勇気のない私たち

 帰宅ラッシュの満員電車では弱冷房なんてないに等しい。過ぎ去った夏の再現のような暑さに背中を汗が伝っていく。変わらない毎日に誰もがみなうんざりとしていた。


 橋の上へと差し掛かったらしく、電車の走行音がより響きを増した。熱気に曇る窓の外、川を縁取るように赤色がずらりと並んでいた。


 彼岸花だ。


 燃えるような赤色を秋の風が揺らしていた。その冷たさを恋しく思った時、私はいつも彼女のことを思い出す。


  *****


「練炭自殺はオススメしないわよ」


 シズカは俯いていた顔をあげた。レジの女性店員がこちらを見ていた。切れ長の目が冷たい光を湛えていた。


「え?」

「だから、自殺にこれ使うのはオススメしないってこと」


 バーコードを読み取りながら彼女は素っ気ない調子でいう。シズカはごくりと唾を飲み込んだ。


「じ、自殺? わた、私はただキャンプでもしようかと」

「夏も終わったのに?」

「秋のこの涼しい季節にするキャンプが最高なんですよー」


 あははと乾いた笑いをあげる。レジの彼女は依然、冷たい目を向けていた。


「キャンプなんてキャラじゃないでしょ」

「な……なんでそんなこと」

「あなた、高坂こうさかシズカさんよね。二組の」

「え……」

「私のこと、知らない?」


 そう言われてシズカは彼女をジッと見た。


 右頬だけに出来たエクボ、唇の端をあげた冷ややかな笑み。髪をかきあげる右手の大きな赤い腕時計。あ、と声をあげた。


日ノ原ひのはらジュンコ……さん?」


 ジュンコは否定も肯定もせずに金額を告げた。シズカは冷や汗を流した。どうして彼女がこんなところに。


「うちの学校、バイト禁止、だよね?」

「ええ、だから黙っといてもらえると嬉しいわ。私も、あなたが自殺しようとしてること、黙っといてあげるから」

「……私、自殺なんて」

「いいわよ別にごまかさなくて。でも、本当に練炭自殺はオススメしないわよ」

「……どうして?」

「苦しいから」

「でも、ネットでは楽に死ねるって」

「ネットの情報を鵜呑みにするなんて小学生じゃないんだから」

「じゃ、じゃあ日ノ原さんはなんで苦しいだなんて知ってるの」

「経験したからよ」


 シズカは絶句した。彼女の口から飛び出た衝撃的な発言に思わず周囲を見回す。


「け、けいけん……」

「昔、私の両親が一家心中とかバカなこと考えてね……で、これ買うの? 買わないの?」


 ジュンコが練炭を指差す。シズカは慌ててポケットを探った。


「買います、買います……って、あれ? あれ、あれ?」


 顔を青くしてポケットをパタパタと叩くシズカの様子を見て、ジュンコの目が更に冷たさを増した。


「おかしいな、たしかに持ってきたはずなのに……」

「買えないなら、これ、もどしといてくれる? お待ちのお客様どうぞ」


 ぐいと練炭がシズカのほうへ押し戻された。順番を待っていた客がレジ台の上にカゴを置くと迷惑そうにこちらを見る。シズカは慌ててレジを離れた。


 財布を探して店内をぐるりと回った。だが、見つからない。肩を落としつつ出口に向かった。レジでは相変わらず日ノ原ジュンコが愛想の欠片もなく接客していた。



 インターホンが鳴った。四時を過ぎてちょうど眠くなってきたころだった。


「はいはーい」


 玄関を開くとはやくも冷たさを含み始めた秋の風が音を立てて入ってきた。甘い匂いが鼻をくすぐる。金木犀きんもくせいの匂いだ。


「なんで学校休んでるのよ」


 風よりも冷たい声がすっと入ってきた。黒い髪がバタバタとなびくのをおさえ、日ノ原ジュンコがそこに立っていた。


「……どうして、日ノ原さんがここに?」

「これ」


 彼女の手にあったのは青地に白い星が散らばった財布だった。


「あ、私の」

「届けようと思ってクラスに行ったら、あなた夏休み明けから休みだって言うからさ。ここまで届けに来てあげたんだから、お茶くらい出してよね」


 そう言うと扉の内側に滑り込んできた。思わず身を退く。扉が閉まると耳に痛いほどの静けさがふたりを包んだ。


 ジュンコは学校指定のローファーを脱いで、遠慮なく家にあがった。リビングに着くとソファーにどかりと腰を下ろし、長い足を持て余し気味に組んだ。短いスカートから覗く太ももを惜しげもなく見せつけるようだった。


「お、お茶どうぞ」

「ありがと」


 ジュンコの堂々とした佇まいに圧倒されながらお茶を出す。あったかいのと冷たいのどちらにするか迷ったが、すぐに出せる麦茶にした。


 シズカは自分の家なのに居場所のなさを感じてそわそわとした。それを敏感に察知したのか、ジュンコが自分の隣を顎で指す。


「座れば?」


 どっちが住人かわからない。シズカはペコペコとしながら遠慮がちに腰掛けた。ジュンコとは違って足を組まずとも楽に座れることが密かにショックだった。


「ねえ、なんで死のうとしてんの?」


 突然に投げかけられた質問にシズカの喉がぐっと鳴った。ジュンコは麦茶を不味そうに飲んだ。


「……あなたには関係ないでしょ」

「関係はないけど、興味はある」


 ジュンコの目に好奇の色が浮かんでいた。シズカは思わず視線を逸らしたが、次の言葉に捕まった。


「私、自殺の方法に詳しいからよかったらアドバイスしてあげるよ」

「え、ほんと?」

「うん。理由を話してくれたらね」

「理由……」


 シズカは答えに困った。自分の中に明確な理由など存在しなかったからだ。そもそも死にたいと思うことに理由などいるのだろうか。言い淀むシズカの様子から察したのか、ジュンコが冷ややかに笑った。


