祖父と僕

 祖父が倒れたという知らせを聞いたのは修学旅行一日目の夜だった。

 

 せめて僕だけを呼び出してこっそりと知らせてくれたのなら、僕は何食わぬ顔で修学旅行を続けることができたのに、まだ若いみやちゃん先生は突然のことに動転し、慌てて部屋に飛び込んできたかと思うと、大きな声で祖父が倒れたことを僕に伝えた。

 

 部屋の中には当たり前だけど僕以外にもケンちゃんやコウスケなど寝る部屋が同じ友達や、間の悪いことに同じクラスの女子のグループもやってきていた。その中に僕が密かに好意を寄せている浜野さんもいて、僕は凍りついた空気の中で彼女の顔を盗み見た。もともと大きな目をさらに見開いていて、いまにも目がポロリとこぼれ落ちそうだった。

 

 僕は心の中で舌打ちをした。

 

 それは僕のプライベートなことを公にしたみやちゃん先生に対するものであり、修学旅行という小学校生活で一番大きなイベントの最中に倒れた祖父に対するものだった。

 

 僕は悩んだ。

 

 班行動ができる明日はうまいこと言いくるめて浜野さんたち女子グループと行動をともにする約束を取り付けていた。日常から遠く離れた場所で浜野さんとの仲を一気に縮めるチャンスだった。会うのすら億劫になるほど苦手な祖父のためにこのチャンスを棒に振るのは躊躇われた。

 

 だけど、もうこの状況では帰るという選択肢以外あり得なかった。

 

 僕の祖父が倒れたことをもうみんな知ってしまっている。ここでそれでも残ると言ってしまえば、僕は家族の一大事に自分の楽しみを優先する人でなしのようになってしまう。もし浜野さんにそう思われてしまったらと思うとそんなことはできなかった。

 

 その夜僕はみんなから腫れものを触るように扱われ、僕は祖父のことが心配で落ち込んでいる風を装わなければならなかった。おかげで浜野さんと会話が弾むこともなく、部屋の空気は重いまま消灯時間を迎え、僕は薄闇の向こうに見える祖父の顔を睨みつけ夜を明かした。


 翌日、僕は付き添いの先生とともに新幹線に乗るとあっさりと日常へと戻ってきた。


 窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら今頃みんなは楽しい思い出を作っていて、そこには僕はいないのだと思った。先生はその様子から僕が祖父のことを心配していると勘違いしたようでなにやら慰めの言葉をかけてきた。心配なんてしていないけれど、先生にはそれらしい表情と声で返事をした。


 駅で先生と別れてから病院まではバスに乗った。病院前と名のついたバス停で降りると受け付けで祖父の名を告げ病室を聞いた。やけに入り組んだ作りになっている病棟を教えられたとおりに進むとその部屋はあった。四人部屋だけれどいまは他に誰もいないようでプレートには祖父の名前だけがぽつりとあった。


 扉に手をかけて僕は少し迷った。もう周りには友達や浜野さんはいないのだから、律儀に見舞う必要もないのだと思い至ったからだ。ここで病室に入ることなく家に帰ったって誰にもわかりはしない。


 それでも僕は扉をスライドさせた。見舞いに来なかったことを後から祖父に説教されるのもつまらないと思ったからだ。それなら修学旅行を中断してまで見舞いにきた出来た孫を装うほうがよっぽどいい。


 そんなことを思いながら僕は病室へと足を踏み入れた。


 部屋の中はやけに静かだった。祖母や両親が面会に来ているはずだが、話し声は聞こえてこない。

 部屋の一角が白いカーテンで区切られていて、そこに人影が見えた。僕は足音を殊更のように立てながら近づいていった。シャッと軽い音とともにカーテンを開いた。僕の足が床に縫い付けられたかのように動かなくなった。


 白いベッドに寝ている老人は僕の知っている祖父ではなかった。しかし、この部屋には祖父しかいないはずだし、その老人が祖父であるという証拠として祖母や両親がベッドの脇に置いたパイプ椅子に座っていた。


 母が僕に向けてなにか言ったが、僕の耳には届かなかった。僕は呆然としてベッドに寝ている老人を見つめた。


 頬の肉がげっそりと削げ落ち、頬骨が張り出していた。目の周りが黒ずんでいた。皮膚はカサカサに乾燥し、ところどころに粉を噴いていた。瞼がピクピクと動く他はおよそ生命力というものが感じられず、それは精巧に作られた人形のように見えた。


