白い蝶が泳ぐ

 目を閉じるとあの日の青に溺れていく。

 冷たくて恐ろしいあの青に。

 こぽこぽと命の抜けていく音だけが響く。

 ああ、目の前を白い蝶がひらひらと舞っている。

 あれはきっと妹の――。


 


 買い物袋をおいて、靴を脱いだところで目眩めまいに襲われた。靴箱に手をおいて身体を支えて、ゆっくりと呼吸をする。青い視界に沈んでいた自分が少しずつ浮上してくる。

 ようやく目眩がおさまり目を開くと、そこにはここ数日の厳しい冷え込みで凍った暗闇が横たわっていた。家の中だというのに吐く息が白く染まる。靴下越しにフローリングの冷たさが滲んでくる。僕は暗闇の中を歩き、リビングへと繋がる扉を開いた。

 窓から斜めに差し込む光でリビングはうっすらと照らされていた。その薄闇の中、母が毛布にくるまり椅子に座っていた。

「ただいま」壁のスイッチを押す。「寝てるの?」

 ジジと小さい音を立てて蛍光灯がリビングを照らす。母の身体がびくりと震えて、それからゆっくりと僕のほうへと首をひねった。眠りから覚めたばかりのうつろな瞳が僕を捉える。

「あぁ、おかえりなさい。お買い物、ごめんね」

 小さい背中をさらに小さくして母はいう。「いいよ」と答えながらキッチンへ向かい、冷蔵庫に食材を詰め込む。妹の事故以来、謝るのが母の癖だった。薄っぺらい笑顔を貼り付けて逃げるのが、僕の癖。

 戻ってくると母はまた机を見つめていた。昔は定規を入れたようにピンと伸びていた背中は、丸まっている。

 ――枯れたヒマワリみたいだ。

 空に向かってまっすぐに伸びていたヒマワリは、いつの間にか項垂うなだれて地面ばかりを見るようになってしまった。その姿を見るたび僕の中にドス黒くて重いものがおりのようにたまっていく。

 僕の部屋の真向かい。細い廊下の向こうに妹の部屋がある。扉には「弥子やこ」と丸っこい文字で書かれたプレートがかかっている。

「弥子、ただいま」僕の声が白い息とともにすぅっと消える。母はまだ机を見つめたままだろうか。「弥子、いるんだろ」

『いない』

「いないって返事できるってことは、いるってことじゃないか」

『いない』

 弥子は僕と五つ違い。この春から小学三年生になるのだけれど、学校へは行っていない。どころか部屋からも出てこない。あの事故のあとは僕も長い間伏せっていたし、気づいたら弥子は部屋に引きこもってしまっていた。いまではこの声だけが弥子の存在を証明するたったひとつのものだ。

 最近では弥子の友達が家を訪れることもなくなってしまった。もう僕たち家族しか彼女のことを覚えていないのではないのか。弥子はもう世界から消えてしまったのではないか。そう思うときもある。そんなときはこの扉に話しかけるのだ。そうすれば妹は答えてくれる。

 日課のように繰り返す妹への声かけを終えて、僕はリビングへと戻った。毛布に包まった母はまた眠りについていた。おだやかな寝息が静かな空気を微かに震わせる。僕は母を起こさないようにゆっくりと歩き、小さなリビングに不似合いの革張りのソファに腰掛けた。肘掛に頭を乗せて横になる。ここ数年でグングンと大きくなっている身体はいつの間にかソファに収まりきらなくなっていた。妹はいま、どのくらい大きくなっているのだろう。

 ふわりと、懐かしい匂いがした。匂いの元を辿るように視線を動かすと、締め切られた襖が見えた。昔は妹とよくあの部屋で遊んでいたのだけれど、最近あの部屋には入っていない。妹が部屋から出てこなくなったからか。

