも見つからずに宝物を閉まっておけるような場所があるとは思えないから、恐らくずいぶん小さなものであろうとは思うのだが、母の日記帳が入っていた鍵付きの引き出しの中にもそれらしいものを見たことがない。

 祖父母や水瓶座の勘違いではないかという気持ちを隠さずにアルフィナは姉に尋ねたのだが、セシリアは難しい顔で肯いた。


「……知っているわ。やつらが欲しがってる理由も、だいたいわかってる。でも、あんな連中に絶対に渡せない物よ。だから、あたしはここで約束の日を待っているつもりだったの。あたしは例の物と交換するための人質のはずだから、当日はきっと教会に連れて行かれるでしょ?そのときに隙を見つけて逃げられないかって思って」

「絶対にって……でも、それを渡しますって言えば、出してもらえないかしら。おじいちゃんたちは隠し場所を知らないから、あたしたちが取ってきますって言ったら、どうにかならないかな?」


セシリアが急に厳しい顔で妹を見下ろした。そんな作戦が通じるとも思えなかったというのもあったが、それ以上に、そのブラウンの瞳は何かつらいことに耐えているように揺らぎ、眉間には皺が寄って、奥歯を噛みしめているのか口元が力んでいる。


「そんな簡単じゃないのよ」


絞り出すような声であった。


「どうして……」


言いかけて、アルフィナは黙った。

 姉の横顔に、これ以上踏み込ませざる気配があった。その正体はアルフィナにはわからなかったが、どれだけ責めても今は絶対に話してはくれないであろうことだけはアルフィナにもわかったのである。やはり祖父母の元へ帰るまで、セシリアは何も語らぬつもりらしい。例の物というのが、自分の本当の親に関わる者なのだろうとアルフィナは察し、それが姉をこんな顔をさせているのだと思うと、自分が姉を苦しめているような気さえしてきて、アルフィナほんの少し悲しくなった。

 しかし悲しんでいてもどうしようもない。このまま黙ってこの部屋で座り込んでいたところで、ただ空しく時が過ぎるばかりである。ここに捕まってしまった失敗を取り返すためにも、何か脱出の手掛かりを見つけられないかとアルフィナが落ち着きなく辺りを見回し始めると、それに気が付いたセシリアが妹の体をそっと抱き寄せた。


「大丈夫。きっとあたしが出してあげる」

「でも姉さんだって、ずっとここに閉じ込められてたんでしょう?」


アルフィナが痛いところをついた。

 まったく妹の言う通りであった。セシリアだって、逃げ出せるならば既にひとりで逃げていたであろうに、アルフィナを逃がす方策が浮かぶはずはないのである。妹を元気づけようと作った笑顔であったが、早くも崩れ、セシリアの眉が気弱に下がった。


「そう……そう、よね。そのドアは中から鍵が開けられない仕組みになっているし、万が一開いたとしても、家の中には、さっきの男みたいなのが何人もいるし……。ああ、あたしたちの魔法が花を咲かせるだけなんてものじゃなくって、戦えるものだったら良かったのに……」


アルフィナは、この姉の台詞を聞いて、そういえば姉と自分は同じ花の魔法を使えるのだ、と、思い出したが、しかし、それについて深く考えはしなかった。ここに来るまでに自分の感応の魔法がまったく役立たずだったので、この状況で魔法を頼る気持ちがまったく湧いてこなかったのである。


「そこの窓はどう?二階だから、ちょっと高いけど頑張れば……」


アルフィナの提案に、セシリアが首を横に振った。


「だめよ。あたしも同じことを考えたけど、とてもできないわ。下は石だらけの固い地面なのよ。頑張って飛び降りたって、あたしたちじゃ、きっとケガをしちゃう。ケガなんてして逃げ切れると思う?」


とは言え、他に二人が出られるような場所はない。やはり、大人しく期日を待つしかないのだろうか。セシリアは悩んだ。自分一人ならば、それもよかろうが、アルフィナはそうもいかないであろう。

 アルフィナを部屋へ放り投げた下っ端の様子では、アルフィナがセシリアの妹だと相手は気付いていないように思われた。つまり、アルフィナに人質としての重要性がないと相手が考えているということで、多少乱暴しても構わないと思われているかもしれなかった。アルフィナはまだ幼いが、相手はかなりの好色らしかったし、犯人たちの趣味でなかったとしても年頃の少女の利用価値はいろいろとあるに違いない。

 反対に、もしも二人が姉妹だと気が付かれても厄介である。アルフィナがここへ来たということは、居場所が知られてしまったということで、犯人としてはじっとしてはいられないであろう。


(やっぱり、ここで待つことはできないわ)


記憶が確かならば、昨日からセシリアを誘拐した男は留守のはずであった。その男のことを他の連中は"ボス"と呼んでいたから、そのボスがいない今が逃走のチャンスに違いないが、そろそろ戻ってくる頃合いである。


(夜の内に、どうにかして、この子だけでも逃がさなくては)


決意だけは固かったが、焦る心に、やたらに大きな音でコチコチと時計の針が進む音が響いた。時間だけが過ぎてしまう、と、セシリアは必死になりながら脱出方法を考えようとしたが、焦れば焦るほどに苛立つばかりで、まったく良案が思い浮かばない。

 そんな姉の顔を見ながら黙っていたアルフィナが、ふと気がついた顔で、ぽろり、とんでもない提案をしてのけた。


「燃やしてしまうのはどう?」


ずいぶん大胆な発言の割には、けろりとした顔である。セシリアは驚いた。


「何を言いだすの」

「この蝋燭で火をつけるの。大声で呼んでも誰も来てくれないけど、さすがに火が燃えてたら慌てて様子を見に来るでしょ?」


アルフィナの作戦は単純である。つまり火事を起こして、炎と煙と騒ぎに紛れて逃げてしまおうというだけのことであった。

 アルフィナの発想には水瓶座が誇る美女"火傘"のメアリーの存在が大いに影響しているのだが、無論セシリアはそんなこととは思わない。妹が突然、建物に火を放つなどと言い出したことにひたすら驚いた。数日会わない間に成長してくれたのはよいが、あまり物騒になられては困る。年長の自分が冷静にならねばと、妹の目をじっと見て語り聞かせた。


