第5話 出会いはある日突然に(5)さよなら
喉が枯れたようになって、声が出ない。首周りには赤い手形がハッキリと残り、カッターシャツのボタンをキッチリ留めても、隠しようがない。
鏡に映る自分に溜め息をついて、キッチンに入った。
一瞬寝落ちした時のような空白の後、気付いたら、兄に抱え起こされていた。そして、佐々木先輩は泣き出しそうになりながら僕を見下ろし、震えていた。
「大丈夫。ちょっと、うん」
そう言うだけでも、とても大変だった。
兄は、
「何が大丈夫だ!?」
と怒っていたし、先輩はガラス窓を通り抜けて、ベランダでしゃがみ込んでいた。泣いていたんだと思う。
女の子を泣かせたままってどうかと呑気に考えたけど、こっちにしても、今更ながら手が震えてくるし、兄に申し訳ないと思うし、もうとにかく疲れたしで、そのまま寝付いてしまったらしい。
コーヒーの準備をしたところで、兄が入って来た。
「おはよう」
「おはようじゃ──まあ、おはよう」
一瞬ムッとしかけ、すぐに、おはよう、行ってきます、ただいま、いただきます、お休みなさい、ありがとう、ごめんなさいを言うのを忘れてはならないという我が家の鉄の掟に従い、おはようを言う。
「今日こそは、聞かせてもらうぞ」
だろうなあ。
「わかった。晩に」
「ん。
学校、行けるのか」
「行く。小テストもあるしね」
表面上はいつも通り、朝食をとって、家を出る。
そしていつも通り現れた直は、僕を見るなり、顔色を変えた。
「今晩、話す。だからいい。今日は探す」
エントランスに飛び込もうとする直の腕を捕まえて、止める。
直はしばらく考え込んで、ガリガリと頭を掻きむしったあと、溜め息をひとつついて、
「のど飴舐めるか」
と、いつも持ち歩いている飴入れの巾着袋をカバンから取り出した。
「と、いうことです。先輩、目をさらのようにして、探して下さい」
後ろから、遠慮するかのように佐々木先輩が現れる。
「頼みますよ」
「わかったわ」
「さ、行くか」
「今日は体育だよ、4時間目」
直は肩を竦めて、並んで歩きだした。
ギョッと二度見され、教師には何か言いたそうにためらわれ。午前中の授業だけで精神的に疲れ切って、昼休みの噴水のへりでの昼食タイムは、直と2人でやっとホッと息がつけた。
流石に今日は弁当も作れず、購買部で買ったパンだ。今度、パンを作ろう。兄はパンも好きだ。
「起死回生のミラクルな手はないもんかなあ」
食後のコーヒーをチュウーとストローで吸い上げながら、頭を悩ます。
「今日司さんに言うんだろ。だったら、再捜査とかしてもらえないの?」
「何か疑うような証拠が出たら再捜査してもらえるだろうけど、警察は、終わりにした事件をそう簡単に蒸し返さないよ」
「ここは何か、先輩、思い出して」
直に言われ、佐々木先輩は腕組みをしてウウムと考え込む。
目で「どう」と様子を訊いてくる直に黙って首を横に振り、2人仲良く嘆息した。
「あの辺を散歩中の幽霊とかでもいたらな。目撃してたかも知れないのに」
「いなかったの」
「ああ。居て欲しいところにそう都合良くは居てくれないもんだな」
噴き上げられた水は太いロープのように連なり、光を反射してキラキラと輝いている。佐々木先輩のロープマフラーはどことなく草臥れ、且つ、禍々しいが……。
「怜?」
「ロープを持ち歩くヤツは、あまりいないだろうな」
「珍しいだろうねえ。特に私用では」
犯人はその珍しい奇特なヤツなのか?
計画的犯行なら、用意してきただろう。でも、恨んでいそうな人物はいなかったし、通り魔とも考え難い。
では発作的犯行なら。反射的に殺してしまった。で、慌ててどこかからロープを調達して自殺を偽装しようと考える。ホームセンターとかで売ってる太いちゃんとしたやつで、そうそう落ちてもいないだろうしな。自宅から持ち出したか。遺体を放置して取りに戻るか?