 匂いに記憶を刺激されたらしく、微睡まどろみに落ちていく中で、僕は祖母の家を思い出していた。




 年越しはいつも祖母の家だった。

 石油ストーブの上で湯気をあげる薬缶やかん。大きな炬燵こたつにもぐって食べるミカンの味。ところどころささくれだった畳の、靴下越しのちくちくとするくすぐったさ。

 僕は祖母の家が好きだった。

 でも、あれ以来僕は祖母の家へは行っていない。

 あの日、新しい年になって三日目。祖母の家でゆっくりとすることにも飽きて、身体がうずうずとし始めていた僕は探検に出ることにした。

 お気に入りの青いマフラーをぐるぐると巻いて、温かいお茶を入れた水筒も持った僕は準備万端。さてどこにいこうかと思案する。家の周りはすでに探検済みだった。

 ぐるりと見回した僕をうっすらと白化粧をした山が見下ろしている。

 そうだ、あっちの林のほうにたしか川があると祖母が言っていた。そこへ行ってみよう。

『あの林の向こうには流れのはやい川があってね。危ないから近づいてはいけないよ』

 耳の奥で祖母の声が蘇る。なんでも許してくれる優しい祖母が唯一禁止したこと。それが逆に僕の興味を惹いた。

 僕は祖母や両親に見つからないように家を抜け出すと、小走りに林のほうへと向かった。

 後ろについてくる小さな妹には気づきもせずに。

 冬枯れの木々が揺れる。吹き抜ける風が人の叫び声のように聞こえて怖い。思わず一歩後退さったけれど、勇気を振り絞る。こんなことで怖がるなんて探検家らしくない。

 ガサガサと足元の落ち葉を蹴っ飛ばして歩く。途中で立ち止まってお茶を飲み、また歩き出す。ずっとまっすぐに歩いてきたつもりだけれど、方角が曖昧になってきた。吐く息でマフラーの口元が濡れ、少しずつ凍っていく。足先は寒さにかじかみ、感覚がぼやけだしていた。そろそろ家に帰ろうか。お腹も減ってきたし。

 そう思い出した頃に急に視界が大きく開けた。崖のようになっているその下に空の色を映し込んだような青色の水面が静かに流れていた。

 鏡のように澄んだ川面を見て、僕は口をぽかんと開け放していた。

 ここが祖母の話していた川だろうか、いや違う。だって流れが早そうには見えない。じゃあ、ここはもしかして祖母も知らない川なんじゃないだろうか。もしかして僕はすごい発見をしてしまったのではないだろうか。

 僕は興奮した。このことを一刻もはやく祖母や両親に伝えよう。そうだ、弥子もここに連れてきてやろう。きっと喜ぶ。

 その姿を想像した僕が踵を返したとき、僕よりももう少し上流のほうで聴き慣れた可愛い声がした。

「うわー、すごーい!」

 林の中から白色のダウンジャケットでもこもこに着膨れた弥子が飛び出してきた。柔らかそうな頬が林檎のように真っ赤に染まっている。

 なんでここに弥子が。

 ようやく小学校にあがる弥子が覚束無おぼつかない足取りで川へと近づいていく。

『あの林の向こうには流れのはやい川があってね。危ないから近づいてはいけないよ』

 祖母の声が頭に響く。

「弥子! 川に近づいちゃダメだ!」

 僕の声に気づいた弥子がこちらを向く。足元への注意が散慢になり、すこしの窪みに足を取られた。ゆっくりと弥子の身体が倒れていく。その先は崖になっていて、川面の青がぽっかりと口を開けていた。

 大きな水音。穏やかに青空を写していた水面に波紋が広がる。弥子が手足をばたつかせ水しぶきをあげている。白いダウンジャケットが僕の目の前を横切っていく。

 弥子が沈んでいく。

 弥子の白い手が青色に沈んでいく。

 ぷっくりとした小さな指の並んだ、可愛い白い手が、青色の中に沈んでいく。

 助けないと!

 弥子の姿が見えなくなってようやく僕の身体が動いた。週に一回水泳クラブに通っているから泳ぎには自信があった。マフラーと水筒をその場に投げ捨てて、僕は川へと思い切り飛び込んだ。

 川の流れは思ったよりもはやかった。僕は泳ぐどころか、上も下もわからぬまま、ただ流された。水は冷たく身体を動かすことも難しかった。こぽこぽと命の抜けていく音がする。青色の視界の中、遥か前方に小さな白い蝶がひらひらと舞っているのが見えた。

 あれはきっと弥子の、弥子の小さな可愛い手――。




 皿の触れ合う軽い音で目が覚めた。ぼやける視界で時計を見ると八時を少し回ったところだ。鼻先に炊き上がった白米の甘い匂いがして、腹が盛大に音を立てた。ソファから立ち上がる。窮屈な姿勢で寝ていたせいか身体の節々が痛い。

