第244話 トンネル(3)ありがとう

 厳太郎氏は、ベッドに座って壁を眺めていた。別に、何を見ているというわけでもない。

 看護師が明るく話しかけながら、血圧や脈をはかり、用紙に記入する。

「はい。大丈夫ですね。

 今日は奥様の他にも、お客様がお見えですよ、香澄さん」

 言って、看護師は厳太郎氏の前から離れてドアの外へ出て来る。それと入れ違いに、伸子さんともう一人が部屋に入った。

 厳太郎氏は伸子さんを見て、口元を引き締めた。

「おはようございます。どちら様でしたかな」

「いやですねえ、お父さんったら」

 いつもの事なので、伸子さんも取り合わない。

 そこで厳太郎氏は、伸子さんに続く人物に気付いた。部屋に入る直前に僕から離して実体化させておいた、浩二さんである。その浩二さんに目を留めると、口元をフッと綻ばせる。

「浩二じゃないか。何だ、今帰ったのか」

「父さん……ただいま」

「暑かっただろう。母さん、何をしてる。ビールだ。飯にしよう」

「はいはい」

 伸子さんは穏やかに笑って、麦茶をコップに注いでいる。浩二さんは困ったように笑いながら、ベッドサイドの丸椅子に座った。

「仕事にはもう慣れたか」

「うん。ぼちぼちね」

「咲子さんは元気か」

 これが、元婚約者の名前らしい。

「うん。元気だよ」

「そうか。いいか、浩二。男は辛抱だ。そうやって、辛い時も大変な時も頑張って、家族を養っていくんだ。家族を思えば、どうという事は無い。それが幸せだと、必ずわかる日が来る。心配はいらん」

「うん。そうだね。忘れないよ。

 父さん。これまでありがとう」

「うむ」

 厳太郎氏は上機嫌で麦茶を飲んで、

「そろそろ寝るか」

と、ベッドに横になって、眠り始めた。

 それを眺めながら、伸子さんが嬉しそうに笑っていた。

「母さんも、ありがとう」

「ばかね。こっちこそ、ありがとう、浩二。それと、ごめんなさい」

「どうして?ぼくは、父さんと母さんの子で良かったよ。次も、そうしたい」

「浩……二……」

 浩二さんは周りを見回して言う。

「もうぼくは、母さんを助けてあげられない。でもここなら、心配ないね。でもお母さん。もし困った事があった時は、何でも、誰かに相談してね。約束だよ」

「ええ、ええ」

「じゃあ、母さんも、体に気を付けて」

「浩二!」

「このまま逝けなくなってしまうからね。もう、逝くよ」

 廊下では、訳を話してあるため、万が一を想定して医者や看護師、介護士も、僕達と一緒に待機していた。その皆が、啜り泣きをしていた。

 浩二さんはその皆に向かって頭をしっかりと下げ、

「父と母を、よろしくお願いいたします」

と言うと、僕に、泣きそうな笑い顔を向けた。

「ありがとう。君達に会えて良かったよ。

 じゃあ、頼むよ」

「はい」

 浄力を、当てる。

 きらきらと光り、粒子のようになって消えて行く。

「無事に、旅立たれました」

 伸子さんが声を押し殺して泣き、厳太郎氏は幸せな夢を見ているかのように笑っていた。










 

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