ある羊飼いの少年の物語

 これは少し不思議な仕事をする少年のお話。


 とある場所。どこにでもあって、どこにもない場所。とにかくわかっていることは雲を見下ろすことの出来る標高の高い場所だということ。


 太陽の光を受けて青々と茂る大草原の真ん中、大きな木の下に一軒家がある。そこにひとりの少年が住んでいる。彼の名はネム。寝起きに精一杯背伸びをしても天井まではまだまだ遠く、おそらくは十四、五歳。幼さの残る顔にはそばかすが散り、光の当たり具合で燃えるような赤に見える濃い茶色の髪はカタツムリの殻みたくカールしている。


 彼が寝床を這い出るのはもうお日様も空の頂点まで昇るころ。なにせ仕事が夜遅いものだから、必然彼の朝も遅くなる。今日もおそらくは正午を過ぎたころに起きだした。おそらく、というのはこの家には時計がないからだ。彼は時間に縛られない。都会であくせく働くサラリーマンからすればひどく羨ましいことだが、仕事の苦労はそれぞれだ。彼の仕事にだって大変なことはある。


 彼は羊飼いだ。言葉の通じぬ動物たちと心を通わせなければならない。


 ネムはまだ子供といっていい年齢だが、ここにひとりで住んでいる。羊飼いというのはそういうものだ。羊たちのために常に栄養のある牧草を探し場所を移動しなければならないので、基本的に外界と没交渉になりがちだ。まあ、ネムの場合は少し特殊で場所を移動する必要はないけれど。だから、ここに家を建ててのんびりと暮らしている。


「やあ、おはよう」


 ネムが挨拶を交わす。ひとりで住んでいるのに誰に向かって言っているのか。独り言? いや、そうじゃない。彼には心許せる同居人がいる。三匹。


 ネムの足元でその大きな身体をぎゅっと丸めて眠っていたバーニーズ・マウンテン・ドッグがベッドから飛び降りて誰より早くネムに飛びつく。牧場の警護を担当する肉体派の彼の名はシュラーフと言い、後ろ足で立てばネムを軽く超える巨体とは裏腹に誰よりも甘えん坊だ。喉から胸にかけて真っ白に染まった毛が涎掛けのように見え、彼の性格をよく現わしている。ネムの肩に前足をかけ、赤い大きな舌でネムの顔に唾液を塗りたくるのが毎朝のお決まりだった。


 その後ろ、シュラーフの太い尻尾に顔を叩かれながら、律儀にお座りをして待つのがウニだ。多くのボーダーコリーがそうであるように非常に忍耐強い。目の周りが黒く、まるでプロレスラーのマスクをかぶっているように見える。次は自分の頭が撫でて貰えるという期待に目がキラキラと輝いている。


「そろそろご飯にしようか」

 

 ネムの声にもう一匹が反応する。短い尻尾をせわしなく振り、自分のご飯皿を咥えて持ってくる。ウェルシュ・コーギーのソーンは食いしん坊。最近は少し肥満気味でお腹を床に擦りそうだ。


 ネムと三匹は互いに信頼し合う仕事仲間であり、心を許せる友であり、愛する家族だ。誰も訪ねてくることのない秘境の地で仲良く暮らしている。


 朝食を食べ終えるとネムは動きやすい服装に着替え、三匹の相棒を引き連れて家を出る。羊飼いの杖を忘れずに。それは木製で長く、先が大きくカーブした、数字の7みたいな杖だ。そう、羊飼いのイメージにぴったりの杖。この仕事はなによりイメージが大切だから、これを忘れちゃいけない。


 家のすぐ隣、大きな木の陰に簡素な小屋があり、綿菓子のような羊たちが隅のほうに寄り集まって眠っている。ここは羊たちの寝床だ。


「おはよう、みんな」

 