「仮にそれを実行するにしたって、ちゃんと逃げ道を考えなきゃだめよ。確かに部屋が燃えてたら、人質が気になって部屋に来るやつもいつかもしれないけれど、そこの鍵を開けさせる前に、あたしたちが焼け死んじゃったらどうするの」


アルフィナは簡単に考えているようだが、そう上手く行くとはセシリアには思えなかった。まず、蝋燭の小さな火では火事と言えるまでに時間がかかるかもしれないし、上手く燃えても、今度は燃え過ぎて、自分たちが炎や煙に巻かれて身動きできなくなってしまうかもしれない。それに、誰かが鍵を開けたとして、その誰かに捕まらずにいられるであろうか。その一人を切り抜けたところで何人も男たちがいるのに、二人で逃げ切れるのだろうか?

 うーん、と、アルフィナはひとつ唸ったが、


「窓を開けておいたら?」


やはり、簡単に言った。


「煙が窓からもくもく出れば、きっとあんまり燃え広がる前に誰か気がつくと思うんだけど、どうかしら。もし、それでも誰も気がつかなくって危なくなったら、そのときは窓から逃げれば……」

「だから、さっきも言ったけれど窓から飛び降りるのは無理よ。ドアから出たって男たちはたくさんいるんだから、部屋を出てからのことも考えないと……」


セシリアが言いかけたとき、ガチャリと部屋の鍵が開いた。

 姉妹は緊張して口を噤み、身を寄せ合って入り口を見る。ドアが開いて、男がひとり入って来た。

 アルフィナを肩に担いできた男である。いくらアルフィナが平均より小柄だと言ったって、あまりに軽々と運んでいたが、改めて見れば、なるほど肩の筋肉が盛り上がっていて、足も丸太のように太い、筋肉男であった。


「なんの用?」


妹から相手の気を逸らそうとして、セシリアが気丈に進み出た。男はそれをニタニタと見てから、アルフィナに視線を移す。


「残念だが、お前には手をつけるなとボスに言われてるんでな。そう焦らずに待っていろ。今夜は、そっちの小さいお嬢ちゃんに用があるんだ」

「だから、彼女になんの用なの?」


更にずいっと進み出たセシリアだったが、男はめんどくさそうに手を振って、のしのしと部屋に踏み込んできた。セシリアがそれでも負けじと男とアルフィナの間に体を入れたが、男の巨大な手で簡単に払いのけられてしまう。


「ちょっと!」

「邪魔するんじゃねぇよ。お前にケガをさせるなと言われてるから我慢してるんだぜ」


言いながら、男の手がアルフィナに伸びた。


「お前以外の女は好きにしていいってボスに言われてるんだよ。このチビについて聞いたんじゃないけどよ、まぁ、いいだろって話になってよ。ガキは趣味じゃねぇんだが、暇つぶしぐらいにゃなってくれるだろ、お嬢ちゃん?」

「嫌です!離して!」


男の巨大な手に手首をつかまれて、アルフィナは悲鳴を上げながら、今夜二度目の必死の抵抗を試みた。しかし、男は今度もそれすら楽しんでいるようにニタニタ笑顔を引っ込めず、アルフィナの手首をつかんだ手をさらに強く握りしめた。


「痛いっ!」


手首を握りつぶされそうな痛みに、アルフィナの瞳から涙の粒が落ちた。同時にセシリアが立ち上がって、男の反対側の腕にしがみつく。


「その子を放しなさいっ!」

「邪魔すんな、このっ!」


必死に細い足を踏ん張って、両腕に力を込めてセシリアは耐えた。鍛えた巨体はセシリアのような少女が力んだぐらいでビクともしないが、脅しても揺すっても絶対に離すまいという態度に男の苛立ちが募る。


「いい加減にしろ、てめぇっ!」


男が一瞬、アルフィナの手をはなしてセシリアの長い髪を掴み上げた。微かに呻いたセシリアの腕の力が緩み、男の太い腕が解放される。


「やめてっ!」


男がセシリアの髪を引っ張って投げ飛ばそうとしていると思い、今度はアルフィナが叫んで、姉を助けようと男にとびかかろうとした。だが、男の方でもそんなことは予期している。振り向きもせずに空いた腕でアルフィナの体を弾いた。


「きゃっ!?」


軽い悲鳴を上げてアルフィナの体が後ろへ吹っ飛んだ。その方向にはドアがあるはずで、セシリアが咄嗟に手を伸ばしたが、指先すら触ることができない。アルフィナの軽い体が簡単にドアに叩きつけられるかと思われた、その瞬間、何かが少女の体を受け止めた。

 衝撃に備えて瞑っていた目を、アルフィナはゆっくりと開いた。背中があたたかい。この温もりは人間の体温である。アルフィナがドアにぶつかる直前に、部屋に入ってきた何者かが、飛んできたアルフィナの体を抱きとめたのであった。


「……?お前……?」


確かに殴り飛ばしたはずの少女の体がぶつかる音がしなかったので、不審に思った男が振り返り、乱入者の姿を認めて顔を歪ませた。

 若い女であった。軽く膨らんだジゴ袖に、スタンドカラーのドレスはウエストが細く締まり、そこに巻かれたリボンがふわりと軽やかに翻っている。一見すると上品で慎ましやかな格好だが、裾からチラリと覗く煌びやかなハイヒールを履いた足首が、ドレスとの対比で妙に白く、細く見え、あだっぽく人目を惹いていた。その雰囲気から、館の男が連れてきた商売女のひとりであろうかとセシリアは考えた。

 アルフィナも、自分を助けてくれたらしい相手の顔を見ようと、そっと顎を持ち上げる。その視界を塞ぐように相手の髪がサラリ、降りかかり、アルフィナは円い大きな目をはっと見開いた。