 祖母が耳元で僕の来訪を告げると、祖父の瞼が痙攣めいた震えを見せながらゆっくりと開いた。白目が黄色く見えた。どろりと澱んだ黒目が僕のほうへと向く。


 祖母の手を借りながら祖父が半身を起こした。ベッドの上半分を持ち上げるようにするとそこで固定されリクライニングのようになった。祖父が口を開いた。


 喉に引っかかるガラガラとした声はなにを言っているのか聞き取れなかった。

 脳の血管が詰まったことの後遺症らしかった。呂律が回らない。うまく言葉が喋れない。


 祖父は懸命に口を動かしてもごもごと何事かを言っていたが、それが言葉として僕に届くことはなかった。ふいに咳き込んだかと思うと、口から黄色い胃液を布団の上に吐き出した。酸っぱい匂いが鼻をつく。


 祖母は慌てて祖父の口元を白いタオルで拭く。母も立ち上がり祖父の背中をさすっていた。


 僕はトイレに行くと言って病室を出た。リノリウムの廊下はやけに綺麗で蛍光灯の光を写し込んで濡れたように光っていた。歩くたびにゴム底が擦れてキュッと甲高い音がなった。僕はそのまま病院を出た。もう見ていられなかった。


 祖父は気性の激しい人だった。


 祖父は礼儀作法に厳しく、まだ小学校に入りたての頃、朝の挨拶をしなかったという程度のことで頬を思い切りぶたれたこともある。その日、僕は腫れた頬を浜野さんに見られたくなくて仮病を使って学校を休んだ。そのことが後で祖父にバレて更に数度ぶたれた。


 駐車場にひっきりなしにやってくる車とすれ違いながら、僕は歩いた。病院の裏から救急車がサイレンを高らかに鳴らしながら飛び出して行った。どこかで誰かが倒れたのだろうか。祖父のように。


 僕の脳裏に先ほど見た祖父の姿が浮かんだ。


 やせ細って、骸骨の上に皮膚を貼っただけのような顔。震える瞼。鼻に繋がった薄い青色のチューブとポタポタと落ちる点滴。白いシーツを汚した黄色い吐瀉物。


 見てはいけないものを見た気がした。死という言葉が頭の中でちかちかと明滅した。僕の心臓がドクドクと大きく鼓動を鳴らしている。同じように祖父の胸のうちで心臓が動いているとは到底思えなかった。

 肩に担いだ荷物が重く感じた。


 病院から家までは直線距離で三キロくらいはあるだろう。普段は母の運転する車で行き来する距離だ。だけど僕は歩いた。頭の中を空っぽにしたくて歩いた。だけど、どれだけ病院から離れても祖父の身体の濁った臭いがいつまでも鼻先にあった。


 大きな道に沿って歩いていく。ガードレールの向こう側をいろんな車が走り去っていく。小さくて丸いかわいい車。大きくてゴツイ車。信号が赤になり、僕の隣に止まったのは型の古いセダンだった。祖父が昔運転していたのと同じ。


 パッと目の前に景色が閃いた。


 広い車内に充満するタバコの臭い。首元に絡み付いてくるシートベルト。窓を開けるにはハンドルをくるくると回さなければいけない。目の前の大きな運転席。そこに座った祖父が首を回してこちらを見た。優しい笑みを浮かべている。大きな手を伸ばし、僕の頭へポンと置いた。僕は――。


 空気を裂くクラクションの甲高い音にハッとなる。横を見るとこちらへ鼻先を向けて赤いスポーツカーが停まっていた。いつの間に歩き出していたのか、横断歩道の真ん中にいた。信号は赤。僕は慌てて向こう側へと駆けた。文句でも言うように大きなエンジン音を響かせてスポーツカーが走り去った。


 肩からずり落ちた荷物を抱え直し、また歩き出す。頭の上にまだ祖父の手の温もりが残っているような気がして、それを落とすように頭を振った。髪がしゃらしゃらと鳴る。喉が乾いた。


 自動販売機を見つけて財布を取り出しながら近づく。車の走行音に紛れて自動販売機の低い唸りが微かに聞こえる。小銭をいれてボタンを押す。大きな音をたてて缶が投げ出された。


 よく冷えた缶を取り出して見れば、それはオレンジジュースだった。果汁八十パーセントの中途半端なやつ。コーラがよかったのにどうやら押し間違えてしまったみたいだ。


 しょうがないからそのまま開けて飲む。口に広がる柑橘の味に懐かしさを覚えた。ふいに耳元に声が蘇る。


「ほら、このジュース好きだろう?」


 低くて太い声。祖父の声――あんなにガラガラになる前の本当の声だった。


 そういえばこのジュース昔はよく飲んでいた。とくに好きだったわけじゃないけど、祖父はなにを勘違いしたのかよく買ってくれた。僕が美味しそうに飲むと、祖父は嬉しそうに目尻に皺を寄せたものだった。