 ネムが簡易的なカギを外して扉を外開きに開いた。羊たちは慣れたものでメエメエ鳴きながら列をなして寝床を出て、広い広い草原へと食事に向かう。


 ここで飼っている羊たちの種類はコリデールといい、白い毛がもこもことして角はなく、『羊』と聞いて多くの人が想像する姿をしている。羊にも多くの、思ったよりも多くの種類があり、角が楽器のホルンの形になっているものや、顔の黒いもの、牛みたいな柄だったり、目出し帽を被ったような怪しいやつから、カーリーヘアのおしゃれさんまでいる。だけど、ここにいるのはごく平凡な羊だ。それが大切。何度もいうようだけど、この仕事はイメージが大事だからだ。


 羊たちを追い立てる、いわば憎まれ役であるウニとソーンを置いて、ネムは杖をつき草原を歩く。羊たちはそこここに別れ、少数のグループを作って身体を寄せ合うようにしながら草を食んでいる。その一匹いっぴきの顔を覗き込み、身体に触れ、声をかけながらネムは歩く。羊は非常に我慢強い動物で、なかなか弱みを見せない。羊飼いは常に注意深く羊たちを観察し、その体調に気を配らなければならない。


 ときおり毛の伸びすぎた羊を見つけてはネムは仕事道具のひとつである鋏を取り出しカットする。ほかの羊飼いたちは夏前にバリカンを使って全身の毛を刈ってしまうが、ネムはそうしない。羊たちには羊らしいもこもことした姿でいて貰わないといけないからだ。


 どこまでも広がる草原を風が撫でる。牧草同士が擦れ、しゃらしゃらと音がする。羊たちの鳴き声と、ネムのあとをひな鳥のようについて回るシュラーフの荒々しい吐息が聞こえる。


 ぐるりと草原を見て回るとネムは家のそばに立つ大木の太い枝に腰掛ける。ここからなら遥か彼方まで続く草原が見渡せる。あちらこちらに羊たちの白い塊が点在している様子は、まるで緑色の空に浮かぶ雲のようだ。その雲の間をいったりきたりしているシュラーフはさしずめ大空を自由に飛ぶトンビだろうか。遊んでいるように見えるが、あれが彼の仕事だ。優秀な用心棒はパトロールを欠かさない。ウニとソーンの仕事はいまはまだない。体力を温存するように大樹の根元に寝そべって、ときおりネムのことを見上げている。


 ネムは手で望遠鏡を作って遠くを見つめる。どこまでも続く草原、青い空。誰の心にもある懐かしい風景。誰もが求める憧れの地。それがここだ。


 理想郷のひとつであるこの草原にも、いずれ日暮れがやってくる。太陽が傾いで白かった光が赤みを帯びる。草原は橙色に照らされて、羊たちもその色に染まる。家に帰る時間だ。


「さて、仕事だぞ」


 ネムが枝の上からウニとソーンに声をかける。彼らは耳をぴくりと動かすと、待ってましたと立ち上がった。ネムが唇を尖らせて口笛を吹く。ぴぃー。ウニとソーンは互いに競争するように草原のはるか向こうまで駆け出していく。


 彼らの仕事は羊たちを誘導すること。吠え、追い立て、時には足にかみつくこともある。だが、決して傷つけはしない。牧羊犬は聡明で主人に忠実だ。


 ボーダーコリーのウニはそのしなやかな身体を鞭のようにしならせ草の海を泳ぐ。羊たちを向こう側へと追い込んでしまわないように、ぐるりと大きく孤を描き、誰よりも草原の果てに近いところまで行く。ソーンもその足の短さとドラム缶のような丸い身体からは想像もできないような機敏さと、誰にも負けない無類のタフネスで駆け回る。ネムはその様子を枝の上から眺めて、口笛で指示を出す。ぴゅー、ぴゅい、ぴぴぴぴぴ。羊たちはネムと二匹の巧みな誘導により、続々とネムのもとへと集まってきていた。遊び好きのシュラーフは追い立てられる羊たちや、仕事中のウニとソーンの真似をしてはしゃいで走り回っている。呑気に見えるシュラーフだが、彼の家族である羊たちを狙う捕食者、クマやオオカミがやってきたときには、自らの命を顧みず勇敢に戦ってくれることだろう。


