愛煙家の敵
ホームに発車のベルが鳴る。私は閉まる扉めがけて階段を駆け下りる一団に混じり、しかし彼らとは別の場所を目指していた。
ホームの端にある小さな部屋。ガラス張りのその部屋が私のオアシスだった。
一日中パンプスで歩き回っていたせいでパンパンに張ったふくらはぎに無理をいって、私はそこまで駆けた。一秒でもはやく吸いたい。すでに右手には鞄から取り出したパッケージを握り締めていた。思わず力が入りすぎて、スイカの輪切りのようなロゴがひしゃげていた。
喫煙所に入ると微かにポップコーンのような香ばしい匂いが鼻をくすぐった。それが誘い水となったのか、私の中で喫煙衝動が抑えがたいほどに大きくなった。
私はいそいそと一本取り出すと口に咥え、ポケットから百円ライターを取り出そうとした。だが、一向に見つからない。おかしい、たしかに持っていたはずだと記憶を
――そうだ、蚊取り線香に火をつけたいからと言われて
脳裏に彼女の姿がちらつく。グロスで照る唇、異様に長い爪。男性社員に甘えるような、鼻にかかった声が耳元で再生され、首筋が毛羽立つ。
――なにが蚊取り線香だ。どうせ隠れて煙草を吸うのにライター忘れたんだろ。しってんだよ。
ほんの短い休憩から江原ふみ子が帰ってきた時に、身体から甘ったるいバニラの匂いがいつもする。キャスターを吸っているに違いない。銘柄までカワイコぶっていることが無性に腹立たしかった。
――スモークキラーに殺されてしまえばいいのに。
「火、貸しますよ」
ふいにかけられた声で私はこの小さな部屋に先客がいたことにようやく気づいた。こちらに銀色のジッポーを見せている三十絡みの男。丁寧に撫で付けた髪と、大きな鼻の上にちょんと乗った銀縁の眼鏡が品の良さを
しまった、と私の顔が熱くなった。先ほどの舌打ちも聞かれてしまっただろうか。いまさらではあるが、髪型を
すみません、と小声で言い、私は煙草を咥えた顔を彼の方へ近づける。キン、と小気味よい音と共にジッポーの蓋が開かれ、小さな火がゆらりと揺れた。
大きく息を吸う。途端、口の中に煙が流れ込んできて、
舌の上でワインのテイスティングのように煙を転がし、名残惜しみながら細く吐き出す。紫煙はくるくると回転しながら天井へと向かい、そのままひゅっと空気清浄機の中に姿を消した。
最近では数少ない喫煙場所にも超強力な空気清浄機が常備してあり、吐いた煙は宙を漂うのもそこそこに吸い込まれて消えていってしまう。まったく情緒もなにもあったものじゃない。
キン、と涼やかな音が響く。見ると男性も口に新たな一本を咥え、火をつけたところだった。彼の呼気に合わせて先端がポッと赤く灯る。まるで命の灯火のようだ。
ふぅ、と深く彼が紫煙を吐く。清涼感のある匂いが鼻先を掠め、まるで草原にいるような気分になった。どうやら彼はメンソール系を好むらしい。
彼の穏やかな目がこちらを見た。いけない、いつの間にかジッと見つめてしまっていた。私は慌てて視線を逸らしつつ、誤魔化すように忙しく煙を吐いた。
「そんなに急いで吸っちゃ
彼はまるでお菓子を口に詰め込む子供をたしなめるような調子で言った。私の顔がまた熱くなる。人差し指と中指に挟んで、一度口から煙草を離す。
「でも、気持ちはわかります。最近じゃ吸えるところがやけに少なくなりましたからね」
その言葉に私は大きく頷いた。
人生百年時代と声高に叫ばれる昨今。加熱する健康ブームに後押しされる形で、健康増進法が強化され続け、第二十五条に設けられた「受動喫煙防止のための措置を施設管理者に義務付ける」条文は、三度目となる今回の法改正によってついに法的強制力を持つに至った。
完全分煙のための設備設置にかかる費用を知った管理者たちは一様に施設撤去に動いた。おかげでいまや路上はもちろんのこと、店内もどこもかしこも全面禁煙。喫煙場所はまさに広い砂漠に点在するオアシスのごとき存在となっていた。
この国は喫煙者を追い出そうとしている。その現状に私たちは危機感を覚えながらも、どうすることもできず、肩身の狭い思いをしているのだった。
「外で吸えない上に、この間の裁判の結果知っていますか? とうとう自分の部屋で吸うのも難しい時代になってきましたよ」
「この間の裁判というと、隣室の住人が部屋での喫煙を訴えたやつですね。あれで訴えが通るなんて信じられないですよ。自分の部屋でくらい喫煙の自由があっていいはずです」
