壁越しの伝言ゲーム


 おい恵美えみ、本当にやるのか。

 当たり前じゃない、この日のために準備したのよ。

 やっぱりやめにしないか、こんなこと……。おふくろだってもういい歳なんだ。もう少し我慢すればいずれは。

 いつか終わるっていうの? そんなの待ってられないわ。私、もう限界なんだから!

 おい、ちょっと声を抑えろよ。隣におふくろいるんだぞ。

 いっそのこと聞こえたらいいのよ。まったくこんなことになるなんて思わなかった。

 しょうがないだろ、親父が死んで、おふくろひとりじゃ……。

 だからって、うちに引き取ることはなかったのよ。

 じゃあ、どうしたらよかったんだよ。

 近くに部屋を借りるなりやりようはあったはずよ。なにもこんな狭い家に転がりこむ必要はなかったのよ。

 そんなこと言うなよ。

 あなたはいいわよ、自分のお母さんだもん。でも私にとっては違うの。

 どう違うっていうんだよ。

 他人なのよ、私からしてみれば。いくらお義母かあさんだとは言っても、他人なの。ひとつ屋根のしたに他人がいるのよ。

 そんな言い方はないだろう、そんな……。

 なによ! 私がどれだけ辛いかなんてわかってないくせに一丁前に言わないでよ! いい? あの人は私にとって敵なの。ああ、もう憎たらしい。いま隣の部屋にいると思うだけで吐き気がするわ。

 なあ、なんでお前はおふくろを殺したいほど憎んでるんだよ。俺にはそれがわからん。どうにも仲良さそうに見えてたけどな。

 そりゃ、上っ面は仲良くするわよ。でも、向こうだって心の中でどう思ってるかわかったもんじゃないわよ。かわいい優介を奪いやがってとでも思ってんじゃないの? 知ってる? あの人ね、自分の部屋は自分で掃除するって言ってきかないのよ?

 そ、そりゃ別にいいことじゃないか。お前の手間もかからないだろう。

 アンタバカじゃないの? 要はお前なんかには頼らないってことよ。部屋にもいれたくないし、触って欲しくないっていう意思表示なのよ。いわば宣戦布告ね。

 ……そりゃちょっと考えすぎじゃないか?

 考えすぎじゃないわよ、女同士の戦いはいつも男の知らないところで始まってるの。それにさ、私の帰りがちょーっと遅くなったら『ご飯作っといたから、よかったら食べてね』だってさ。ああ、思い出しただけで胸がムカムカするわ。

 それだって、ありがたいことじゃあないのか? ご飯作っといてくれたら助かるだろ。

 旦那に飯も作れないなら仕事なんて辞めちまえってそう言いたいのよ、あの人は。

 ……それもちょっと考えすぎじゃ……。

 考えすぎじゃないってば。なによ、さっきから。まさか今更怖気づいたんじゃないでしょうね。

 だ、だってよう……。

 これはアンタのためでもあるのよ。バカみたいに借金作ってきて、他にどうしようっていうのよ。

 それは、ううん……。

 あの人殺して、保険金で借金返して、私もアンタもスッキリ新生活を迎えようじゃない。

 ……でもよう、捕まっちまったら元も子もないぜ?

 大丈夫よ、きっと。

 なんの根拠があるんだよ、その言葉には。

 女の勘よ。男にはわからない女の未知の力。

 なんだそりゃ、全然当てになんないじゃないか。

 なによ、この勘でアンタの浮気も借金もわかったんでしょうが。それなのに信じないってわけ? 私の勘を。ギャンブルで負けまくったアンタの勘よりよっぽどマシでしょうが。

 そりゃごもっともで。……で、どうやるんだ。

 睡眠薬よ。

 睡眠薬?

 ええ、あの人極度の不眠症で強い睡眠薬を処方されてるでしょう?

 ああ、昔から寝つきが悪かったけど、この家に来て寝れなくなったって言ってたな。

 それもむかつくんだけど、まあいいわ。で、その睡眠薬を大量に一度に飲んだらどうなると思う?

 そりゃ、死ぬかもしれないけど。でも、どうやって飲ますんだよ。あなたを殺したいから睡眠薬いっぱい飲んでくださいって言うのか?

 バカを通り越してめでたいわね、アンタ。そんなこと言ってはいはいって飲むわけないでしょう。薬を砕いてかけるのよ、ケーキに。

 ケーキに?

 ええ、あの人今日誕生日でしょう。だから、ケーキ買ってきてあるの。それに砕いた大量の睡眠薬を振りかけるのよ。砂糖みたいに。

 うえ、まずそう。味で気づかれないかな。

 ええ、その可能性はあるわ。

 おいおい、それじゃダメじゃないか。

 大丈夫よ、ちゃんと対策も考えてあるから。

 対策?

