仕事でミスを連発して落ち込んでいると、岡山先輩が声をかけてくれた。


「そういうときは肉を食って精をつけるのが一番なんだ」


 換気扇があべこべに置かれた狭い路地を身体を半身にしながらすり抜けていった先に、その怪しげな飲み屋はあった。看板は出ておらず、暖簾のれんもかかってはいるものの汚れて店名が読めなくなっている。ぱっと見ただけではボロ長屋、といった風情ふぜいだった。


 先輩は躊躇ためらいもなくその大きな身体を滑り込ませた。俺は尻込みしながらも、先輩を置いて帰るわけにもいかず、恐る恐る店内へと足を踏み入れた。


「いらっしゃい」


 まだ夕焼けが空に残っているというのに、店内はひどく暗かった。窓が少なく光が入ってこないようだった。照明もかなり絞ってある。どこかいかがわしい店の香りがした。


「おい、なにしてんだ吉備きび。こっちだこっち」


 奥から先輩の声が聞こえた。思いのほか店内は混み合っており、カウンター席にはずらりとサラリーマンの背中が並んでいる。が、盛況と表すには店内がやけに静かだ。みな、ちびちびと酒を舐めているばかりである。俺はその後ろをまた半身になりながら抜けた。


 先輩は奥の座敷に腰をおろしていた。その太い二の腕を見せつけるように腕まくりをし、すでに臨戦態勢に入っている。


「とりあえず生ふたつ」


 先輩の野太い声は静かな店内を我が物顔で通り抜け、すぐさま陰気な顔をした店員によって大ジョッキがふたつ運ばれてきた。よく冷えているようでたっぷりと汗をかいている。思わず喉がごくりと鳴った。


 乾杯、とふたりで声を合わせジョッキを打ち鳴らし、競うように麦酒ビールを喉に流し込んだ。冷たい流れが胃に落ちていくのがわかる。

 瞬く間に一杯を飲み干すと、先輩が店員を呼んだ。


「生のおかわりと、あといつもの肉の盛り合わせを」


 陰気な顔をした店員は聞いていたのかいないのか、なにも反応をしないままに奥へと戻っていった。かと思えばすぐさま大ジョッキふたつと大皿を持ってやってきた。大皿には生々しく赤い肉が載っていた。先輩はさっそく箸を割り、一枚をぺろりと食べた。


「え、先輩生で食べるんですか!」

「ここの肉は新鮮だからな、生でいけるんだよ」


 お前も食べろよ、と箸を渡される。先輩の勧めを断るわけにもいかず、渋々一枚を口に運んでみれば、どうしたことかやけに旨い。舌の上でとろけるあぶら麦酒ビールで流し込む。これがまた旨かった。つい箸が進み、見る間に皿の上の肉はあと少しになっていた。


「そういえば先輩、これなんの肉なんですか?」


 見た感じでは大皿には数種類載っているようだった。先輩は箸でひょいとその中の一枚をつまみ上げると、にたりと笑って言った。


「食ってみてわかんなかったか」

「わかんないっすね。その肉は鶏肉っぽかったですけど、他はさっぱり」


 俺は降参だと両手をあげてみせた。先輩は満足げに頷き、つまんでいた肉をひょいと口に放り込んだ。がしがしと力強く咀嚼そしゃくしながら喋るものだから、口の中で赤い肉が細切れになっていくのが見える。


「ここの店はな、珍しい肉を出すんだ。いま俺が食ったやつは『ケン』ってやつだ」

「ケン? 聞いたことないですね」

「この店のオヤジがつけた名前だからな。隠語のようなものだよ」


 はあ、と俺はため息のような相槌を打った。一番のお気に入りになりつつある肉を口に入れる。


「それでそれはなんの肉なんですか?」

きじだよ。雉肉」

「ははあ、雉ですか。なるほど、それでケンなわけだ。ケーンと鳴くから」


 そうだそうだ、と先輩は笑う。ここのオヤジはなかなか面白い名前の付け方をするらしい。


「こっちはなんですか?」

「そいつは『イチ』」

「また隠語ですか、イチ、イチねぇ。イチだなんて鳴く動物はいないですよね」

「こいつはちょっとひねってあるんだよ。イチを英語で言うとなんだ?」

「それはワンですが……ちょっと待ってくださいよ」


 俺の顔から血の気が引いていく。胃が中身を出したそうにぐぐっとせり上がる。


「まさか犬だとか言わないですよね」

「そのまさかだよ。中国のほうから輸入しているんだとさ」

「そんな、犬食っちゃったんですか、俺。勘弁してくださいよ、先輩。俺実家で犬飼ってたんですから」

「豚だって飼ってる連中はいるんだから、そう変わらんだろう。それに旨かったろう、この肉」


 先輩はひょいと取り上げてぽいと食べる。たしかに旨かったが、それとこれとは話が別だ。口の中に残るイチの味を消すように麦酒ビールを流し込む。そんな俺には構うことなく先輩は肉の説明を続けた。


「こいつは『ツリ』。猿の肉だよ」

「……どうして猿がツリになるんですか」

「猿はウキと鳴く、浮きは釣りに使うってな」


 随分と遠回りな名前のつけかたをしたものだな、と思いながらもさらに麦酒ビールを流し込む。ジョッキが空になると、先輩がすかさず注文を入れ、間髪を入れずに新しい麦酒ビールが持ってこられる。


 麦酒ビールを飲むにはアテが必要で、俺はなんだかんだと皿の上の肉に手を伸ばしていた。アルコールにひたった頭は次第にうつろになり、犬だろうがなんだろうが旨けりゃいいとさえ思えてきた。


「そういえば、この残りの肉はなんですか? こいつが一番旨いですが」

「それは『モモ』」

「なんだ、もも肉か。急に普通の肉がきたな」


 なんだかつまらない気持ちになりながら、ぽいと口に入れる。ねっとりとした脂が口の中に広がる。旨い。毎日でも食べたいくらいだ。


「何言ってんだ、そいつはすごい珍しい肉だぞ。この肉が食べられるのは日本じゃここくらいのもんだ」

「え、もも肉でしょ?」

「それも隠語だよ」

「ああ、そういえばそういうルールがありましたね。ええと、『もも』だなんて鳴く動物はいないから……」


 いつもより進んだ酒に朦朧もうろうとする頭ではどうにもうまく考えられない。俺はすぐにギブアップした。


「ヒントくださいよ、ヒント」

「そうだな、いままで食べた肉とセットになっていることがヒントかな」

「いままで食べた肉?」


 俺はなにを食べた?

 最初は確か雉で、次が犬。それから猿、だったかな。

 それとセットになっていると言ったらなんだ?


 はっと気づいた瞬間、俺の酔いは見事に醒めた


 犬、猿、雉……桃太郎――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る