第317話 はじめての○○(1)ピンチ
人生で、ピンチに陥った事など何度もある。強敵にも、幾度となく出会って来た。兄ちゃん助けて、と心の中でマイヒーローを呼んだ事も幾らでもある。
まさに、今、僕はピンチに陥っていた。目の前の強敵は、かつてないほどの難敵である。しかし、兄はいない。頼るわけにはいかないのだ。
僕は目の前の難敵を、どうやって処理するか考えながら、じっと眺めた。
「ぶっぶうおおぉぉんんん……や!」
「意思疎通ができない……」
1歳児は、何か意味不明な事を言いながら、僕にさかんに何かを訴えかけていた。
始まりは、昨日の夜だった。
京香さんがやって来て、言った。
「明日は予定ある?」
「前期テストも終わったし、これと言って何も。何かありましたか」
「実は、明日急に知り合いのお見舞いに夫婦揃って行く事になっちゃって。子供は連れて行けないから、どうしようかと困ってたのよ。子守り、頼めないかしら」
「こ、子守りですか。康介君、1歳ですよね」
「そうよ。今度の冬で2歳。子供の成長って早いわねえ」
「明日、話ができるようには」
「そこまで人間の成長は早くないわ。
お願い。他に頼める人がいないのよ」
京香さんの頼みだ。聞いてあげたい。しかし、子供か。よりによって、苦手分野だ。
「大人しいし、聞き分けもいいし、人見知りもしないし、親がいなくて泣く事も無いし。だめ?お願いよぉ」
「……わかりました。頑張ります」
「良かった!お願いねえ」
直に電話して、来てもらおう。
「京香さんには色々と世話になってるからな」
兄が、京香さんが帰ると言った。
御崎 司。頭脳明晰でスポーツも得意。クールなハンサムで、弟から見てもカッコいい、ひと回り年上の頼れる自慢の兄である。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。警察庁キャリアで、警視だ。
「うん、そうだね。子供かあ。まあ、頑張ろう」
直に電話すると、手違いが起こった。
『ああ、ごめんねえ。明日はじいちゃんの所に行かないとだめなんだ』
「そ、そうか。それじゃあ仕方ないな。こっちは気にするな。こっちこそ悪いな」
まずい。目論見が……。
よし。冴子姉だ。
が、思い出す。明日はバイトで朝から一日拘束だって言ってたのを。
兄は論外だ。明日は仕事だから。
「どうしよう。智史は合コンだし、真先輩はお母さんの会社に行くって言ってたし、宗も楓太郎もバイトって言ってたな。まずい。僕1人?」
冷や汗が出て来た。
「怜、しっかりやりなさい。身構えないでいいから」
「う……はい……」
せめてもと、その夜はネットをあさりまくって、幼児の子守りを調べたのだった。
結論から言って、ネットはあてにならなかった。子供が画一的でない以上、書いてあるアドバイス通りには行かない。
「ええっと、車で遊びたいんだよな」
「ああーっ」
投げた車のおもちゃが、僕の額にヒットした。
「ふえっ、ふええーん」
そして泣き出した!泣き出したいのは僕だ!
その後、オムツが原因だったと判明して、無事にオムツを替えたのはいい。今のオムツはパンツ式で楽だ。
ただ、一瞬目を離したすきに、下半身がスッキリして気が済んだのか、走り出していた。
どうにか紙パンツをはかせ、ズボンをはかせ、使用済みの紙オムツを専用のごみ箱へ捨てる。手を洗って部屋に戻ろうとすると、足に取り付いて、見上げて来る。
「今度は何だろう。お腹がすくには早いし、ビデオか?」
「ううー、いいー」
「わかるように説明してくれ」
「ああー」
僕を冷蔵庫の前まで引っ張って行く。
僕は扉を開けて、ジュースを指さした。
「これか?」
「ああっ」
意外と賢いんじゃないか、康介。
紙パックの子供用リンゴジュースにストローを差してやり、渡すと、実に美味しそうに飲みだしたのでホッとした。
が、急にポイッと放り出して部屋の方にヨタヨタと走り出す。
「こぼれるっ」
慌てて拾い、床を拭いて追いかける。
もう昼寝しないかな、と期待したが、目はギンギンらしい。ベランダに出るガラスにへばりついて、嬉しそうに手を振って笑っていた。
「すずめかな。え、電線の体操選手?」
うちのマンションのベランダ前の電線には、電線を鉄棒代わりにして練習する体操選手の霊がいるのだ。
「いや、まさかな。
でも、京香さんの子だしな。そういう体質だという事もあり得る」
僕は康介の視線の先を何とか探ろうとしたが、飽きたのか、康介は玄関に向けて走り始めた。
「待て!」
僕はお出かけ用のバッグを掴んで、後を追った。背後の体操選手を気にしながら。
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