 ええ、あの人ワイン好きでしょ?

 ああ、好きだ。赤ワインが特に。あ、そうか。酒飲ませて味わからなくしようってんだな。

 そう。で、買ってきてあるのよ、赤ワイン。それもいつも買うような安物じゃなくて、たっかいやつ。

 おい、そんなもったいない。

 いいのよ、あの人にとって最後のお酒なんだから、少しくらい良いの飲ませてあげようじゃないの。

 変な優しさは持ってんだな、お前……あ!

 なによ! 急に大きな声出さないで、びっくりするでしょ!

 あ、ああ、ごめん。

 で、何?

 いや、薬と酒一緒に飲んだら危ないんじゃなかったか?

 そこまでバカだとほんと清々しいわね。危ないからいいんじゃない。私たちはあの人を殺そうとしてんのよ?

 あ、そっか。

 そうよ。

 ……なるほどな。うん、だいたいわかった。

 本当に大丈夫? 変なところでトチらないでよ?

 ああ、大丈夫だと思う。……一応、おさらいしていいか?

 どうぞ。

 ええと、今日俺たちは母さんを殺す。方法は買ってきたケーキに砕いた睡眠薬をかけて飲ませる。あと、酒も一緒に飲ませる。で、いいんだよな?

 ええ、上出来じゃない。……あ、そうだ、アンタ。

 ん?

 台所に置いておいた砕いた睡眠薬の残りなんだけど、どっか捨てた? 無くなってたのよ。

 いいや、俺は知らないぜ。お前、自分で捨てたんじゃないのか?

 そうかしら、そうだったかしら。

 お前、たまに抜けてるからなぁ。きっとそうだよ。

 ま、いいわ。とにかく絶対に計画を成功させるわよ。

 ああ、俺たちの未来のために。

 私たちの未来のために。






 ――402号室


「おいおいおい」

 耳からイヤホンを取り外すと坂下は思わず呟いた。首筋を汗が伝っていく。

 部屋の明かりは消してある。分厚いカーテンにさえぎられ月明かりも入ってこない暗い部屋の中で、受信機のモニター部だけが微かに光を放っていた。

「とんでもないことを聞いてしまった……」

 坂下の頭の中で隣夫婦の声が反響する。

「雑音混じりでいまいち鮮明に聞こえなかったけど……たしかに言ったよな、殺すって」

 やけに乾燥する唇を舌で舐める。飲み込んだ唾の音が大きく響いた。

 まさかこんなことになるとは、坂下は思ってもみなかった。

 誰かのことを一方的に知ることのできる快感を覚えたのは、つい最近のことだ。テレビで盗聴特集なるものを見て、楽しそうだと思った。そうなると坂下の行動は早いもので、次の日には盗聴器セットを購入し、なにかと理由をつけてお隣の家に上がり込み、隙を見て寝室に仕掛けてきたのだった。

 それ以来、仕事先でも家庭でもぺこぺこと頭を下げてばかりの坂下にとって、それは唯一のストレスの捌け口であり、誰にも言えない秘密の趣味となっていた。だが、それも今日までかもしれない。

「どうしよう、一応警察に言ったほうがいいのかな」

 机に置いたスマートフォンを取り上げて、ロックを解除したところで坂下はハッと気づいて動きを止めた。

「警察に言うにしても、なんて言ったらいいんだよ。隣を盗聴してたらこんな会話が聞こえましたってか? それじゃ、俺が捕まっちゃうじゃないか……」

 スマートフォンを再度机の上に置く。盗聴器を抽斗ひきだしにしまいながら、坂下はううむとうなった。

「どうしたらいいんだ……とにかく話を整理してみよう」

 坂下は自分の言葉に何度も小刻みに頷く。あえて言葉に出すことで考えをまとめようとしているようだった。

「ええと、確か旦那のほうに借金があるって言ってたよな。で、奥さんのほうが……ああ、やっぱり殺すって言ってた……」

 再確認して情けない声を出す。自慢じゃないがいままでの人生で殴り合いの喧嘩すらしたことがないのだ。誰かを殺そうなんて物騒な話を聞くだけで、坂下はいまにも卒倒しそうだった。

「で、どうやって、そのアレするって言ってた? 肝心なところがいまいち聞き取れなかったんだよなぁ」

 抽斗ひきだしを少しだけ開けて中にしまったばかりの機械を見る。少ない小遣いをやりくりして買ったセール品だからか。それほど音質はよろしくない。

 坂下は記憶を探るように天井を見上げた。気の小さい彼は物証が残ることを嫌い、録音をしていないのだ。自分の記憶だけが頼りであった。耳の中に雑音混じりの声が少しばかり蘇る。それに改めて耳を澄ました。