 忘れていた。


 僕の中にある祖父の思い出は嫌なものばかりのはずだった。

 よく頬や頭をぶたれた。説教だっていっぱいされた。本当は野球がやりたかったのに、祖父に言われて空手を習った。書道もやらされた。嫌々やっているとまた祖父にぶたれた。


 たしかにいい祖父とは言えなかったかもしれない。だけど、僕はどうしてこうまで祖父のことを嫌うようになったのだろう。

 わからなかった。



 その日の夜、両親は日付が変わる直前に帰ってきた。


 トイレに行くと言ったきり戻ってこない僕を心配していたと怒られた。それから明日もう一度祖父の見舞いに行くようにと強く言われた。僕が目を伏せたことに気づいたのだろう、母が真剣な表情を浮かべて目の前の椅子に座るように言った。


「ねえ、どうしてそんなにお祖父ちゃんを嫌うの?」


 昼間、自分自身に向けた問いと同じことを聞かれた。僕はその答えをまだ見つけていない。じっと机の上を見る。麦茶の入ったコップの表面を水滴がすっと流れた。


「昔はあんなにお祖父ちゃんのこと好きだったのに」


 母の言葉に僕は顔をあげた。僕の反応に母が笑った。


「なによ、覚えてないの?」僕は頷く。「あんたは正真正銘のお祖父ちゃんっ子よ。赤ん坊の時からそう。私が抱いても泣き止まないのに、お祖父ちゃんだったらぴたっと泣き止んでた」


 懐かしそうに母が目を細めて宙を見た。その視線の先には蛍光灯が白く光っているだけだったが、そこに幼い僕を抱いた祖父を見ているようだった。


「お祖父ちゃんもね、だからあんたのことをすごく可愛がってた。あんなデレデレになってるのなんて初めて見た。孫ってすごいんだなって思ったもんよ」


「でも、僕可愛がられてた記憶ないけど。いつもぶたれてばっかりだったし。説教もたくさんされたし」


 ふふ、と母が笑った。困ったように眉が下がる。


「お祖父ちゃんはね、不器用なのよ。とんでもなく不器用なの。だから、すぐ手だって出るし、言葉も強くなっちゃう。だけど、それはあんたを嫌っているからじゃない。大切に思っているからこそなのよ。あんたにちゃんとした人になってほしいって、大事な孫だからこそ厳しくなっちゃったのよ。そりゃ、手を出すのは方法としてちょっと間違ってたかもだけどさ」


 僕はどうしていいかわからなかった。母の言うことは頭では理解できる気がした。でも、綺麗事のような気もした。僕がぶたれた事実は変わらない。それを愛だから許せと言われても、すぐに首を縦に振る気にはなれなかった。


「だからさ、お祖父ちゃんに会いにいってあげて」


 母の目が赤い。声も震えている。


「お願い」


 絞り出したような母の言葉に僕はゆっくりと頷いた。それを見届けた母が笑った。目尻から涙が一筋流れ落ちた。それを見ないふりして僕はもう寝るからと言って部屋を出た。背中に両親のお休みの声を受けて、扉を閉めた。少しの間をあけて扉越しに母の嗚咽が聞こえた。



 昼過ぎまで布団の中でうだうだとしていた。眠気はもうとっくにないが、起きて階下に降りれば病院に行けと言われる。そう思うと部屋から出る気になれなかった。


 秒針の音がカチコチと部屋に響き、それが僕を落ち着かない気持ちにさせた。胸の内側が痒いような、そわそわとするような気持ち。残された時間があと少ししかないことにどこかで気づいているようだった。


 そう、きっと祖父に残された時間はあと少しなのだ。


 祖父のやせ細った身体と臭い。病室に充満した雰囲気。昨日の母の言葉。

 それらが指し示すのは祖父がもうすぐ死ぬということだった。

 僕はそれに気づいている。だから、時間が過ぎていくことに焦りを感じている。


 そのことを脳裏で確認すると、僕は布団を跳ね飛ばして起きた。その勢いがなくならないうちにパジャマがわりのシャツとジャージのまま部屋を出る。一階に降りると洗面所に行き顔を洗い、袖で拭いながら靴を履いて家を出た。