あの辺りはコンビニと古い一軒家が数軒、か。どうだろう。
「公園にもう一度行ってみよう」
「OK」
相変わらず、真昼間だというのに人気のない公園だ。事件があったからこうなったのか、その前からこうだったのか。子供の頃は、ここで滑り台とかブランコとかで遊んだものだけどな。
真ん中にあるコンクリート製の大きな象は、鼻が滑り台になっていて、4本の足の間はトンネルが2本クロスするようになっている。上の部分にある手すりは大きな耳が反り返っている形になっていた。昔は鉄の棒だったのだが、ぶら下がって遊んだ挙句に飛び降りるバカな子供が続出し、こう変更されたのだ。
何を隠そう、僕と直もそのバカの2人だ。
象の後ろに件のジャングルジムがあり、象の左隣に木製のベンチ、象の右隣は花壇、象の前方には砂場とハンカチ落としくらいはできるスペースをおいてブランコが設置されている。
「先輩。もう一度、詳しく聞いてもいいですか。公園に入ってからの一部始終を」
佐々木先輩は公園の入り口まで戻ると、再現しながら説明を始める。
直は見えないので、大人しくトンネルの中心に座っていた。よくこうして、アイスを食べたりどんぐりを並べたりしたもんだ。声が響くのが楽しくて、歌を歌ってみたり。
「まず、入ってきて、荷物をここに置いて」
先輩はベンチに何かを置くマネをし、直の方へ向かって行くと、直に重なるように何かを置くように体を折る。
「ここにスマホを置いて」
何も知らずにニコニコする直と透けた先輩が二重写しのようで、何か気持ち悪い。
「この辺でやり始めたの」
と、象から2メートルほどベンチ方向へ離れたあたりで、象の方を向く。
「盆踊りの練習をですね」
「ダンスよ」
訂正して、踊りだす。
それはどうでもいいんだが、楽しそうなので躍らせておこう。
「ここで、後ろから首にロープをかけて絞める」
と、そのように先輩に近づいてまねをしてみる。
「そのあと遺体をジャングルジムまで運び」
とジャングルジムへと歩いて行き、
「ロープをここに結びつけた」
ジャングルジムに手をかけた。
「佐々木先輩が気付いたのはこれが済んでからでしたね。
引きずった跡がないなら、抱えたんだろうな。意識のない人間は、例え幼児といえども重い」
「女子高生なら、どんなにスリムでも、苦労しただろうね」
直らしい。相手が幽霊であろうとも、女の子相手に一応気をつかっている。
「抵抗はしなかったの、先輩」
「突然だったし、アッと思ったらすぐに意識がなくなった……か、死んだのね」
「突然首を絞められて、即、意識がなくなったらしい。
一気に気道と血管が塞がれて酸欠状態になったら、瞬間的に失神して、そのまま締まり続けているうちに死に至ることがあると、本で読んだことがあるよ」
「なるほど。抵抗の跡がないというのもそれなら納得だね」
今度は、花壇の向こうに並ぶ家を眺めた。
1軒は年寄り夫婦の住む家で、もう1軒はずっと空き家になっている。昔はお爺さんが住んでいて、時々公園に面した裏の窓を開けて「うるさい」と怒鳴られたが、10年くらい前に亡くなったんだった。残りの1軒は知らないな。
ん?うるさい?
単に子供の騒ぐ声が耳障りだったのか、それとも、象か?
象の滑り台の横に戻って考え、ジャングルジムの方を見て考え、また、キョトンとする直と佐々木先輩を見て考える。
「そうか、そういう事だったのか。
じゃあもしかしたら今回も──」
「何なんだよ、この前から」
突然背後からかかった低くて小さい声にギョッとした。いつの間にか、サンダル履きの20代終わりか30代前半の男が、後ろに立っていたのだ。集中していて気付かなかった。
直も象の足で死角になっていたのだろう。今、驚いたように腰を浮かしかけている。
佐々木先輩、あんたは何やってたんですか──ああ、盆踊りだったな。
同じように驚いた顔で、佐々木先輩が突っ立っていた。
「なあ、何でだよ。やっと静かになったってのに。この前からちょくちょく来て、何が目的なんだよ。何がわかったっていうんだよ、え?」
直までも届いていないんじゃないかというほどの小声でブツブツと呟くように言い、おもむろに、下げていたビニール袋を捨てて中で片手で掴んでいたものを取り出した。
白いロープだった。
「まさか……」
「やめてくれよ、もう」
ロープが両手でピンと張られ、こいつ犯人だ、と思うと同時に直が飛び出して来、そして、
「見ィ付ぅけぇたぁ」
という何とも言えない佐々木先輩の声がして、重くて冷たい刺すような殺気じみた空気が、爆発したかのように押し寄せてきた。
直がぶつかって来、走りこんできた兄が男を投げて抑え込む。
おお、流石は兄ちゃん、かっこいい。などとチラッと思うが、ヨタヨタと走ってきた辻本さんの、
「やめなさい!」