「なになに……やってきた戦士に、湯掻ゆがいた睡眠薬を避けて持たせる。あと、鮭も一緒に持たせる……だったかな? ううん、どうにも意味がわからないけど、確かそんな感じに聞こえたよなぁ」

 坂下は首を捻る。

「戦士がこんな片田舎にやってくるかな? それに睡眠薬を湯掻いて、鮭と一緒に持たせてどうしようって言うだろう?」

 記憶は刻一刻と薄れていく。ただただ謎は深まっていくばかりだった。




――302号室


「ああん、もう」

 ガリガリとうるさい音をがなり立てるイヤホンを外し、純子は恨めしそうに睨んだ。

「上の旦那さんのこと知りたくてせっかく盗聴器仕掛けたのに、なによこれ。中古品ってやっぱりダメね。うるさくて声なんかまともに聞こえやしないんだから」

 花の女子大生である純子は切ない片思いをしていた。相手は妻子ある身。おそらく年齢は40手前くらいだろうから、親子ほど離れている。望みは薄かった。

 だが、そんなことで諦めるほど彼女は大人しい女ではなかった。少しでも希望の光を明るくするためにまずは相手のことを知ろうと思い立ったのだ。

 一旦思い立ってしまえば、そこからは早かった。あまり素行のよろしくない友人を介して、格安の値段で盗聴器セットをゲット。なにかと理由をつけて家にあがりこみ、彼の書斎にこっそり仕掛けてきたのが今日の夕方のことだった。

 そして、つい先刻。お風呂上がりの楽しみに、いそいそと受信機の電源をいれイヤホンを差し込んでみれば、聴こえてくるのは雑音ばかりだったというわけである。

「せめてもう少しマシだったらなぁ。これじゃ雑音が混じってるというより、雑音の中に声が混じってるって感じだもん」

 湯上りの血色のよい頬を膨らませる。受信機をベッドのうえに投げると、濡れた髪をかしながら椅子に腰掛けた。

「ま、いっか。ちょっとは聞こえたし。ええと、なんて言ってたかしら」

 純子は記憶を探るように天井を見つめた。もしかしたらこの視線の先にあの人がいるのかもしれないと思うと血の巡りが少し良くなった気がした。

「なんだか、やけに慌ててたけど……パッと見た表紙に……なんだろ、雑誌かしら。えっと、パッと見た表紙にすさんだスイミングやっくんと焼けたもっくん。あと、ふっくんも一緒……かしら? ううん、なんだか違う気がするけど」

 ドライヤーのコンセントを差込ながら彼女は言う。

「あの人、シブがき隊好きなのかしら。今度話しかけてみよ」

 ちょっとした失敗に彼女は挫けない。恋する女は強いのだ。

 スイッチをオンにすると、轟音の割に弱々しい風が申し訳程度に吹き出した。中学から使い古したボロボロのドライヤーを見る。

「盗聴器の前にこれを買い替えなきゃね」




――303号室


 壁からコップを外し、大地はため息をついた。

「ああ、やっぱ聞こえねぇ」

 隣の女子大生に恋をしている彼は、少しでも彼女を感じるために毎日こうしてコップを壁につけ、音を盗み聞きしているのだ。もちろんまともに聞こえるわけもなく、やたらとこもって聞こえる音から、あれやこれやと想像しているばかりなのだが。

「盗聴器とか、ほしいよなぁ」

 しかし、まだ中学にあがったばかりの彼にそんなものを買うお金も機会もない。当分の間はこうして壁に張り付いているしかなさそうだった。

「とにかく聞こえた音から推理していくしかない」

 変な方向にポジティブさを発揮し、彼は聞こえた音の一つひとつを思い出し、頭をフル回転させていった。

「えっと、たったきたって感じの始まりだったから、なんだろ。……かってきた、かなぁ」

 眉間に皺を寄せ、尚も考え続ける。いままで巡りあったどんな問題よりも熱心に彼は考えていた。

「お姉さんなにを買ってきたんだろ。きっとなにか女の人っぽいものだよな。んー、あ、そうだ確かこないだケーキ好きって言ってた。たぶん、ケーキ買ってきたんだ」

 自分の言葉にぽんと手を打つ。ケーキを美味しそうに食べる顔を想像してだらしない笑みを浮かべる。口をぱくぱくとさせているのは、彼女から一口もらっている想像らしかった。