「死に憧れるお年頃ってわけ?」

「そん……なんじゃないけど」

「まあ、秋ってのは死にたくなる季節よね。祭りみたいな夏が終わって、どこか喪失感の漂う陰鬱いんうつな季節。ちょっとわかる」


 ジュンコの言葉にシズカは知らず頷いていた。秋という季節はなぜか遠くに行きたくなる。


「まあ、理由はそんな感じでいいや」

「じゃ、アドバイス」


 お菓子をねだる子供のように言った。ジュンコはピンク色の舌で唇をぺろりと舐めた。唾液で濡れた唇はぬらぬらと照り、やけに色っぽかった。


「いいよ、私にわかることだったら。なにが知りたいの?」

「……苦しまずに死ぬ方法」

「そんなのあるわけないじゃん」


 ジュンコはあっさりといった。


「で、でもほら、睡眠薬を大量に飲む方法とかは」

「吐くよ。あなたが死にたがったって身体は生きようとするから、吐く。車酔いなんて比じゃないほどの気持ち悪さ。あと、誰かに見つかった場合、胃を洗浄されるんだけど、あれすごい辛い。無理矢理に水をいっぱい入れられて、強制的に胃の中身吐き出させるんだから。死ぬよりよっぽど辛い。もう死のうとは思わないくらい」


「じゃあ、首吊りは?」

「息ができなくなって死ぬんだから苦しいに決まってるでしょ。入水も同じく」


「飛び降り」

「痛いに決まってんでしょ」


 思いつく限りに方法を上げていくが、すべてことごとくジュンコに否定されていく。


「じゃ、じゃあ、どうやって死ねば……」

「そんなに死にたいなら少しくらい苦しくたって死ねばいいじゃない。生きていく苦しみも、死ぬ苦しみもどっちもごめんだなんて、そんな甘いこと言わないで」


 ジュンコの声が静かな怒気を含んでいた。それはシズカに向けられたものか、それともジュンコ自身にだったのか。


「……ごめん」


 シズカはつい謝っていた。膝の上で拳を握り締め、じっとカーペットを見つめた。ふ、と隣で息を吐いた気配がした。顔をあげるとジュンコの青みがかった目が優しげにこちらを見ていた。


「謝んないでよ。偉そうに言ってるけど、本当は私だってなにも変わんないんだからさ」


 そう言ってジュンコが腕時計を外した。細く白い手首があらわになる。シズカが息を飲んだ。


「私にも勇気はないの。だから生きてる。だから生きてく。でも、最近はそれでもいいかなって思えるようになったのよ」


 だからさ、とジュンコは続けた。にっこりと笑みを浮かべて。


「一緒に苦しもうよ。ひとりだけ楽になるなんて、ずるいじゃない」


  *****

 

 扉が開くと濁流のように人が流れた。誰もが改札を目指して動くその様はひとつの大きな生命体のようにすら見える。


 自動改札を抜けるとようやくひとりになれた。冷たい風が火照った身体を冷ましていく。いつもなら家へとまっすぐに帰るところだが、今日はもう少し風に当たっていたかった。どこか、遠くに行きたかった。


 彼岸花を見に行こう。


 電車の中から見下ろしたあの川原を目指して歩き出す。パンプスのヒールがコツコツと固い音を立てる。


 高いフェンスの向こう側を電車が猛スピードで走り去っていった。

 あそこに飛び込んでしまえば、一瞬にして死んでしまえる。いっそそうしてやろうかと思うことも少なくない。


 いまでも秋は死にたくなる季節だ。


 大人になってから調べてみると、当時彼女が言っていたことの多くは嘘だったとわかった。首吊りで苦しむことは実はそんなにないらしい。


 だが、それを知ってからも私は生きている。世界との摩擦に削られながら、それでもこうして生きている。


 途中で酒を買い、飲みながら歩いた。苦い液体が喉を通っていく。酔うのは好きだ。朦朧もうろうとしていく感覚が死に近い気がするから。


 缶をまるまる一本空ける頃にようやく川原へとついた。すでに夕日は地平線の向こうへと隠れている。残照だけが夜の闇に抗っていた。


 今日も一日が終わる。

 今日もまた死ぬことなく、一日を終える。

 死ぬ勇気がないから、私はまた明日を迎える。


 それでもいいじゃないかと、あの日彼女は言った。諦めと希望の入り混じった笑顔を浮かべて。


 それは素敵な考え方だと今では思う。生きるために生きるんじゃ、堅苦しくて仕方ないから。


 ニュースでは自殺の報道が毎日のように繰り返されている。一線を軽々と超えていった勇気ある人たちの名を伝えている。


 その度に私はその名前を確認する。まさか彼女じゃないだろうかと。


 空にわずかに残った赤色が少しずつ夜に侵食されていく。次第に深さを増す闇の中に彼岸花だけが、赤く鈍く光って、ぼうと浮かんで見えた。


 ――あれはきっと魂だ。


 毒々しいほどの赤色に輝くのは、自ら死を選んだ、勇気ある者たちの魂なのだ。


 私は風に揺らぐそれらに羨望せんぼうの眼差しを向けながら、あの中に彼女がいないことを祈った。


 世界のどこかで未だ苦しんでいるだろう彼女を思う。

 一線を超えることができずに、胸を掻きむしりながら生きている人たちを思う。


 勇気のない私たちは、誰よりも死にたいと願いながら生きていく。

 決してそれは叶わないと、悟ったままで。


 彼岸花という名の魂たちが、風に吹かれてしゃらしゃらと鳴った。まるで、勇気のない私たちを祝福するかのように。

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