「起きた? うなされていたけど大丈夫?」

 母が味噌汁をテーブルに置きながらいう。僕は大丈夫と答え席に座った。

 テーブルの上には三人分の食事が並んで湯気を立てている。

 母は引きこもっている妹の分も毎回律儀に食卓に用意する。妹が僕たちと一緒に食事を取ることなんてないのに。

 ――まるで陰膳かげぜんみたいだ。

 食事中、僕たちの間に会話はない。昔は妹が食べることと喋ることとを同時にこなし、父も母も僕も相槌を打ち、愉快な会話が続いていたものだったけれど。

 時計の秒針がカチコチと進む音。箸と皿の触れ合う軽い音に咀嚼音。それ以外の音は何もなかった。静かな食卓。

「そういえば」母が味噌汁を飲み干し口を開いた。「お父さんがね、明日帰ってくるって」

 母の顔に久しぶりに笑顔が浮かんだ。父は何やら出張だったらしく、ここ一ヶ月ほど姿を見なかった。その父がようやく帰ってくる。

「そうなんだ。お土産買ってきてくれるかな」

「きっと買ってきてくれるわよ」

 母との明るい会話なんていつぶりだろうか。いつも謝られるばかりで、笑顔で会話をすることなんて久しくなかった。

「そうだ、父さんが帰ってきたら」だから僕はもっと期待を込めて言った。「弥子も会いに出てくるかもね」

 母の顔が笑ったまま固まった。時間でも止まってしまったようだったが、相変わらず時計の秒針は規則的に音を立てていた。母の頬がヒクヒクと痙攣する様子を僕はじっと見ていた。

「……そうね、出てきてくれるといいわね」

 母の声が湿り気を帯びていることに僕は驚いた。そんなに母が追い詰められていたとは思いもしなかった。

 母は小さな声で「ごちそうさま」と言うと、足早にリビングを出て行った。

 テーブルに残された皿の上。食べかけの生姜焼きの油が白く固まっていた。




 鍵を差し込もうと取り出したとき、ちょうど扉が中から開いた。

「あら、おかえりなさい」

 母が顔を覗かせる。珍しく化粧をして、心なしか血色も良いように思える。

「いまから買い物に行ってくるわね。今日の晩ご飯なにがいい?」

 そういえば昨日母に今日の買い物はしなくても大丈夫だと言われていた。

「えと」陽の光に照らされる母は、あの事故以前の母と同じように見えた。「からあげ」

「ふふ、言うと思った。あなたもお父さんもからあげが大好きだものね」

 母は可笑しそうに笑うと「じゃあね」と手をあげて歩いて行った。

 父が出張から帰ってくることが、母にとって良い刺激となったようだ。

 僕の明るい気分に呼応するように、窓から差し込む光で家の中もいつもより数段明るい気がした。

 長い出張から父が帰ってきて、ようやく家族がこの家に揃うのだ。僕はどうにかして妹にも出てきて欲しかった。

 扉を控えめにノックして、語りかける。

「弥子、いるんだろ」

『いない』

「そんな冗談言ってる場合じゃないんだよ」

 僕は努めて明るい声を出す。

「父さんが今日帰ってくるんだ。久しぶりなんだから、弥子も顔を出してくれないか。たまには家族揃ってご飯を食べようじゃないか」

 中からの応答はない。扉に耳を当て様子を伺うが、自分の鼓動しか聞こえない。

「なあ、聞いてるのか、弥子」

 妹はどうやら無視を決め込んでいるようだ。僕は腹がたってきた。

「弥子、お前がずっと部屋に籠ってばかりいるから、母さんは気を病んでるんだ。何があったか知らないけど、そろそろ出てくるべきじゃないのか」

 妹は答えない。僕の語気が荒くなる。自分の言葉に興奮していくのがわかった。

「なあ、弥子。お前が出てきてくれないと困るんだよ。母さんは落ち込んでるし、父さんもピリピリしてるんだ。あれだけ仲がよかった僕たち家族が、いまじゃお互いの顔色を伺って過ごしてるんだよ」

 僕の胸の内に溜まっていたものが、せきを切ったように噴出している。自分では止められない。

「それもこれも全部」――言ってはいけない。これだけは言ってはいけない――「全部、弥子のせいだぞ!」

 強く扉を殴りつける。それは最早ノックとも呼べない暴力的な拳だった。ネームプレートががしゃりと跳ねる。

 自分の荒い息と激しい心臓の鼓動。

 その隙間を縫うようにして頭の中に声が響いた。

『お前のせいだ』

 ――僕のせい?