 冷たさを含んだ秋の風が顔に残った水分をさらっていく。僕は自転車に跨り、ペダルを強く漕いだ。もどかしいくらいにゆっくりと車輪が回り始める。何かに急かされるようにぐいぐいと漕ぐ。少しずつペダルは軽くなり、スピードがあがる。風の真ん中を僕は走った。


 太腿が重い。息をしても息をしても苦しい。涼しい風が吹いているのに、額から汗が流れて目に入って痛い。それでも僕は止まることなく走り続けた。不思議と行く先々の信号は僕の到着に合わせて青に変わった。何かが僕を祖父の元へと導いている気がした。


 ぐんぐんと病院の白い建物が大きくなる。あとちょっとで辿り着く。目的地が見えた安堵感から僕は少し油断していた。昨日スポーツカーにクラクションを鳴らされた横断歩道。その信号が点滅しているのに気がつかなかった。


 横断歩道へ出ようかというくらいになって、トラックがこちらへと向かってきていることに気がついた。ハッと見ると信号は赤色になっていた。僕は思い切りブレーキを握り締めた。ブレーキ音が響き、ゴムの焦げる嫌な臭いが鼻をつく。


 前輪が横断歩道へと少し飛び出した位置で止まっていた。どうやらトラックのほうが少し膨らんで避けてくれたようだった。遥か先を何事もなかったように走り去る後ろ姿が見えた。


 冷や汗がドッと出た。あのまま轢かれていたら確実に死んでいた。荒い呼吸を落ち着かせようと深呼吸をしていたときに、急に思い出した。


 そういえば昔にもこんなことがあった。


 あれは小学校二年生の頃。周りからは随分と遅れたが、ようやく自転車に乗れるようになった僕はその頃自転車で出かけるのが楽しかった。いままで出来なかったことが出来るようになった喜びで溢れていた。だから、祖父の言葉が耳に届かなかった。


 道路へと飛び出そうとした僕の身体をすんでのところで祖父が捕まえた。目の前をすごいスピードで車が走り去っていった。自転車がガタンと倒れた。


「馬鹿もん! 死んだらどうする!」


 祖父が唾を飛ばし、僕を叱りつけた。いままでに何度も怒られたことはあるが、こんな青白い顔をした祖父は見たことがなかった。


「親より先に、俺より先に死ぬ奴があるか!」

「お祖父ちゃん、死んじゃうの?」


 どうしてかそこにだけ反応した僕に対して祖父は力強く言った。


「ああ、お前より先に死ぬ。絶対にな」


 大好きな祖父が死ぬ。そのことを想像しただけで幼い僕の心は悲しさで溢れた。びーびーと泣いて祖父に死なないでと言い続けた。


 思えばあれからだった気がする。

 僕が祖父から距離を取るようになったのは。


 大好きな祖父が死ぬと自分はひどく悲しい。だから、祖父のことを嫌いになれば、祖父が死んでも悲しくはならない。


 子供ながらに真剣に考えた結果がそれだったのだろう。今思えばなんて馬鹿げた答えなんだろうか。でも、当時の僕は本気でそう思った。だから、僕は自ら進んで祖父を嫌うようになったのだ。


 たった四年前のことなのに僕はすっかり忘れていた。こんな馬鹿げた理由で僕は祖父を嫌っていたのか。乾いた笑いがこみ上げた。僕と祖父が一緒にいる時間をそんなことで浪費したのか。


 信号が青なのを確かめて僕はペダルを踏んだ。でも、ゆっくりと回る車輪がもどかしくて、自転車を投げ捨てて走った。とにかくはやく祖父に会いたかった。


 昨日来たから病室はわかっている。受付に行かずに直接向かう。エレベーターを待つ時間さえもったいなく思えて階段を一段飛ばしで駆け上がった。僕の荒い息がやけに響いた。


 祖父の病室の扉の前。肩を上下させながら懸命に呼吸を落ち着かせようとする。心臓がどくどくと動き血を全身に送っている。この部屋に横たわっている祖父の心臓はまだ同じ役割を果たしているだろうか。


 部屋に入る。今日はカーテンの区切りがなく、ベッドに横たわった祖父が入口からも見えた。布団はほとんど膨らみを感じさせない。それほど祖父の身体は薄くなっている。死に近づいている。


