第317話 はじめての○○(1)ピンチ

 人生で、ピンチに陥った事など何度もある。強敵にも、幾度となく出会って来た。兄ちゃん助けて、と心の中でマイヒーローを呼んだ事も幾らでもある。

 まさに、今、僕はピンチに陥っていた。目の前の強敵は、かつてないほどの難敵である。しかし、兄はいない。頼るわけにはいかないのだ。

 僕は目の前の難敵を、どうやって処理するか考えながら、じっと眺めた。

「ぶっぶうおおぉぉんんん……や!」

「意思疎通ができない……」

 1歳児は、何か意味不明な事を言いながら、僕にさかんに何かを訴えかけていた。

 始まりは、昨日の夜だった。


 京香さんがやって来て、言った。

「明日は予定ある?」

 双龍院京香そうりゅういんきょうか、旧姓辻本。隣に住む、僕と直の霊能師としての師匠だ。今は子育て中で手が離せないので、霊能師の仕事はしていない。明るくて大雑把、アルコール好きで姉御肌の、頼れる女性だ。

「前期テストも終わったし、これと言って何も。何かありましたか」

 御崎みさき れん、大学2年生。高校入学直前、突然、霊が見え、会話ができる体質になった上、神殺し、神喰い、神生み等の新体質までもが加わった、霊能師である。面倒臭い事はなるべく避け、安全な毎日を送りたいのに、危ない、どうかすれば死にそうな目に、何度も遭っている。

「実は、明日急に知り合いのお見舞いに夫婦揃って行く事になっちゃって。子供は連れて行けないから、どうしようかと困ってたのよ。子守り、頼めないかしら」

「こ、子守りですか。康介君、1歳ですよね」

「そうよ。今度の冬で2歳。子供の成長って早いわねえ」

「明日、話ができるようには」

「そこまで人間の成長は早くないわ。

 お願い。他に頼める人がいないのよ」

 京香さんの頼みだ。聞いてあげたい。しかし、子供か。よりによって、苦手分野だ。

「大人しいし、聞き分けもいいし、人見知りもしないし、親がいなくて泣く事も無いし。だめ?お願いよぉ」

「……わかりました。頑張ります」

「良かった!お願いねえ」

 直に電話して、来てもらおう。

「京香さんには色々と世話になってるからな」

 兄が、京香さんが帰ると言った。

 御崎 司。頭脳明晰でスポーツも得意。クールなハンサムで、弟から見てもカッコいい、ひと回り年上の頼れる自慢の兄である。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。警察庁キャリアで、警視だ。

「うん、そうだね。子供かあ。まあ、頑張ろう」

 直に電話すると、手違いが起こった。

『ああ、ごめんねえ。明日はじいちゃんの所に行かないとだめなんだ』

「そ、そうか。それじゃあ仕方ないな。こっちは気にするな。こっちこそ悪いな」

 まずい。目論見が……。

 よし。冴子姉だ。

 風間冴子かざまさえこ。姉御肌のさっぱりとした気性の人で、兄の婚約者である。母子家庭で育つがその母親は既に亡く、バイトで生活しながら作家への道を目指して来た。

 が、思い出す。明日はバイトで朝から一日拘束だって言ってたのを。

 兄は論外だ。明日は仕事だから。

「どうしよう。智史は合コンだし、真先輩はお母さんの会社に行くって言ってたし、宗も楓太郎もバイトって言ってたな。まずい。僕1人?」

 冷や汗が出て来た。

「怜、しっかりやりなさい。身構えないでいいから」

「う……はい……」

 せめてもと、その夜はネットをあさりまくって、幼児の子守りを調べたのだった。


 結論から言って、ネットはあてにならなかった。子供が画一的でない以上、書いてあるアドバイス通りには行かない。

「ええっと、車で遊びたいんだよな」

「ああーっ」

 投げた車のおもちゃが、僕の額にヒットした。

「ふえっ、ふええーん」

 そして泣き出した!泣き出したいのは僕だ!

 その後、オムツが原因だったと判明して、無事にオムツを替えたのはいい。今のオムツはパンツ式で楽だ。

 ただ、一瞬目を離したすきに、下半身がスッキリして気が済んだのか、走り出していた。

 どうにか紙パンツをはかせ、ズボンをはかせ、使用済みの紙オムツを専用のごみ箱へ捨てる。手を洗って部屋に戻ろうとすると、足に取り付いて、見上げて来る。

「今度は何だろう。お腹がすくには早いし、ビデオか?」

「ううー、いいー」

「わかるように説明してくれ」

「ああー」

 僕を冷蔵庫の前まで引っ張って行く。

 僕は扉を開けて、ジュースを指さした。

「これか?」

「ああっ」

 意外と賢いんじゃないか、康介。

 紙パックの子供用リンゴジュースにストローを差してやり、渡すと、実に美味しそうに飲みだしたのでホッとした。

 が、急にポイッと放り出して部屋の方にヨタヨタと走り出す。

「こぼれるっ」

 慌てて拾い、床を拭いて追いかける。

 もう昼寝しないかな、と期待したが、目はギンギンらしい。ベランダに出るガラスにへばりついて、嬉しそうに手を振って笑っていた。

「すずめかな。え、電線の体操選手?」

 うちのマンションのベランダ前の電線には、電線を鉄棒代わりにして練習する体操選手の霊がいるのだ。

「いや、まさかな。

 でも、京香さんの子だしな。そういう体質だという事もあり得る」

 僕は康介の視線の先を何とか探ろうとしたが、飽きたのか、康介は玄関に向けて走り始めた。

「待て!」

 僕はお出かけ用のバッグを掴んで、後を追った。背後の体操選手を気にしながら。





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