「ええ、僕もそう思います。でも、そういう時代なんでしょうね」
彼は天井を仰ぎ見て煙を輪っかにして吐き出した。私も釣られてそれを見る。ドーナツのような煙は不安定ながらもその形を保ちつつ天井付近までふわふわと上昇すると、すいと吸い込まれて消えた。あとには虚しさが残った。
「でも、吸うところがないからと言って禁止されている場所で隠れて吸ったりしたらダメですよ」
彼の言葉に私は内心ドキリとした。
どうしても我慢ができないときにビルの間の誰も通らない小道や、非常階段の踊り場でこっそりと吸っていることがあるからだ。
動揺が表情に出ないように心を砕きつつ、私は彼の方を見た。
――びくりと肩が跳ねる。思わず吸い込んだ煙で咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
ゴホゴホと激しく咳き込む私を彼は心配げに覗き込む。その目は人の良さそうな丸みを帯びている。
――見間違いだろうか。
柔和に微笑む彼の目に、冷たい光が浮かんでいたように見えた。まるで私を品定めするような、感情の欠けた爬虫類のような目。
ようやく落ち着きを取り戻し、目の端に浮かんだ涙を指で拭う私に、彼がゆっくりと言った。
「煙草を吸うならルールを守らなくてはいけません」
ですよね、と彼は目で尋ねてくる。私は小さく頷きを返した。急になんの話だろうか。
「最近では僕たち喫煙者にとって生きづらい世の中になっているのは確かです。でも、そうなる原因を作ったのはいったい誰だと思います?」
「……嫌煙家じゃないんですか?」
「僕たち喫煙家ですよ」
彼の言葉に私は意表をつかれ口をぽかんと開けた。指に挟んだ煙草がジリジリと短くなっていく。
「もちろんいまの状況を作ったのは嫌煙家たちの働きかけでしょう。でも、彼らが煙草を嫌いになる原因を作ったのは、むしろ我々喫煙家なのです。もちろん、僕やあなたのようにルールをきちんと守る人は別ですが、世の中の一部のルールを守らない喫煙家によって、煙草の印象が悪くなったことは大きな要因のひとつでしょう」
彼の言葉は重く私の内側にのしかかった。淡々と語られる内容には説得力があり、それがすべてとは言えないが、ひとつの正解であることは間違いなかった。
「獅子身中の虫」彼はまだ半ばほど残った煙草を灰皿に押しつぶした。「害虫は駆除しなければいけません」
「え?」
「害虫ですよ。獅子の身体に寄生した虫を殺してしまわなければ、やがては獅子が死んでしまう。このままでは日本から煙草というものが淘汰されてしまいかねません。そうなる前に寄生する虫をすべて駆除してしまわなければ」
彼がジッポーを開き新たな煙草に火をつける。先端で灯る赤い光が邪悪な色に見えた。
「ですから、僕はスモークキラーを支持しています。彼こそ僕たち喫煙家のヒーローになるかもしれませんから」
――スモークキラー。
いま世の中を騒がせている連続殺人鬼をメディアはこぞってその名で呼ぶ。
名前の由来は被害者の手元に必ず煙草が落ちていること。被害者は近所でも評判のヘビースモーカーであるとニュースで報じられていた。これを機に禁煙に踏み出した喫煙家も少なくないという。
「スモークキラーは喫煙家を標的にしているんですよ? どうしてヒーローになるんですか、敵じゃないですか」
「路上など禁止区域での喫煙、吸殻のポイ捨て。それらルールを守らない喫煙者が彼の標的です。いわば彼は害虫駆除業者のようなものですね。僕たちルールを守る喫煙者――愛煙家には都合がよい」
彼の言葉に迷いは感じられなかった。本心からスモークキラーの行いを正当なものだと信じきっているように見えた。
――ルールを守らない喫煙者。
その言葉に私は必死で記憶を辿っていた。
私も喫煙者の端くれである。スモークキラーについては恐れてもいたし、興味も抱いていた。彼に関することはテレビのニュースから三流ゴシップ誌に至るまで必ずチェックするようにしていた。
でも、被害者がルールを守らない喫煙者だったという情報を私はいままで知らなかった。どの記事でも、どのニュースでもそんなことは言っていなかったはずだ。
だとしたら、どうしてこの男はそんなことを知っているのだろうか。
もしかして、彼こそが――。
私は彼を盗み見る。