 祖母の姿はなかった。トイレにでも行っているのだろうか。


 祖父は目を閉じていた。白いシーツに埋まるように眠っている。なにかが腐ったような臭いがする。祖父の身体がすでに死に始めているのかもしれないと思った。


 パイプ椅子に腰掛け、祖父を見下ろす。昔はあれほど怖かったはずの祖父がひどく弱々しく見える。いまなら腕相撲だってなんだって簡単に勝てそうだ。


 廊下から看護師の押すカートの音が聞こえる。それ以外は静かだった。開け放たれた窓から涼やかな風が入り、クリーム色のカーテンを膨らませる。


 おお、と呻き声が聞こえたかと思って見ると、祖父が薄らと目を開けていた。僕に気づいたらしく、身体を起こそうとする。僕は肩を押さえてそれをやめさせる。


「寝たまんまでいいよ。大丈夫」


 祖父が口を開く。うう、と音が漏れる。やはりうまく言葉にならないようだ。

 僕は唐突に出そうになった涙を下唇を噛んで堪えた。あれほど嫌だった祖父の説教を聞きたいと思っている自分がいる。もう一度強く張りのあるあの声を聞きたいと。


 祖父はどうにか声を出そうと苦心して数度咳き込んだあと、諦めたように口を閉じた。祖父に変わって僕が口を開く。


「……お祖父ちゃん、死んじゃうの?」


 僕の問いかけに祖父はゆっくりと瞬きをした。頷いたようにも見えた。僕はあえて笑顔を作った。白い歯を見せて言ってやる。


「僕、お祖父ちゃんより先に死ななかった。偉いでしょ」


 祖父は一瞬目を瞠り、それから笑うように細めた。


 布団の下から祖父がゆっくりとした動作で腕を出した。骨の形がわかるほどに痩せた腕を懸命にこちらへと伸ばす。小さく震えながら祖父の掌が僕の頭へと置かれた。


 まだ温かい。

 まだ生きている。


 僕の目からこらえきれずに涙が溢れた。


「お祖父ちゃん、死なないで……死なないでよ」


 やっと自分の間違いに気づけたのに、祖父はもういなくなってしまう。

 いままで無駄にしてきた時間をこれから取り戻したかった。

 大好きだった祖父ともっともっと思い出を作りたかった。

 

 これは自業自得だ。だけど、僕は祖父に縋った。

 死なないで、優しくしなくてもいいから、僕の間違いを叱って。


 あの日のように僕はびーびーと泣いた。祖父は困ったように目を細めて、いつまでも僕の頭を撫でてくれた。


 僕を見る優しい眼差しと掌の温もりを、僕は一生忘れないでおこうと思った。



 新しい朝日を見ることなく祖父は逝ってしまった。


 深夜の病室で母は祖父に縋りつき泣き崩れていた。祖母も父も、もちろん僕も涙が涸れるまで泣いた。


 三日後には通夜、その翌日に葬式が執り行われ、祖父は小さな壺の中に収まるくらいに小さくなってしまった。白くてつるつるの壺。すぐに頬をぶち、説教をするあの恐ろしい祖父がそんな壺の中にいるなんて不思議だった。


 ひとりになってしまった祖母は僕の家で一緒に住むことになった。一階の和室を使うようで、そこに小さい仏壇も用意された。観音開きのそこに祖父の写真が飾られている。大きく口を開けて、楽しげに笑っている写真。母に聞くとそれは僕を抱いているときの写真らしかった。


 季節は冬になり、もうすぐ小学校も卒業する。ほとんどの人は同じ中学に行くけど、中には私立へと進む人もいるらしかった。浜野さんもそうらしい。


 僕は今日、浜野さんに告白した。あっさりと振られた。でも、すっきりした気分だった。


 時間を無駄にして、取り返しのつかないことになるのはもう嫌だと思った。それなら思い切ってやって失敗したほうがいくらかマシだ。


「そうだよね、お祖父ちゃん」


 夕焼け空に語りかけてみる。馬鹿もん、と耳元で聞こえた気がした。僕は笑った。祖父がこのことを知ったら、きっと「俺を言い訳にするな!」と唾を飛ばすことだろう。


 祖父は死んだ。

 だけど、僕は生きている。

 これからも生きていく。


 その中できっと良いことも悪いこともあるだろう。

 祖母や両親との悲しい別れも待っているだろう。

 だけど、僕は生き続ける。


 いつか愛する人ができ、家族を作るだろう。

 子供も、孫もできるかもしれない。

 

 そうなったら祖父のようなお祖父ちゃんになろう。


 いや、もっと優しいお祖父ちゃんのほうがいいか。


 仏頂面の祖父の顔を思い出してひとり笑う。

 自分の頭をポンと叩く。


 そこにあった祖父の手の温もりを、僕はまだ覚えている。

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