「おっと、いけね、続きつづき」

 妄想の中から帰ってくると少年は再び記憶の中の音と向き合った。もはや言葉としてはなにも聞こえず、イントネーションだけが頼りだった。

「こんな感じだったよなぁ……買ってきたケーキが傷んだタイミングぱっくんと食べてごっくん。おふくろに一撃……なんだこれ。ケーキぱっくんはいいけど、傷んでちゃダメだよな。それにおふくろに一撃ってどいうこと?」

 少年は自らが出した答えに大きく首を捻った。それから、肩を落としため息をつく。

「やっぱこんなやりかたじゃ、全然聞き取れないよなぁ。秋葉原でも行って盗聴器、買ってこようかなぁ」

 ベッドに倒れこむ。思春期の好奇心がいけない方向へと向いていることを、彼の両親は知るよしもなかった。




――403号室


 史子ふみこはイヤホンを外し、苛立たしげに舌打ちをした。

 まったく下の夫婦は子供が犯罪に手を染めようとしているのに気づきもしないで、なにをしているんだろうね。最近は子供が子供を産むから手に負えないよ。どうにかして下の夫婦に注意をしなくちゃ。

 自分のやっていることはまったく棚にあげて史子はそう考えた。

 史子は近所連中の御意見番ごいけんばんである。ここらの若い連中をまとめて、常識というものを教え込んでいる。いわば先生のような役割を担っているのだ――と本人は思っている。

 実際は小うるさい近所の名物婆めいぶつばばあと遠巻きにされているのだが、そのことに史子が気づくことはない。

 切れ長の目は意地悪げに釣り上がり、細い赤フレームの眼鏡がこれまた意地悪なキャラクタを強調しているように見える。口は常にへの字に曲がり、彼女の偏屈さを端的に表現していた。

「それにしても、買ってきたケーキが傷んだタイミングでぱっくんと食べてごっくん。おふくろに一撃、ねえ」

 史子は眉根をぎゅっと寄せる。皺だらけの顔にさらに皺が刻まれる。

「変なことを企む連中がいたもんだね、まったく」

 ぶつぶつと口を動かし、そんなことを企む人間に目星をつけていく。このマンションに二世帯で住んでいるのは史子のところを除いて、一階の若い夫婦のところだけ。史子はそこの小さい置物のような婆さんを思い浮かべた。

「人のよさそうな顔をしてたけど、息子夫婦にそんなことを企まれるなんて、相当嫌な性格をしているんだろうねぇ。まったく、人には優しくしないとダメじゃないか」

 そう、私のようにね。史子は心の中で付け加える。

 史子が息子夫婦のところに転がり込んではや半年が過ぎていた。

 迷惑をかけているという自覚は多少はあるが、しかしその分いろいろなことを教えている。家事の仕方や夫に対する態度の取り方。うちの嫁は少々常識の外れたところがある。だいたい女は家庭に入るべきなのに、仕事をやりたいと言って家のことをおろそかにするなど笑止千万。結婚から五年が経つというのにまだ子供ひとりすら産めていない。息子があの子を連れてきたときから嫌な予感はしていたが、やはりもっと強固に反対をしておくべきだった。

「お義母さん、いらっしゃいますか?」

 嫁への不満が心の中で沸点に達しようとしたその瞬間、扉が控えめにノックされ、やたらに甘ったるい声が扉越しに飛んできた。史子は聞こえないように小さく舌打ちをした。

「はいはい、いますよ」

「よかったらリビングへこられませんか? お義母さん今日お誕生日でしょう? 私、ケーキを買ってきましたの」

 ケーキ?

 史子の中で危険信号が一瞬灯った。が、それはすぐに誤作動だと史子本人によって電源を切られた。だって、私は息子夫婦にとてもよくしている。さっき聞こえてきたへんてこな仕返しをされるようなことは絶対にない。

「ほんとかい? すまないね、ありがとう」

 史子は盗聴器を抽斗ひきだしにしまうと椅子から立ち上がる。

 どっこいしょと声が出る。ここのところ足腰が弱くなってきた。ほんの少し歩くのも億劫になるほどだ。いつの間にかこんなに歳をとってしまった。だが、それも悪くはない。はやくに夫に先立たれ、女手ひとつで必死に子育てをしてきたのだ。立派に成長した息子を見ると、こうして歳を重ねたことがひとつの勲章のように思える。ひとりの人間を立派に育て上げたのだと、胸を張れる。しかし、ただ一点、その息子に女を見る目がなかったことだけが悔やまれるが。

