第166話 鏡像(1)もうひとりのわたし
一面が鏡になった壁沿いにあるレッスン用のバーに手を添え、黙々とバーレッスンをこなす。鏡の向こうには、とりたてて目立つわけでもない地味な自分が地味な練習を繰り返しており、その向こうで、友人のりみがつまらなさそうな顔をしてバーレッスンをしているのを、冬美は視界の端に捉えていた。
その顔が、パアッと華やぐ。王子様こと、成田が現れたからだ。
このフィギュアスケートクラブを代表する男子スケーターであり、日本を代表するスケーターでもある。憧れる人間はたくさんいるし、ペアに転向するというので、そのペアになりたいと思っている女子は多い。
りみはクラブの女子を代表するような選手で、パッと華やかな美人だ。物おじせずに、成田と一番よく喋っているのはりみだろうし、気も合うようだし、ペアを組むのはりみになるだろうというのが、大方の予想だった。
鏡の向こうから、成田が片手を上げて冬美に挨拶してくるのに、冬美は、ちょっと笑って黙礼するのが精一杯という、地味で大人しい存在だ。
コーチにもしょっちゅう言われている。澄川さんは、技術はあるのに、華がねえ。
ああ、りみが羨ましい。そう、冬美は思いながら、黙々とバーレッスンをこなしていた。
大会はほぼ終了し、来期に向けての練習に入る。
どこか弛緩した空気だが、もう来期は始まっていると言ってもいい。基礎練習、プログラムの見直し、やらなければいけないことはたくさんある。
「はああ。今年は進路決めて、来年は受験かあ。この前入試が済んだところなのに。まあ、何とかなるでしょ。
冬美は進路、もう考えてるの?」
鏡越しに、りみが訊く。
「まだはっきりとは。でも、将来的には公務員かな」
「へっ?公務員?」
りみがきょとんとする。
「市役所とか、安定してていいかなって」
「え、冗談じゃなかったんだ……。
冬美は、プロになろうとか思わないの」
グランプリエをしっかりと鏡で確認しながら、冬美は自嘲の笑みを浮かべた。
「わたしなんて無理よ。全日本でいつもメダルを取れるりみならともかく、入賞が精一杯なのよ。大学でだって、続けるかどうしようかと思うくらいなのに」
後半部分はゴニョゴニョと呟いたので、りみには聞こえなかったらしい。
りみはバーレッスンに飽きたらしく、どうにか決まりのノルマを終わらせて、
「終わりーっ」
と雄たけびを上げて、
「冬美のスケートは凄いと思うけどなあ。プログラム次第なんじゃないのかな。今度は振り付け、変えてみたらどう?恥ずかしがらないで、色々チャレンジしてみなさいよ」
「う、うん……」
「ま、それはともかく。まだやって行くの?わたしはそろそろ帰るけど」
「もう少し」
「じゃ、また明日ね。お疲れェ」
「お疲れ様」
りみを見送って、冬美はバレエレッスン室に1人になった。
江口りみと澄川冬美。同じ頃にフィギュアスケートを始め、クラブでは、女子の1位と2位とされている。しかし、1位と2位の差は決して小さくないと、そう誰もが分かっている。
冬美は、鏡に映る自分を見つめた。
りみみたいにもっと華があったら。
りみみたいにもっと手足が長かったら。
りみみたいにもっと自信があったら。
成績が、上がっていただろうか。ペアに、選ばれていただろうか。成田君とも、物おじせずに話せていただろうか、と、鏡の中の自分に問いかける。
りみが羨ましい。
「ああ。代わりたい」
ポツリと言葉がこぼれて、苦笑した。
何をバカな事を言っているんだろう、と。
その時不意に、鏡の中の自分が、自分の浮かべた事の無い笑いを浮かべた。
かわってやろうか
その声は、直接頭で聞こえた。
「え?」
辺りを見廻してみるが、レッスン室には自分1人きりだ。
鏡に目を戻すと、いつも通り地味で冴えない自分が、どこか不安そうな顔でこちらを見返していた。
「気のせいね。そりゃそうよね。あはは……はあ」
疲れているようだ。もう帰ろう。
冬美は、練習を切り上げて、帰る事にした。一抹の不安には、ふたをして。
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