 草原は果てしなく広く、ウニとソーンの素晴らしい働きをもってしても、すべての羊たちが大樹のもとへと集まったのは太陽がとっぷりと沈んでからのことだった。空の端っこには丸い月が浮かび、青白い光を投げている。街灯のない草原では月明かりが頼りになる。ネムは羊たちの間を縫うように歩きながら、数をカウントしていく。草原に置き去りにしてきた子はいないかの確認だ。ウニとソーンはその間にも抜け目なく羊たちを監視している。ぐるぐると輪を描くように歩く、その完璧な監視体制はネズミ一匹も逃さないだろう。


「そろそろ行くよ」


 ネムが口笛を吹き、ウニとソーンに指示を与える。二匹の牧羊犬に追い立てられ、羊たちの群れは家の裏手へと回りこんだ。そちらも表と変わらぬ草原だが、その真ん中にぽつんと柵が立っている。丸太の支柱に細い枝を二本渡らせただけの簡素な柵は二メートル弱しかない。その姿は柵と言うよりもハードルといったほうが近いだろう。


 ウニとソーンはひと仕事終え、いまはネムの後ろに寝そべっている。草原を駆け回っていたために息は荒く、赤い舌を出している。シュラーフだけはまだ元気いっぱいで、二匹を遊びに誘おうと必死だ。羊たちは恐ろしい牧羊犬がいなくなったことで安心し、ひと塊になって足元の草を食んでいた。ネムは夜空にぷかりと浮かぶ満月を見上げている。


 静かな時間が過ぎる。風が穏やかに吹き、夜の香りを運んでくる。牧草たちのささやき声と羊たちの咀嚼音。犬たちの荒い息。心をリラックスさせるものがここには溢れていた。


 どれだけ経っただろうか。それは午後九時のことかもしれない。十一時かもしれないし、日付が変わったばかりかもしれない。それとももっと遅くて二時や三時の深夜かもしれない。ここには時計はなく、はっきりとしたことはわからないが、夜だということだけははっきりしている。


「さあ、仕事だ」


 空に張り付いた満月が音もなくスライドしていく。ここでは毎晩、満月が昇り、そして消える。ついさきほどまで月のあった場所にはぽっかりと白い穴が空き、ハードルと呼ぶべき柵を中心にして昼間のような明るさが蘇る。スポットライトに照らされた舞台が完成する。夜空に空いた覗き穴はその舞台を観劇するための特等席だ。


「ウニ、ソーン」


 ネムが口笛をぴゅいと吹き、杖を振る。ウニとソーンは休憩を終えて仕事に戻る。ウニが一番先頭にいる羊の後ろ足を甘噛みする。ソーンはほかの羊が動かないように牙を向いて威嚇をした。


 足を噛まれた一匹の羊は一鳴きして駆け出すと、草原にぽつんと置かれた柵を軽やかに飛び越えた。少し間を開けて二匹目が同じようにして飛び越える。


 ――羊が一匹、羊が二匹。


 そう、ネムの仕事は眠れない人々に安眠をもたらすこと。眠りの使者だ。誰もが一度は彼に世話になっている。


 ――羊が三匹、羊が四匹。


 ネムと相棒の三匹は毎晩完璧に仕事をこなす。羊たちは順番に柵を飛び、夜空に空いた穴からそれを覗く私たちは、あくびをして、目をこすり、徐々に眠りへと落ちていく。


 ――羊が五匹……羊が六匹。


 不思議な仕事をしている彼の物語を話すのは今回が初めてじゃないけど、いつもここで物語が終わってしまう。なぜかって?


 ――羊が七匹

 ――羊が八匹。


 ふわああ……ごめん、もう限界。この続きはまた今度。絶対。約束するから。


 ――羊が九匹

 ――……羊が十匹。


 だから、今日はもう寝よう。おやすみなさい。よい夢を。

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