 その言葉に気道が狭まり笛のような音が鳴った。ガクガクと膝が震える。興奮で身体が熱いはずなのに、頭だけが冷え冷えとしていた。粘性の高い汗がじっとりと額に浮かぶ。

 視界がチカチカと明滅を繰り返す。

「どうしたの」

 不意にかけられた声に振り向く。いつの間にか影に沈んだ廊下で、母が僕を心配げに見つめていた。

「だいじょうぶ?」

 母の問いかけに僕は痙攣じみた頷きを返す。きっと僕はいま死人のように青白い顔をしているだろう。

「母さんこそどうしたの。買い物に行ったんじゃなかったの?」

 震える声で訊いた僕に母は照れたような笑みを浮かべた。

「お財布忘れちゃったのよ。ダメね、いつもお願いしてばっかりだから」

 母がリビングのテーブルに置きっぱなしになっていた財布を取ってくる。

「それじゃあ、行ってくるけど……」

 母は最後まで僕を心配そうにしていたけど、僕がその背中を無理やりに外へと押し出した。

 音を立てて玄関が閉まると、家の中は再び闇に沈んだ。僕は廊下をぺたぺたと歩き、弥子の部屋の前にきた。扉のノブに手を伸ばす。この扉を開けば、妹がいる。僕のほうを向いて、どうして勝手に開けるのと怒るだろう。

 そんなイメージをしながら、しかし頭の片隅で冷静な声が響いていた。

 ――そこを開けてはいけない。

 ノブに触れた瞬間電気が走ったように僕は手を離していた。頭の中の声は消えない。

 ――そこを開けてはいけない。

「なあ、弥子……そこにいるんだろ」

 僕の呟いた声は誰かに届くこともなくすぐに消え去ってしまった。

 妹からの答えはいつまでたってもなかった。


 


 久しぶりに見た父は疲労が溜まっているのだろう、土気色の顔をしていた。弥子の事故以来、一気に老け込んだ。いまでは実年齢より五つは年上に見える。

「あー、やっぱり家が一番だな」

 父は椅子にどっかと腰掛け、ビールを一口飲むなりそう言った。口の周りに白い泡が付き、ヒゲのようになっている。

 僕もいつか大人になればああして美味しそうにビールを飲むのだろうか。以前、父に一口だけ貰った時には苦くて飲めたものではなかった。父曰く、苦いものを飲み込めるようになるのが大人になることらしかった。