 髪のために女の顔は見えなかったが、その髪によって、アルフィナは、この人物が誰なのかすぐに理解した。女の髪は、美しい亜麻色フラクセンである。そして白い肌、細い足首――この女を、アルフィナは知っている。


「カレンさん……?」


水瓶座で、アルフィナの手を取って席まで導いてくれた女性――"フラクセンの乙女"と呼ばれていた、あのスターのひとりに違いない。


「……カレンだと!?」


アルフィナが呼んだ名に、男が反応してセシリアの髪を放し、興奮した様子で少女の体を突き飛ばした。


「その亜麻色の髪は……まさか!水瓶座のフラクセン・カレンか?なんてこった!高級娼婦より高いと言われる乙女が、こんなボロ家で身を売ってるとはな!」


男が今夜一番下卑た笑い顔を見せ、アルフィナの背筋に悪寒が走る。だが、カレンは落ち着いた動作でそっとアルフィナの体を離し、立ち上がると、無言のまま後ろを向いて、部屋のドアを閉めた。それを見た男の醜い笑みが更に深まる。


「そうか、今夜はボスが留守なんで持て余してるんだな?他の男どもじゃ物足りないってか?だがよ、そんなに焦ることはないぜ、カレン。あんたがここでシたいってなら、別にいいんだが、こんなガキどもがいたら萎えちまうだろう。ゆっくり、俺の部屋で楽しもうぜ」


いやらしい笑みを浮かべながら、一人合点して男がにじり寄ってくる。その背後ではセシリアが髪を乱したままへたり込んでおり、カレンのとなりでは、アルフィナが姉と同じ表情のまま男と女とを見比べていた。

 そんなアルフィナに、カレンはやはり無言のまま、手をちょいちょいと動かして合図した。呆然としていたアルフィナも、はっとそれに気がついて、部屋の隅を這うようにして姉の元へ急ぐ。筋肉男の興味は、もう完全にカレンに向いていて、二人の少女のことはまるで忘れたようであった。

 男が焦らすように、じわり、じわり、と、カレンに近付いた。カレンはまだドアの方を向いたままである。


「そう照れるなよ」


男がだらしない目つきで笑って、太い腕をぬっと伸ばした瞬間であった。カレンがいきなり振り向いて、亜麻色の髪を遠心力にふわりと舞い上がらせながら、男が抱き着こうと伸ばしてきた腕をかわして一歩大きく踏み込むと、肘で思い切り男の顎をかち上げた。


「がっ……?」


男は突然のことに理解が追い付かないらしく、笑顔のまま二歩後退した。そんな男の動揺などカレンは構わず、ドレスの裾を片手で引き上げながら更に踏み込んで、一切の容赦なく、男の急所を膝で蹴り上げる。

 これには、いかに屈強な男も悶絶せざるを得まい。瞬間、男はその鍛え上げた体を屈ませて、苦悶に表情を引き攣らせた。

 だが、さすがにこの巨体である。ここまで体を鍛え、そんじょそこらの魔法使い程度なら腕力でぶっ飛ばしてきた意地がある。カレンがその体からわずかに距離を置くと、根性を見せて、男は怒りに目をギラつかせながらカレンに襲い掛かった。


「危ないっ!」


思わずアルフィナが姉に抱き着き、セシリアが叫んだ。

 だが、その叫びが終わる前に、既にカレンの脚は高々と上がっていた。灯りに照らされてキラリと装飾を煌かせながら、女物のハイヒール靴が、勢いよく、突進してきた男の右肩を蹴り砕く。更にカレンは、敵が膝から崩れ落ちつつもドレスを掴もうとするのを器用に躱して後ろへ回り込み、腰に巻いたリボンを素早くほどいた。


「てめ……むぐっ?」


男の屈辱の叫びは音になる前に塞がれた。カレンがほどいたリボンを男の鼻と口に巻き付けて、ぐっと力を込めて絞り上げたのである。足首の細い華奢な外見からは想像できない力に、男の首が後ろへのけ反った。

 息苦しさに、男がリボンをはずそうともがいたが、カレンはそれを許さなかった。男の顔にぐるり巻き付けたリボンの片端を足で踏みつけ、反対側を右手で捩じりながら握りしめて引き続き頭部を締め付けつつ、更に空いた左腕で、もがいている男の腕を捻って関節をめ、相手の動きを封じ込める。

 そのまま、ほんの数秒であったろうか。モゴモゴと唸りながらもがいていた男の両腕が、突然、ダラリと垂れ下がり、体中から力が抜けたように、すっかり静かになってしまったのである。

 姉妹が恐る恐る見守る視線を背中に感じながら、カレンがふぅっと、ひとつ、息を吐いた。カレンが男の顔に巻き付けていたリボンを外し、座り込んだままの男の背中を蹴飛ばすと、男はそのままドサリと力なく床に倒れた。

 乱れた亜麻色の髪を煩そうに後ろへ払って、それから、ゆっくりと、カレンが姉妹を振り返る。

 その顔を見たアルフィナのブラウンの瞳が、限界まで見開かれて制止した。円い大きな目を縁どる睫毛も驚愕のあまりに硬直し、口もあんぐり開いた状態で固まっている。

 今、振り返った顔と同じ顔をした人物を、アルフィナは知っていた。だが、認めることができなかった。何故ならば、その人物は"乙女ではない"。とても、そんな風に呼ばれるような相手では、ないはずなのである。

 信じられない光景にわが目を疑い硬直しているアルフィナのそばかす顔を、カレンは少し不機嫌そうに眉を寄せて見下ろして、またひとつ、ふっと短い息を吐いた。それからやっと、やや薄い唇から、ことばが紡がれる。


「まったく、どうしてきみがここにいるんだい、レディ?」


その声は、女のように掠れたアルトで響き、その瞳は、薄暗い部屋で深く輝くヘーゼルグリーンであった。


3.