 リビングへ行くと息子夫婦がにこにことして座っていた。テーブルのうえにはケーキが三つとグラスが三つ。

「おや、それはワインかい?」

「うん、母さん赤ワイン好きだろ。今日は誕生日だから、特別にいいやつ買ってきたんだぜ」

「本当かい?」

 椅子に腰掛けると懐から老眼鏡を取り出し、赤ワインのボトルをとる。

「おや、本当だ。嬉しいねぇ。これならちゃんとワインの味がするんだろうね」

 ふん、と鼻を鳴らしながら嫁を見やる。嫁は皮肉に気づくこともなくにこにことしている。その察しの悪さも史子をイラつかせる原因のひとつだ。

「ほら、母さん。せっかくだし、ワイン飲もうよ」

 史子から赤ワインのボトルを受け取ると息子がグラスになみなみと注いだ。

「ああ、もうバカだね、そんなにいっぱい注ぐもんじゃないよ」

 そう言いながら史子は嬉しそうにすぼめた口をグラスにつけた。

 口の中に芳醇ほうじゅんな味わいが広がる。史子は一気にグラスを空けた。

「ああ、美味しい。せっかくだからあんたたちも飲みなよ」

「いえ、そんな、それはお義母さんに買ってきた……」

「私が飲みなって言ってるんだから、飲みなさいよ。そのためにグラス三つ出してるんだろ? まったく謙虚ぶっちゃってさ」

 アルコールが入ると史子の口は一段と悪くなる。息子夫婦は互いに顔を見合わせるとそれぞれのグラスにワインを注ぎ、一口飲んだ。

「あら、本当に美味しい」

「ああ、これ美味い!」

 元来、息子も嫁も酒飲みである。先ほどの史子のように一気にグラスを空けると、もう一杯ずつなみなみと注いだ。ボトルにはすでに半分も残っていない。史子はこれ以上飲まれてたまるものかとボトルを自分の手元にキープした。

「もう終わりかぁ」

 息子がグラスを眺めて寂しそうな声をあげた。すると嫁が椅子から立ち上がると冷蔵庫に向かい、そこから同じワインをもう二本持ってきた。歓声があがる。

「今日は贅沢しちゃった」

「お前、偉いぞ! よし、もっと飲もう!」

 史子たちはそれぞれがボトル一本を抱えて、とにかく飲んだ。顔が赤く染まり、身体は熱を持ち、脳みそが溶けていく。気付けば三人はしこたま酔っていた。

「そうだそうだ、そういえばケーキがあるんじゃなかったか?」

 呂律の回らない口調で息子が言う。

「そうだった、そうだった。ケーキがあるんだった」

 これまた呂律の回らない口調で嫁が応える。

「そうだ、あんたたちがケーキ買ってきてくれるだろうからって、お返しに私クッキーをこしらえたんだよ」

 一番呂律の回らない声が言った。史子だ。ふらふらと立ち上がると、覚束無おぼつかない足取りで冷蔵庫へと向かう。視界がぐにゃぐにゃとクラゲみたいに揺れる。途中、何度も転びそうになりながら、どうにかたどり着くと扉を開けて、冷やしておいたクッキーを取り出した。

「ほうら、これだこれだ。よかったら食べてなさいな」

 気分の良くなっている史子は皿をテーブルに置くと、息子夫婦にクッキーを勧めた。

「うわぁ、ありがとうございますぅ」

 変に間延びした声で嫁が応え、早速一枚食べた。息子もそれに続く。

「美味しい! ……のかな、よくわかんないやぁ」

「よくわかんないなぁ!」

 息子夫婦が何が楽しいのかぎゃははと笑う。まったく下品な笑い声だと思いながら、史子もなんだか楽しくなってきた。目の前に置いてあるケーキに目を向ける。白い粉がかかっているモンブラン。なんだかいつものとは違って豪華に見える。一口食べる。味覚はすでに麻痺して味がまったくわからない。ただ、なんとなく美味しい気がして、パクパクと食べ進めると、すぐに小さな栗の山はなくなってしまった。

 グラスに残った赤ワインをきゅーっと飲み干すと、史子は無性に眠たくなってきた。瞼は鉛でも仕込んだかのように重たく、意思に逆らって落ちてくる。視界が暗くなっていく。

「あ、もぅ、クッキーなくなっちゃたよう」

「もー、優介食べ過ぎだよぅ」

「恵美のほうがぁ、食べてたよぅ」

 酔っ払ってぐでんぐでんになっている息子夫婦の間延びした会話が聞こえる。

「あれぇ、でもそういえばうち今小麦粉切らしてたはずぅなのに、どうやってクッキー作ったんだろぉ」

 深い眠りに落ちながら、史子が応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る