 キッチンでは母が晩ご飯を作っている。キャベツを千切りにしている包丁のリズミカルな音と、からあげの揚がる軽やかな音が耳に楽しい。

 テレビのバラエティ番組を見ながら父は声を上げて笑う。我が家に笑い声が響くのは何時以来だろうか。限りなくあの事故以前の家に近づいていた。

 この場に弥子がいないことを除けば。

 そう、結局弥子が出てくることはなかった。父が帰ってきたタイミングでもう一度部屋まで呼びに行ったのだけど、返事すらなかった。「ご飯できたわよ」

 母の明るい声。僕は椅子から立ち、キッチンの母の元へと向かう。茶碗にご飯をよそい、テーブルまで持っていくのは僕たち兄妹の仕事だった。いまはひとりでやっている。

 母が持ってきた大皿にからあげが山のように積まれている。添えられたキャベツの緑が水々しい。父がお先にとひとつ摘んだ。

「うん、うまい。やっぱり母さんのからあげが一番美味しいよ」

 父の言葉に母がはにかみ、父の隣に腰掛けた。たしかに幸せな食卓がそこにはあった。

 僕が四人分の茶碗を置くまでは。

 誰も座っていない席に置かれた茶碗と取り皿、妹用の桃色の箸を見て父の顔が曇った。眉間に深い皺が刻まれている。

「もうやめないか」

 父が低い声で言った。母は肩を震わせ、目をそらした。僕はと言えば頬張ったからあげをもごもごとしながら、ふたりを交互に見ているばかりだった。

 父は箸を置いて、ひとつ息を吐いた。母が早口で言う。

「だって、こうしてると弥子ちゃんが帰ってきてくれるような気がして……」

「もうこんなことはやめよう。あれから三年も経つんだ。そろそろ区切りをつけよう」

「そんな……まだ、まだ三年なのよ! あの子はきっと」

「弥子はもう✖✖✖んだ!」

 父の言葉が僕の鼓膜に引っかかり、ガリガリと不快な音を立てた。

「そんなまだわからないじゃない、まだ見つかってないのよ。✖✖✖なんて簡単に言わないでよ!」

 母が甲高い叫び声をあげる。テーブルに叩きつけた箸が床へ落ち乾いた音を立てた。

 口の中にあるからあげが砂の塊に変わった気がした。父と母の言い合う声が頭の中で反響し、意味のない音の奔流になる。

 弥子が✖✖✖? そんなことがあるはずがない。だって、弥子はまだあの部屋にいて、僕の問いかけに答えてくれるじゃないか。

 ――本当に?

 片隅で冷静な僕が言う。

 その問いかけに答えようとして、唐突に僕はすべてを思い出した。

 額から汗が噴き出す。ぐるぐると視界が回転し、口の中のものを吐き出した。

 ひどく気持ちが悪い。

 いくら息を吸っても酸素が足りなくて、苦しい。

 身体の末端から体温が奪われていくのがわかる。

 まるで、あの青の中のように。


 扉越しに聞いていたあの声は、あれは――


 


 天井の木目が人の顔に見える。そういって妹は和室で寝るのはひどく嫌がったものだ。

 僕は目を覚まして一番最初にそのことを思い出した。僕が寝かされているのはいまは両親の寝室として使用されている和室だ。昔は僕と弥子の遊び場だった。

 僕は布団の上で寝返りを打った。九十度回転した視界に重苦しい色をした仏壇が入り込む。祖父の写真の隣で弥子がにっこりと笑っている。

 弥子はあのとき川に流されて、それからずっと帰ってきていない。

 僕は全てから目を逸らしていたのだ。弥子の死から、そして自分の責任から。

 僕があの日、川を見に行こうとしなければ。

 あの時弥子の小さい白い手を掴むことができていたならば。

 いまでもこの家には彼女の笑い声が響いていただろうに。

 僕の中で弥子が笑った。

 胸にぽっかりと空いた穴から、止め処なく悲しみが溢れ出す。

 僕は弥子を失って初めて声をあげて泣いた。


 


 新しい年を迎え、僕たち家族は新たな一歩を踏み出そうとしていた。あの事故以来訪れることのなかった祖母の家で年を越した。

 きっと自分たちへの意思表明だったのだ。うしろを向いて足を止めているのはもうやめようと。前を向いて歩き出そうと。

 午過ぎになって僕はひとりで外へと出てきた。あの場所へ行ってみようと思ったのだ。

 幼い頃、あんなに大冒険だと思っていた道のりは思いのほか短かった。ほんの五分歩いただけでそこについてしまった。

 空の色を映し込んだ水面は静かに佇んでいる。この穏やかな川が弥子を飲み込んでしまったとはいまだに信じられない。

 僕は川の流れに沿って歩き出した。青いマフラーを巻いて、白い息を吐いていると、まるであの日に戻ったみたいだった。だけど、うしろを振り向いてもそこに僕を追いかけてくるあの可愛らしい影はない。

 川は緩やかに曲がりながら山を下り町の方へと向かっていく。サクサクと雪を踏む音だけが響く。空気は冷たくピンと張り詰めていた。

 どれほど歩いただろうか。

 いつの間にか小さな町を通り過ぎていた。

 川は寂しげに立ち並ぶ木々の間を縫うように続いている。

 ふと、目の前を蝶が横切った。

 僕は何かに魅せられるようにその蝶を追った。

 白い蝶。

 白い蝶が泳ぐようにひらひらと舞っている。

 およそ人が立ち入らないであろう深い谷底へと蝶が誘う。

 ぐずぐずと崩れる足元に苦戦しながらも、僕は懸命に後を追う。

 あの白い蝶はきっと妹の――。

 幾度も転びながら、僕は足を動かし続けた。ただ夢中で白い蝶を追いかけた。

 空高く輝いていた太陽が山の裾に顔を半分隠した頃。その身を茜色に染めた蝶がふわりと地面に降り立った。

 ――ああ、こんなところに。

 ようやく見つけた。僕の頬を涙が伝う。

 蝶が羽を閉じ止まったそこには、蝶と同じ色の小さな頭蓋骨がひとつ転がっていた。

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