 フラクセンの髪をふわりと舞わせながら振り返ったカレンの顔を、アルフィナは信じられない気持ちで凝視している。


「なんだか騒がしかったんで様子を見に来てみれば……」


少し頬を膨らませて喋る様子は、やはり、この数日で見慣れたものである。


「え……?あの……」

「なに?」


軽く眉を寄せながら首を傾ける仕草も間違いがない。この慎ましやかなドレスに身を包んだ人物の正体は、


「…………キッド……さん……?」

「え?」


アルフィナのことばに、相手ははたりと睫毛を上下させた。それから短く「あ」と呟いて、


「あぁ~~~~~~~~っ!!!!」


と、ことばにならない声を発してうずくまった。

 キッドは、己が女の格好をしていることをすっかり忘れていたのである。余程恥ずかしいのか、手のひらを口に当てて情けなく眉を下げながら、アルフィナを見た。


「ちがう!ちがうんだ!これは、別に趣味とかじゃなくて!」


アルフィナは何も言っていないのだが、わたわたと言い訳をしようとするキッドの顔は、耳まで真っ赤になっている。アルフィナもまったく予期しなかったことに驚いて、ただただじっと見るだけで黙っているので、キッドは更に恥辱に頬を染め、その頬を両手で挟むと、また再び手で顔を覆いながら弱々しく懇願した。


「頼むから、その純粋な目でこれ以上見ないでくれる……?」


ほとんど泣きそうな声である。アルフィナは、はっと体を跳ねさせて謝った。


「ごめんなさい!びっくりして……」


それはそうであろう。アルフィナがどうしてここにいるのかは知らないが、屈強な、いやらしい感じの男に強引に連れていかれそうになっているところへ、突然、謎の女があらわれただけでも驚きであろうに、なんと女は女ではなく男だったのである。


「うん、そうだよね……。女装した変態が突然目の前でバトル始めたら、引くよね……」

「そ、そんなことありません!」


あまりのキッドの沈みように、アルフィナは慌てて声を張った。


「ジェシーさんだって凄く素敵だなって思ったし……」

「まさにそのジェシーさんの趣味なんだよ、これ……。はぁ……信じられない。絶対、きみには見られたくなかったのに……」


キッドは座り込んだまま、真っ赤になっている。手は口を覆い、眉を下げ、瞳を少し潤ませて、乱れたスカートの裾から例の細い足首をチラリと覗かせている様子は、一見すると完全に女なのだが、装飾のついたスタンドカラーと膨らんだジゴ袖のドレスは、首や肩の筋肉で男だと露見しないため――という建前で、露出を嫌がるキッドのためにジェシーが選んだ衣装である。


「あの……いいかしら……?」


おずおずと手を挙げたセシリアの声に、その存在を忘れていたらしい二人が、そろってピクッと体を震わせて振り向いた。


「はっ!そう、キッドさん!姉さんのセシリアです!たまたま、一緒の部屋に……」

「セシリア?彼女が?それはよかった、探していたんだ。えぇと……」


キッドが握手をしようと伸ばし掛けた手を、セシリアに届く前に引っ込めた。決まり悪そうに一度顔をそらし、叱られた子どものようにそろっと上目遣いでセシリアの顔を窺って苦笑する。


「ごめん。挨拶は、着替えてからでいいかな……」

「あぁ!えぇ!構いません!あの、でも、あなた……男性、なの?」


キッドの顔がまた羞恥に固まる。セシリアは失言に気がついて、慌てて目をそらした。


「なんでもありません!それより、助けていただいてありがとうございます。その、お強いんですね、見かけによらず……。あ、いえ、見かけっていうのは別に……」

「いや、いいよ。うん。ちょっと変な空気にしてしまったけれど、そうだ。逃げなくっちゃね」


キッドが気を取り直して、争って乱れた髪をかき上げて立ち上がり、倒れたままの男に近寄って呼吸を確認する。セシリアがアルフィナを手招きながら、その様子をうかがった。


「その人、生きてるんですか?」


恐る恐る尋ねる姉妹に、キッドは笑って振り返った。服装のことから戦闘のことに話が移ったので、大分気楽になったようである。


「大丈夫。生きているけれど、しばらく起きないよ。このリボンにかなり強力な薬をしみこませておいた。メアリーの言うには、三時間ぐらいはぐっすりおねんね、起きても眠る前の三十分程度の記憶は吹っ飛んじゃうぐらい強いそうだから、今のうちに逃げちゃえばなんとかなるさ」

「でもかなり騒いだわ。追手が来てしまうんじゃ……」

「三下連中なら、同じように転がしてきたから焦ることはないよ。でも、まあ、万が一ってこともある。廊下は使わない方がいいかな」


涼しい顔でキッドは言うが、セシリアは驚きに口を抑えた。いくら女装して相手を油断させていたとはいえ、この華奢な体で、あの屈強そうな男どもたったひとりで、とは、信じがたいことであったが、先程の戦いぶりを思い出せば有り得ないことでもない。水瓶座とやらには、こんな人間が何人もいるのだろうか?旅芸人にはならず者が多いとは聞くが、行商と芸だけをやっている集団だとは思えなかった。

 セシリアがそんな考えを巡らせていることに気付いているのか、いないのか、キッドが窓から下を見下ろして、サラリと肩に亜麻色の髪を滑らせながら姉妹を振り返った。


「てっとりばやく、こっから行こうか」


アルフィナが思わず姉の顔を見上げ、セシリアが妹の視線を代弁する。


「その下は石だらけです。危険ではありませんか?」

「それは困った。きみたちにケガさせたらママに怒られちゃうし、DDに殴られる」


などと言ってはいるが、キッドに深刻な様子はまるでない。ふわりとアルフィナの顔を見て、また首を傾げてちょっと笑った。何か思いついた顔である。


「きみ、本当は自分の魔法が花を咲かせる魔法だって言ってたな」

「でも、小さな花束ぐらいです。セシリアも同じだから、今はとても……」

「いや、ここでたっぷり役に立ってもらおう。ちょっと失礼」


言うがはやいか、キッドは胸元から小瓶を取り出した。戸惑う姉妹にウインクをして、二人の上からキラキラと光る細かい粉末をふりかける。アルフィナが、自分の体にかかった煌く砂の正体に気がついた。


