さくら
「おはよう、今日もいい天気だよ」
朝の挨拶をして、部屋のカーテンを開く。
蒸しタオルで身体を拭いたあとに、朝食をスプーンで一口ずつ食べさせてあげる。
それが私の日課だ。
「いつもありがとうね、斉藤さん」
皺だらけの顔を更にくしゃっとさせてお礼を言ってくれる。これも毎日のことで、いまはもうだいぶ慣れた。
「今日、どうする? 身体の調子が良さそうなら、外、散歩してみない? 天気がいいから、気持ちいいよきっと」
私の提案に少し迷ったようだが、カレンダーをじっと見たあとにこくりと頷いた。
ベッドから車椅子へと移す。私ひとりでも大丈夫なくらいに身体は軽い。
その軽さがいつも怖い。
この身体には、もう命がほんの少ししか残っていないような気がして。
不安を押し隠すようにして、私は笑顔を作る。車椅子を押して、外へと出る。
春の空は
私は進路を北へと向けて、ゆっくりと進んでいく。まだ少し冷たさを残した風が頬に心地いい。車椅子の車輪がおおきく回りながら、時折キイと甲高い音を立てた。
道中、私は車椅子にすっぽりと収まる小さな身体を見つめていた。
深く腰掛けたまま、首だけを亀のようにぐぐっと伸ばしては、何かを見て愛おしそうに微笑んでいる。
散歩途中の柴犬の揺れる尻尾。
二階のベランダに干され、風に踊る洗濯物たち。
公園で楽しそうにはしゃぐ子供たちと、それを優しく見守る母親たち。
春の日差しの下、誇らしげに咲く、満開の桜。
「ちょっとだけ、止めて貰えるかしら」
桜の木が作る影の中に車椅子を止める。
桜越しの日差しが私たちに影のパズルを作り出す。その様子を楽しげに見つめていると、桜の花びらが一枚、行儀よく揃えた膝の上に落ちてきた。やせ細った指でそれをつまみ上げる。そして、それを大事そうに胸に抱いた。
「それ、持って帰るの?」
そう声をかけると、にっこりと微笑んだ。
「今日はね、娘の誕生日なのよ。だから、この花びらをプレゼントしようかと思って」
私はハッとなった。
私たちの間を子供たちの笑い声が通り抜けていく。
「一人娘でね。とてもしっかりした子なの」
そして、青空を背景に堂々と咲き誇る桜を見上げる。
「名前はね、さくらっていうの。この桜のようにみんなに愛されますようにって。とっても可愛い子なのよ。何にも変えられない私の宝物」
そうなのね。
そう答えようとしたが、言葉が喉に詰まってうまく声にならなかった。
もう諦めていた。
重度の認知症から家族の存在を忘れてしまった母を、いまの介護施設に入所させておよそ一年。
母はその間、私のことをずっとスタッフだと思い込んでいた。
結婚し変わった苗字で呼ばれることに最初はショックを受けていたが、いまではもう傷つくこともなくなっていた。
この人の中に、もう私はいない。
そう思っていた。
だけど、違った。
母は私のことを忘れてなどいなかった。
いまもちゃんと母の中に私はいる。
こんなに深く愛されている。
堪えようもなく涙が次から次へと溢れる。
傷つくことを恐れて、私はいつの間にか母を母と思わないようにしていなかっただろうか。
もう一度正面から向き合おう。
もう一度、母と共に歩いていこう。
少しくらい傷つくことがなんだ。
母はいままで私に数え切れぬほどの愛をくれたじゃない。
だから、今度は私がそれを返す番。
「そういえば、斉藤さん。私あなたの名前を知らないわ。聞いてもいいかしら?」
母の問いかけに私は答える。
母がくれたこの素敵な名前を。
春の景色が涙で滲む。
お母さん、今日はなんだか、とても綺麗ね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます