第1026話 昏く冷たい海の底から(2)帰って来た死者
瀬戸家の残された親子は、揃って海の夢を見ており、朝はその話をするのが日課になりつつあった。
「何か、波の音がどんどん大きくなるね」
にこにこと娘の菜摘が言えば、息子の操吉も頷く。
「ああ、そうだな。それに、潮のにおいも強くなる気がするし」
しかし、昨日まではそれににこにことしていた母親明子の顔は、どこか曇っていた。
「どうした、母ちゃん」
「え?ああ。何でもないよ。ほら、早く食べて宿題しなさい」
言いながら、内心に沸き上がる不安を押し隠した。
起きると、仏壇の前に海水の水溜まりができていたのだ。そしてその水溜まりは、どこか腐臭がしたのだった。
そしてその水溜まりは日増しに大きくなり、腐臭も強くなって、子供達にも隠せなくなった。
「何だろう、これ」
明子と操吉はひそひそと言い合った。
「お父ちゃんが帰って来ようとしてるんじゃ?」
そんな明子の言葉に、操吉はどこか言い知れぬ不安を禁じ得なかった。
それからも水溜まりは大きくなり、親子3人が寝ている部屋の近くまで足跡のようなものが付いて、とうとう親子3人で、それを一晩中待つ事になった。跡からして、どうも今夜には部屋に辿り着くようだからだ。
夜中を過ぎ、菜摘がうつらうつらとし出した時、それが始まった。
波の音が部屋中に響き、潮のにおいと腐臭とが混ざった臭いが漂って来る。
「うっ」
明子も操吉も鼻を抑え、臭いに起きた菜摘も、顔をしかめて鼻をつまむ。
そこに、びしゃ、びしゃ、と濡れたような足音が聞こえた。
操吉と明子は顔を見合わせた。
その足音はどんどんと近付いて来、部屋の前に立った。
開け放したふすまの向こうに、それが立った。びしょ濡れで、成人男性だとはわかるが、俯いていて顔もわからない。
いや、ぐずぐずになっていて、判別できなかった。
明子は悲鳴を押し殺し、震えて顔を明子の腹に押し付ける菜摘をきつく抱きしめる。
それは近付いて来ると、ゆっくりと手を上げ、親子の方に伸ばして来る。
と、ピシッと音がして、それは腕を引っ込めた。そして、仏壇の方へと戻って行く。
波の音が消えるまで、親子は動かず、口も開かず、じっとしていた。
「あ」
操吉が胸が熱くなったので胸ポケットに手をやると、そこには、隅が焼け焦げたようになったお守りが入っていた。
「兄ちゃん。あれ、お父ちゃん?」
菜摘が不安そうに訊くのに、明子は迷いながらも
「そうよ。父ちゃん、家に帰りたかったんだよ」
と言った。
しかし操吉は、どうもおかしいと、湧き上がる不安を抑える事ができなかった。
そんな操吉君と明子さんは相談し、近くの駐在所へ相談に行き、そこから陰陽部へと相談が来たのが翌日だった。
僕と直が瀬戸家へ行く事になり、東京都ではあるが遠く離れた離島へと飛行機で向かったのだった。
小型機を乗り継いで丸1日近く。着いた島は、カラッとしたものではあったが、暑かった。
「ああ、お待ちしておりました」
空港で駐在所の巡査が出迎えてくれ、瀬戸家まで送ってもらう事になった。
港には漁師の船が並び、漁師が漁具の手入れをしている。
「瀬戸航吉も、漁師でした。でも、上の子がもうすぐ高校受験で、下の子は小学校に入学したばかり。金がかかりますからなあ。つい、密漁に手を出したんでしょうなあ」
巡査がそう、残念そうに言った。
「密漁は多いんですか」
「はあ、残念ながら。漁師がすることもありますが、漁業権の無い客が、多いですなあ。潜水具を付けて潜って獲ったり、禁止されている区域に入って乱獲したり。パトロールしても、なかなか。困ったもんです」
巡査はのんびりとそう言って、溜め息をついた。
「軽い気持ちでする人もいるし、悪質なのは根こそぎですからねえ」
直もそう言って嘆息した。
密漁は犯罪だ。漁業法第138条で、3年以下の懲役若しくは200万円以下の罰金となっている。
「ああ、ここです」
パトカーがとまったのは、ありふれた古い民家だった。
線香の匂いと、潮のような腐臭のような臭いとが合わさって、家を取り巻いていた。
「まずは話を聞こうか」
「そうだねえ」
僕達は、ひっそりと静まり返った瀬戸家のドアを叩いた。
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