「もしかして、これ……」

「そ。リーイエ海岸の星の砂。伝説の古代国家星の国ゲーツァ・タルト由来の一時的な魔力増幅装置ブースターってやつさ」


「おれには必要ない」、キッドは瓶の中身をぜんぶ姉妹にかけてしまってから、アルフィナの手を取り、セシリアの肩に反対の手を当てて、二人を窓際まで連れていく。


「おれの言う通りやれば、絶対、大丈夫だから」

「でも……」

「いいから。はい、きみは、これ持ってて。失くすとママがうるさいんだ」


躊躇するセシリアにキッドがハイヒールを脱いで押し付ける。それから、室内を見回して椅子を二脚引き寄せると、その内ひとつに自分でのぼって、となりの椅子にセシリアを立たせた。


「少し体に触るけど、構わないかい?」

「ええ。でも何を……きゃっ?」


ハイヒールを胸に抱えたセシリアを、キッドが横抱きに抱え上げて持ち上げた。驚いたセシリアから短い悲鳴がもれる。


「ちょっと我慢しててね。アルフィナ、先に姉さんとおれが下におりるから、きみは後から、ひとりで飛び降りるんだ」

「えぇっ?でもそんな……」

「大丈夫。合図をしたら、二人とも、思いっきり地面に向かって魔法を放って。いいね?」


戸惑う姉妹を無視して強引に決め、キッドが窓枠に足をかけた。


「みっつ数える。よし……行くぞ!一、二、三!」


三カウント目を言いきると同時にキッドが窓枠を蹴って外に飛び出した。同時に姉妹は手のひらを地面に向けて、もうどうにでもなれ、という気持ちで魔力を集中させた。

 ぶわっと音がするほど大量の花が中空にあらわれた。アルフィナもセシリアも目を見開いて自分たちの魔法を見つめる。色とりどりの花々は大粒の雪のように、どんどん地面に降り積もり、あっという間に眼下の景色を花で覆い尽くしてしまった。

 その上に、キッドはセシリアの体を抱いたまま着地した。花々は予想よりもしっかりと積み重なり、キッドの着地のバランスを崩すことなく、衝撃を見事受け止める。


「あはは!最高だな。悪趣味な家だけれど、これで、ぐっときれいになったんじゃない?」


キッドは笑いながらも、すぐに驚愕の表情のままのセシリアを花の中におろし、まだ窓からこちらを見下ろしているアルフィナに向かって両手を広げて見せた。

 アルフィナが怯えた表情で小さく首を振る。キッドが両腕を開いて呼びかけた。


「きみは、勇気ある少女なんだろう、レディ?」


アルフィナが眉を開くのが見えた。セシリアが心配そうに妹を見上げ、そのとなりでキッドが笑った。


「おいで!絶対に受け止める!」


その笑顔に、アルフィナがきゅっと唇を引き結んだ。椅子から体を伸ばして窓枠に片足をかけ、ひとつ深呼吸する。花の中のキッドの笑顔を見下ろし、気合を入れ、目を瞑って飛びだした。

 一瞬、頬に風を感じた。恐怖にドキリと心臓が跳ねる。だが、直後、その不安も花の香りと温かな体温に抱き留められ、アルフィナはパッチリと目を開いた。

 キッドのヘーゼルグリーンの瞳と、目が合った。


「ほら。大丈夫だったろ?」


キッドの無邪気にも見えるヘーゼルグリーンの瞳が、すぐ目の前で、じっとアルフィナの顔を見つめている。アルフィナは自分の顔がポーっと赤くなるのがわかって、慌てた。


「はわわ!あの、ご、ごめんなさい!」

「おっと!」


急にもがきだしたアルフィナにちょっと驚きながら、キッドが少女の体を花の中にそっと下ろす。わたわたと距離を置く少女を見て、また少し首を傾げた。


(悪いことしたかな?難しい年頃だし……)


それとも、やはり自分のこの格好がいけないのではないかと思い至り、小さなため息を吐く。と言って、こんな夜更けに本物の乙女二人の前で服を脱ぎ捨てるわけにもいかないので、お互い耐えるしかないと諦めた。


「それにしても、すごい量……」


セシリアが足元の花を見下ろして、呆然とした様子で呟いた。


「いや、これはおれもびっくり。二人とも本当は魔力、弱くなかったんだな。星の砂をぜんぶ使うこともなかったかもね」


キッドも辺りを見回して苦笑した。踏み出すと、ちょっと足が埋まるほどである。明らかにやり過ぎであったが、結果、誰も怪我無く済んだのだから、貴重品を使い切った甲斐もあったろう。


「さ、行こう。ぐずぐずしてると、見つかるよ」


キッドの指示で、夜中でも特に暗い道を選びながら、三人は手を取りあって夜道を急いだ。

 水瓶座の隠れ家で、まずセシリアを出迎えたのは、現実にこんな女がいるのかと思われるぐらいの、夢のように美しい女であった。


「あら。もしかして、セシリアさん?」


見事なブロンドに紫の瞳、ぽってりと色っぽい唇の近くには狙ったように黒子があって、豊満なバストにくびれたウエスト、形いいヒップに、艶やかな声……と、天が美人に与えられるものを片っ端から贈ったような女である。


「セシリアだって?」


奥からよく響くテノールの声を出したのは、これも見たことがないような美男であった。背が高く、胸板厚く、ほとんど黒に近い焦げ茶色の髪をきれいに撫でつけた八の字髭の紳士が姿勢よく歩み寄ってきて、セシリアと目が合うや否や実に滑らかな動作でその手を取り、軽く口づけをする。まるで絵物語の王子であった。


「これはこれは。話に聞く以上の乙女だ。薄汚れた隠れ家が、一気に華やぐな」

「あんたね、いい加減にしなさいよ」


極めつけはこの裏声である。カツッと硬質なヒールの音を響かせて現れた、筋骨逞しい大男は、これも非常に整った彫の深い容貌の美男で、不思議なほどに唇のルージュが決まっている。