という真剣な声に、佐々木先輩に目をやった。
ひと回りかふた回り大きくなったかに見え、首のロープマフラーがプラプラと揺れている。顔色は悪かったものの、笑ったり、楽しそうだったりしていた顔は、表情が消え、見開いた目は異様な迫力と狂気を湛えて、犯人──容疑者の男に向けられていた。その様は、僕の知る佐々木先輩と同一人物とは思えなかった。
「佐々木先輩!捕まえました!」
「離せよ、ちくしょう!俺は悪くない!」
男は喚いて暴れようとするものの、逃げられるわけもない。
それが、いきなり兄と2人まとめて2メートル以上吹っ飛んだ。
「──!?」
「先輩!」
「だから言ったでしょう、霊を甘く見るなって!」
「やめて下さい、佐々木先輩!」
「まずいわ、悪霊化が始まった。そろそろ普通の人にも見えてくるレベルよ!」
焦ったように辻本さんが言い募る。
吹き飛ばされても、兄は男をにがさないように抑え込み、何が起こっているのか把握しようと辺りへ目をやっている。
が、本当に皆に見え始めたらしく、直はヒッと声を上げ、兄は少し眉を寄せて体を固くした。男はヒイッと声を上げたものの、尚も自己弁護に叫び続ける。
「うるさいんだよ!女子高生なんて、傍若無人で、自分がいつでも中心で正義で、もうどっか行けよ!俺は悪くないぞ!」
イラッとした。
「自分が中心で正義なのはお前だろうが。夢があって、それを目指して努力していた佐々木先輩の夢を、勝手に終わらせたのはお前だ!どんな理由があろうと、誰であろうと、他人の人生を強制終了させる権利なんてない!佐々木先輩に謝れ!!」
それでも先輩はゆっくりと近付いて行き、男は情けない顔で、
「ごめんなさい、助けて下さい!お願いします!」
と泣き出した。
「先輩、もういいでしょう。逮捕して、刑に服させますから。こんなヤツ、先輩が悪名を背負ってまで成敗しなくていいですよ。もう、大丈夫ですから」
しばらくそのまま男を睨みつけていた佐々木先輩だったが、やがてフッと圧力が消え、いつもの見慣れた佐々木先輩に戻る。そして泣きそうな顔をこちらに向けると、
「そうよねえ。トップアイドルになる筈だった英子ちゃんが、悪霊はないもんねえ」
と舌をだした。
誰もがホッと胸をなでおろした。一度視認されたからか、姿も声も、皆に届いているらしい。
「ありがとうね、怜君。それと直君に、辻本さん。先にあの世に行ってるから、来た時は先輩らしく案内でもしてあげるわよ。それとお兄さん、弟さんにはお世話になりましたし、お兄さんにも色々と心配をおかけしました。申し訳ありませんでした」
「どうもご丁寧に」
なんだか、薄くなってきたような気がする。
「お礼に、英子オンステージ!」
微妙な歌と盆踊りを披露する。うーん。なんかさっきまでの空気が……。
そして、楽しそうに笑い踊りながら、佐々木先輩はいなくなってしまった。
その後、兄に連行されて行った男は付き物が落ちたように──憑き物が落ちたのは僕の方だけどね──犯行を認めた。あそこは音が反響して、公園に隣接する家では、うるさかったらしい。あの男も佐々木先輩がスマホをかけて踊ったり、歌の練習をするのがうるさくて、就職難でイライラしていたので、余計に耐えられなかったそうだ。
僕らは全てをゲロさせられた挙句、相談しなかったことと勝手に危ないことをしたと叱られ、そして、無事で良かったと安心された。
ゴスロリとボクサーとを調べた日、公園近くで兄は僕らを見かけたらしい。あの白い車だ。それでベンチの後ろに潜んで会話をほとんど聞き、その日のうちに、辻本さんの身元を洗い出し、僕のスマホで常に僕の居場所を把握できるようにしたらしい。潜んでたなんて全くわからなかった。刑事は皆そのスキルを持っているのか、兄が凄いのか。兄が凄いんだな。
佐々木先輩が暴れた夜も隣からずっと気を付けてくれていて、翌朝すぐに辻本さんの部屋を訪ねたらしい。それで相棒でもある先輩に霊関係は伏せて相談して根回しを済ませ、辻本さんと一緒に公園までつけてきていたそうだ。
そして、辻本さんに
「今後もこういう事が起こり得るので、簡単な対処法とか憑かれないようにするために、助手をしながら訓練したほうがいい」
と言われ、辻本さんの助手のアルバイトをすることを兄に勧められたのだ。これまで、アルバイトをしたいと言ってもいい顔をしなかったのに。
それもそうだとアルバイトをすることに決まったのだ。もしこういう事があっても、兄に危ない目にあって欲しくないし、心配もさせられない。
さあ、しっかりしなければ。
その前に、買い物に出かけなければ。今日の夕食は、兄の好物の豆腐ステーキなのだから。
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