嫌味なく整えられた髪、大きな鼻と銀縁の眼鏡。優しげな微笑みを浮かべ、彼は煙草をゆっくりと味わうように吸っている。
どこからどうみてもそんな暴力的な犯罪に手を染めるようには見えない。
だが、彼の目が私に疑惑を深めさせていた。
あの感情を読ませない冷たい目。あの目はもしかしたら人を殺せる人の目かも知れない。
もし彼がスモークキラーだったとしたら――。
「そうですよね、ルールは守らなくちゃいけない。スモークキラーはそんな当たり前のことを私たちに教えようとしている」
私の言葉に彼は少し驚いたようだった。こちらを見た目が丸くなっている。
「私の周りにもいるんです、ルールを守らない喫煙者が。同じ職場の女性で江原ふみ子って言うんですけど――」
慌ただしい毎日の中で、そんな喫煙所での小さな出会いなどいつの間にか記憶の彼方に消え去っていた。
季節は冬になった。
職場内は暖房を効かせすぎて暑く、空気はひどく澱んでいた。
部長からお茶とコピーを頼まれ、仕事を半ばで中断させられた私はひどく苛立っていた。いますぐ煙草を吸ってしまいたい。あの香りに包まれて、全身の末端までリラックスしたい。欲求はとどまるところを知らず、むくむくと成長し続けた。
「ねえ、葛西さん。江原さん、知らない?」
給湯室でお湯を沸かしていると、先輩の女性に声をかけられた。ちょっと休憩で外に空気を吸いに行くと言った江原ふみ子が戻らないというのだ。
――どうせどこかで煙草を吸っているに違いない。
そう思うともう我慢ができなくなった。
「もしかしたら、あそこかも。私ちょっと見てきますね」
私は江原ふみ子がどこにいるかなど知らなかったが、彼女を口実に先輩にお茶汲みを押し付けて外へとやってきた。
ピンと張り詰めた空気が気持ちいい。排気ガス臭い空気も、熱気の籠った部屋に比べれば、まるで田舎の空気のように美味しく感じる。
さて、と私は周囲に目を走らせる。
人目がないことを確認すると、猫のようにビルとビルの隙間に滑り込んだ。
これ以上我慢するのは身体に毒だ。仕事の効率化のためにも、一本だけ、素早く吸ってしまおう。
こんな時のためにポケットには煙草を一本隠し持っていた。
互い違いに並んだ室外機の間を縫うように歩いていくと、ふと細い煙があがっているのに気がついた。
冷たい風に乗ってバニラのような甘い匂いが運ばれてきた。
地面に派手な色のスーツが見えた。急いで駆け寄ると、そこには江原ふみ子が四肢を投げ出して倒れていた。
細く切り取られた空を仰ぎ見るように目をカッと見開き、顔は苦悶の表情で固まっていた。すでに死んでいることは明らかだった。
私は悲鳴をあげることすらできずにただ立ち尽くした。
彼女の首には細い赤い線がはっきりと残っている。おそらく首を絞められたのだろう。必死に喉をかきむしったのか、首筋にはいく筋も血がにじんでいた。あの長い付け爪が外れて地面に転がっている。
彼女の顔の横にキャスターのパッケージと、火のついた煙草が一本落ちていた。そこから立ち昇る甘い香りのする細い煙が、まるで彼女に供えられた線香のようだった。
――スモークキラーだ。
私の中にむくむくとなにかが生まれいく。それはおそらく喜びだ。自分にとってひどく目障りだったものを、自らの手を汚さずに排除できたという、暗い喜び。
誰にも誇れぬ達成感が私を満たしていく。
無性に煙草が吸いたかった。
私は歓喜に打ち震える指で百円ライターに火を灯す。
安っぽい火が揺れた。
興奮で浅くなる呼吸を落ち着かせ、深く深く息を吸った。
煙が口内へと躍り込んでくる。その香りも味も、いままで味わったほどがないほど――。
「――ああ、美味しい」
たったそれだけを言い切る前に言葉が止まった。
ぐっ、と蛙を潰したような呻きが自分の喉から聞こえた。
思考が働かない。何が起きたのかわからない。
ただ、息ができなかった。
なにか細いものが喉に食い込んで気道を押しつぶしていた。
私は煙草を捨てて、必死で喉元をかきむしったが、一向にそれは取れなかった。
ふいに私の耳元に人の吐息を感じた。
「ダメですよ、ルールはきちんと守らないと」
聞き覚えのある声だった。
だけど、それが誰か思い出す前に私の視界はふつっと暗闇に落ちていった
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