「ジェシーさん!」

「ああ、アルフィナ!無事だったのね!だめじゃないの、ひとりで出て行ったりなんかして!」


セシリアの脇からアルフィナがとびだして、口紅の大男に抱き着いた。


「あなた方が、"水瓶座"の……?」


予想以上に個性の強い三人に気圧されながらも、セシリアは慌ててお辞儀をした。


「セシリア・アマートです。この度はご厄介をおかけしました」

「堅苦しいのはやめましょ、セシリア。アルフィナもね、もっと気軽に話していいわ。ジェシーさん、じゃなくって、あたしのことはママって呼んで。さ、夜風は冷たいわ。女の子は体を冷やしちゃだめなのよ」


なるほど、これは"ママ"だとセシリアも思った。体格がいいせいもあるだろうが、包容力のある人物である。まだ出会ったばかりだが、この個性の強い面子をまとめるのには、こういう人間が必要なのであろうと思わせる強さとあたたかさがあった。


「すぐにお湯沸かすわね。嫌なやつらのことなんてサッパリ流しちゃいなさい」


言いながら、ジェシーは一度奥へ下がろうとしたが、急に見事な回れ右をして姉妹のうしろを覗き込んだ。


「あなたたち、二人だけで逃げてきたの?」


アルフィナが少し背伸びするように上向いて答える。


「ううん。キッドさんが助けてくれて……あれ?」

「……いないわね」


先程まで一緒にいたはずのキッドの姿が消えている。ジェシーは訝しげに目を細めた。


「どこ行っちゃったんだろう?さっきまで一緒だったんです。あの、ルーレットの……」

「じゃあ本当にあの館に?あらあら。そうですの……」


メアリーが含み笑いを扇で隠した。となりではディリンジャーが、やはりニヤニヤしながら姉妹のうしろの木陰を見ている。


「まあいいわ。坊やが一緒だったんなら、万が一にも尾行はいないでしょう」


ジェシーも同じ辺りを睨みながら姉妹を中へ招き入れた。

 ジェシーの水をメアリーの火で沸かすという、贅沢極まりない風呂をあがったセシリアとアルフィナが廊下を歩いていると、既に夜も更けたというのに一同が大騒ぎしている声が食堂から聞こえてきた。笑い声には祖父母のものも混じっている。姉妹が顔を見合わせて、食堂へ向かったとき、ちょうどキッドが椅子を立って叫んだ。


「いい加減にしろよ、DD!」


言いきってから、食堂に入って来たアルフィナと目が合った。帰り道、突然消えたキッドがいつの間に戻って来たのか、不思議に思ったアルフィナが目をそらさずに見ていると、キッドが思い切りバツの悪そうな顔をして顔をそらす。それを見て、またディリンジャーが大笑いした。


「ハッハッハ!なんて顔だ、キッド!」


この男は笑い方までハンサムで、横隔膜を震わせて腹から笑っているのに何処か品がある。


「彼がキッド?さっきのフラクセンの?」


セシリアがアルフィナに耳打ちで囁く。妹は嬉しそうに肯いて、姉は改めて感心したようにキッドを見つめた。亜麻色の髪は鬘なのか、キッドなる人物の少し癖のある髪は金褐色、もちろんドレスは脱ぎ、シンプルな白いシャツを肘までまくって着ている。確かに男である。だが、体格はやはりディリンジャーと比べてずいぶん小柄で、声は亜麻色の鬘の人物と同じであった。


「うるさいっ」


キッドが乱暴に椅子に腰を下ろして、全員に背を向けて拗ねた。まるで子どもの反応である。それを見て愉快そうに笑っているジェラルド・アマートが孫娘二人を手招きしてそばへ座らせた。キッドとの仲は、その後、良好であるらしい。


「セシリア、アルフィナ、二人とも無事でよかった」

「心配かけてごめんなさい」

「あたし、勝手にここを抜け出して……」

「いいのよ。でも、今度からひとりで何処かに消えたりしないでちょうだい」


祖母もいつもなら寝ている時間である。起きているのは、突然いなくなったアルフィナを案じて眠れなかったのにちがいない。少女の胸が痛んだ。

 そんなアルフィナの肩を誰かがそっと叩いた。振り返ると、メアリーが微笑んで立っている。


「ねぇ、アルフィナ?お姉様を紹介して下さる?」

「あっ!ごめんなさい!」


隠れ家に帰り着くなり湯を用意されてしまったので、まだきちんと挨拶もしていないことに気が付いたセシリアが慌てて立った。アルフィナも姉にならって立ち上がり、最初にメアリー、そしてディリンジャー、ジェシーとを姉に引き合わせる。


「みんな、すごいショーをやるの!ディリンジャーさんの魔法は、まだ見てないんだけれど」

「ディックでいい。きれいなお嬢さん方がお望みなら、いつでも披露するが?」

「本当?じゃあ、今度!」


アルフィナが無意識にディリンジャーのアピールをはねのけて、ジェシーが噴き出した。セシリアがアルフィナを見下ろして責めるような顔をしたが、ジェシーが目線でそれを止める。


「ディックに対しては、そのぐらいがいいのよ」

「?なんのお話?」

「なんでもありませんわ、アルフィナ」


おほほ、と、意味ありげに笑いながらメアリーが言った。アルフィナはなんだか子ども扱いされたように思ったらしく、少し口を尖らせる。祖父母が和やかにそれを見守っていた。


「でも、本当に皆さん、そんなショーをなさるんですか。今度、是非拝見したいわ」


ショーと言えば。姉のことばを聞いたアルフィナがぽん、と手を叩いた。やはり無意識で無邪気な少女の攻撃が、今度はキッドに向けられる。


「トントールさんがフラクセンの乙女は早撃ちとナイフ投げをやるって……」

「乙女!」


ディリンジャーが立ち上がって叫んだ。手には酒の入ったグラスがある。


「よし、諸君!もう一度乾杯しよう!我らが乙女に!」


ディリンジャーが大きく腕を振り上げた瞬間である。硬質で美しい音とともにディリンジャーの手の中のグラスが砕け散り、中に入った酒がこぼれた。ディリンジャーが憤激する。


「カレン!何をする!」

「誰がカレンだ!この脳みそ下半身野郎!」


零れた酒で濡れた袖を気にするディリンジャーに、顔を引き攣らせたキッドが叫んだ。


「女の子の前で、なんて下品なこと言うのよ!」


ジェシーが立ち上がり、ヒールの音を響かせながらディリンジャーの方へ近づいた。突然のことでアルフィナは気付いていなかったが、ディリンジャーのうしろの柱にナイフが一本突き立っている。ジェシーが引き抜いて、キッドの足元に放り投げた。キッドがそれを拾いながら訴える。


「歩く下ネタ野郎なのは間違いないだろ?」

「認めるけど、言い方ってものがあるわ」

「頭を撃たなかっただけ褒めてよ」


急にアルフィナが拍手した。その音に全員がアルフィナを見る。


「すごい!本当にナイフ投げも上手!」

「あー……えぇと、どうも」


会話の内容を理解できていないのか、まるで能天気な少女の賛辞にキッドが動揺して頬をかいた。アルフィナが瞳を輝かせて姉を見上げる。


「本当にすごいのね!さっきだって、あんなドレスで戦って、あたし驚いちゃった」

「アルフィナ?その話はやめた方が……」


どうしても人の傷を抉りにくる少女の無邪気である。キッドがまた両手で顔を覆って隠した。


「え?どうかしたの、キッド?」


きょとり、とアルフィナがキッドを見た。その声の悪意のなさに、キッドが肩を震わせる。


「穴があったら入りたい……」

「掘ってやろうか?」


ディリンジャーがなおも冗談を言い、濡れた袖をハンカチで軽く拭いながら、染みにならないか気にしている。メアリーがクスクス笑って、アルフィナとセシリアにもドリンクを運んできた。

 姉妹でドリンクを礼を言って受け取り、また祖父母の近くの椅子に腰を下ろす。メアリーはアメジストのように美しい紫の瞳を愉快そうに細めた。


「キッドったらね、恥ずかしくって、さっき隠れてたんですのよ、近くの木の陰に」

「そうなんですか?全然気が付かなかった」

「ちょっと足元に火をつけたら諦めて出てきましたわ。それにしてもおかしいでしょう?あの坊やが、あんな格好をして、ステージに立っているんですのよ」

「メアリー!」


キッドが甲高い声で抗議した。メアリーは軽くハンカチを振ってそれを退ける。


「でも、どうして?」

「その方が客受けがいいからよ」


ジェシーが床に散ったグラスの破片を片付けながら肩を竦めた。


「生意気な坊やより、ね。キッドの場合は魔法も使わない芸だから余計に、一見そんなことできなさそうな女の子がやった方が人気出るのよ。実際、カレンの方がかわいいでしょう?」

「うん。すっごく、かわいかったです」


即答するアルフィナの声に、もはやキッドは言い返す気力もない。カウンターに肘をついてこめかみを抑えた。ジェシーがその姿に苦笑しながら腰に手を当てる。


「いいじゃないの。褒められたんだから」

「……ママのコーディネートがね」

「ま。照れちゃって」


ジェシーがアルフィナとセシリアに視線を戻した。


「かわいいだけじゃなくって、ああいう格好をしていれば正体もわからないでしょう?他の子とちがって、キッドは酒場で情報を集めたり、ひとりで悪い奴を退治に行ったり、あちこち出歩いて仕事をするから、顔がバレると都合が悪いっていうのも理由のひとつね」

「なるほど……」


アルフィナが雑貨屋のトントールを思い出しながら頷いた。あの太った中年男も、まさか憧れのフラクセンの乙女が、いつも酒場でくだらない会話をしている童顔のガンマンだとは思うまい。

 視線を感じて、キッドが大きくため息を吐いた。やっとまともに顔を上げて、椅子に座ったまま振り返る。


「今まで正体知られたことなかったのに。よりによってレディに見られるなんて……」

「でも水瓶座のテントであたしを案内してくれたときも、女の子の格好だった」

「あれは……仕方ないじゃないか。みんなきみの顔を知らないから、案内できるの、おれしかいなかったし。だからと言って、普通にこの格好であそこを歩いていたら水瓶座との関係がバレる。テントの中は薄暗いし、まだ会ったばっかりだったし、顔さえじっくり見られなきゃ、レディもおれだって気が付かないだろうと思って、しょうがなく、だよ」


確かに、アルフィナはあの時点では目の前の人物の正体が男だとはまったく気が付いていなかった。初めての場所に興奮していたせいもあるが、普段ステージに上がっていて気づかれない程なのだから、キッドの方がすごいのだろうと少女は改めて思う。こうして見ていると少しも女子には見えないが……。


「わたしも、さっきはてっきり女性だとばかり思っていました」


セシリアが言うと、キッドが諦めたように苦笑した。


「人間なんて単純だからね。おれぐらいの身長の人間がああいう格好をしていれば、まず女だろうって思い込みがある。騙すのは案外かんたんなんだ。体格はある程度ごまかせる格好をママが選んでくれてるし、専属ヘアメイクがメアリーだからね。あとはちょっと手足の動かし方なんか気をつかってさ、声さえ出さなきゃ、大抵なんとかなる」


キッドなら喋っても案外男だとわからないのではないかとアルフィナは思ったが、口には出さないようセシリアがジェスチャーで抑えた。


「それで、今日みたいに潜入をすることが?」


セシリアがやんわりと話題を変える。キッドが気が付いて、微かに表情を変えた。


「あるよ。ああいう仕事はおれの仕事。メアリーは派手だからあまりやらない。それに、他の女の子にはやらせない。……危ないからだ。わかるね、レディ?」


アルフィナがびっくりして少しむせた。口元を慌てて拭って、それから眉尻を下げてキッドの顔を見る。キッドは決まり悪そうな少女のそばかす顔を見返して、ふっと肩を落とした。


「……どうして勝手にあんなところに?」

「ごめんなさい。あたし、この間、皆さんの話を聞いていて……」


もう一度、キッドが大きくため息を吐いた。先ほどのため息は自分への、今度のものはアルフィナへのものである。


「きみがあの晩、廊下にいたのはわかっていた。聞いているかもしれないと思いながら放っといたのは、誰にも言わずにひとりで乗り込むなんて危険なことはしないと思ったからだ」

「本当にごめんなさい。みんなに心配かけて……」


改めて、アルフィナは全員に謝罪した。先程、祖母の顔を見た時も胸が痛んだが、こうしてキッドに諭されると、いかに自分の行動が浅はかだったか実感される。実際、あのとき姉と再会できたのは偶然であったし、キッドが来てくれていなかったら、今頃、何をされていたことか。

 十分にアルフィナが反省している様子なのを見て、キッドとジェシーが顔を見合わせた。


「あたしたちも、ちゃんとお話すればよかったわね。不安だったでしょう、ごめんなさいね」

「きみを怖い目に遭わせるつもりはなかったんだ。だから言わなかったんだけれど、逆効果だった。いいかい?おれが、ああやって潜入まがいのことをするのは、おれひとりなら切り抜けられるってわかっているからだ。もう絶対に真似なんてしないって、約束してくれるね」


アルフィナがこくこくと何度も小さく頷いた。悪いのは、きちんと先のことを考えなかった自分なのだ。彼らが謝ることではないと思った。そんな少女の健気さに、キッドが首を傾げて笑う。瞬きをして、空気を変えた。


「それにしても、すごかったな、きみたち姉妹のお花畑は」

「お花畑?」


メアリーが問い返した。アルフィナとセシリアが恥ずかしそうに俯く。


「ちょっと逃走経路の確保にね、協力してもらったんだ」


外で魔法を使ったこともない姉妹である。そわそわと二人で手を取り合ったのを見て、キッドが二人にウインクをした。アルフィナの肩が跳ねて、セシリアはちょっと微笑んだ。

 ジェシーがそんな三人の様子を見、それから姉妹の祖父母の顔を見て、何が何やらといった顔で肩を竦める。祖父母もそろって首を傾げて、不思議そうに孫娘たちを見つめた。キッドが立ち上がって、大きく伸びをする。


「さて、と。疲れちゃったから、もう寝よう。いろんな話は起きてからでいいよ」

「そうね。今後のことは、一度休んでから決めましょう」


そう言われると、アルフィナも急激に眠気に襲われた。夜更かししたのももちろんだが、いろいろなことがあったので、心身ともに緊張と興奮を強いられて疲れ切っていたのである。指摘されて初めて実感して、思わずあくびをする少女の頭を、ジェシーがひとつ撫でた。


「四人だと狭いから、新しい部屋を使ってちょうだい。ご夫妻は昨日までと同じ部屋に。セシリアとアルフィナは、そのとなりの部屋を使えばいいわ」


一家を見送って、キッドが大あくびをしながら立ち去ろうとするのをジェシーが呼び止めた。


「キッド。あんたは報告が先よ」

「えぇ~?おれだって疲れたよ」


ジェシーに睨まれて、キッドが渋々引き返す。メアリーがとなりに立ってキッドを見下ろした。


「肝心のリーチ・ティーチは取り逃がしたのかしら?一晩で帰ってこなかったからには何か見つかったのでしょうね」


キッドは椅子に腰を下ろし、腕を組んで、メアリーを目だけで見上げた。


「それらしいのはいなかった。おれを買った下っ端の話じゃ、ボスってのは出かけてるってさ」

「なんだ、手ぶらで帰って来たのか?」

「少なくとも姉妹は連れて帰ったろ。そっちはどうなんだ、DD。カジノで情報は?」


ディリンジャーがお道化た顔で肩を竦める。何も新しい情報はなかったらしい。キッドが軽くディリンジャーを睨んで、すぐに視線をジェシーに移した。


「三下どもの会話から、ボスってのは誰かに会いに行っているらしかった」

「まず間違いなく、"例の物"っていうのを欲しがってるのはそいつの方ね。ティーチも例の物がなんなのかわかってないような口ぶりだったって、ミスター・アマートの証言よ」

「夜明けには向こうも目を覚まして、セシリアがいなくなって大騒ぎだろうな。彼女の家は?」

「もちろん引き続き見張らせてるわ。大事な人質に逃げられて、敵さんどうするかしらね」


四人がそれぞれ互いの顔を見た。


「アルフィナの父親を抑えてるなら、そっちを使う。そうでなければ暴力に訴えるだけ、だな」


ディリンジャーのことばに他の三人は頷いた。キッドが顎に指を当てて呟く。


「約束の教会か、彼らの家か……。やつらどっちに来るかな」

「そういうときこそ、彼女の出番よ」


ジェシーがニヤリと笑うと、メアリーが、アマート一家がのぼって行った階段に目をやった。


「"予言者"アルフィナ・アマート、ね。彼女の血統と言うのが、やっぱり事件の鍵を握っているようにも思わないこと?」

「それについてはセシリアが知っているだろう。いずれにせよ、おれたちは彼女らが起きるのを待たなきゃならないってことだ」


それで話を打ち切って、キッドはまた大きく伸びをして立ち上がった。


「それまで、今度こそ寝かせてもらうよ。それじゃ」


やれやれ、と、ジェシーが腰に手を当てる。間もなく残された三人も、それぞれの部屋にさがっていった。

 自室に戻ったキッドは、まだ暗い部屋の中で愛用の銃を手に取った。グリップ部分に特徴のある回転式拳銃リボルバーで、例のなんの魔法もかかっていないものである。どこをいじるでもなくそれを眺めながら、小さな声で独り言をいった。


「……血統、か」


呟く横顔には微かに寂寞の影があった。軽く頭を振って銃を置き、ベッドに横になると、キッドはすべて忘れるように布団をひっかぶり、ひとり夜が明けるのを待った。

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