芝楽みちなり短編集

芝犬尾々

娘の嫁入り

 久しぶりに見た故郷の空は、東京のそれに比べて色が濃かった。

 

 高層ビルに区切られることもなく、青々としてどこまでも広がっている。

 綿のような雲がゆったりと風に流されていくのを見ると、時間の流れすら違うように思えた。


 背後で二両編成の電車がけたたましい音を立てて行ってしまうと、他には風になびく木々の囁きだけが残った。


 私は胸いっぱいに空気を吸い込む。草と土のにおいに懐かしさを感じる。おりのように溜まっていた疲れが溶けていく。


 砂利を踏む足音がゆっくりと近づいてきて、隣で立ち止まった。顔を動かさずにそちらを見る。


 私よりも頭一つ分背の高い彼、柚森ゆずもり善太ぜんたはその名の通り人の良さそうな笑みを浮かべていた。


「ここが愛子さんの生まれたところか。うん、良いところだね」


 にこにこと言う彼の言葉は捉えようによっては皮肉に聞こえるが、彼に限ってはそうではないことを私は知っている。


「なにもないところでしょ。ドがつくほどの田舎なのよ」

「ううん、良いところだよ。自然がたくさんで」


 確かに彼の言うように自然はたくさんある。というか、自然しかない。


 目の前には駅前ロータリーとは名ばかりの広場があり、タクシーが一台停まっている。運転手は窓を開け、帽子を顔に乗せ高いびきを掻いている。

 もう少し視線を遠くに向けるとなだらかな稜線の山々を背に、町の数少ない娯楽施設であるパチンコ店がでんと構えている。無駄に大きな駐車場には錆びついた車がぽつねんと待ちぼうけをくっていた。


 昔から変わらぬ景色に思わず頬が緩んだ。そんな自分に少し驚く。


 この何もない町から逃げ出したくて、必死に勉強して東京の大学に行ったのに。

 いまはこのシンプルさが心地よく思える。


 私も歳をとったということかしら。先ほど浮かんだ笑みを苦いものに変えながら、長旅で石のように固くなった腰を拳で軽く叩いた。


「愛子さんは帰ってくるのいつぶりなの?」

「いつぶりかなぁ……ちょっと思い出せないくらい前」

「どうしてそんなに帰らなかったの?」


 お前のせいだ、お前の。


 素朴な質問を投げかける彼に心の中で毒づく。


 ――いい人はいないのか?

 二十代半ばあたりから何かとそう言われるようになった。

 これが私にとっては答えにきゅうする難問だった。

 いい人、つまりはお付き合いしている人はいる。だが、5歳年下の彼が結婚まで考えてくれているかがわからなかった。

 簡単に「いるよ」と答え両親を期待させるのも、彼に「結婚してくれるの?」と確認するのも、私にはできなかった。

 初めのころはなんとか誤魔化していたが、次第にそれも億劫になり、私は積極的に帰れない理由を作り始めたのだ。


 でも、それも今日まで。


 私は左手の薬指を見る。五月の柔らかい日差しを受け、飾り気のない指輪が遠慮がちに輝いている。

 心の底をくすぐられるような感覚。体温がほんのちょっとあがった気がする。

 これが幸せというものかしらん?

 口角が自然とあがっていく。


「愛子さん、なんだか嬉しそう」


 気が付くと先ほどまで景色を夢中で眺めていた善太が、のぞき込むようにしてこちらを見ている。だらしない表情を見られてしまった。顔が赤くなるのがわかる。


 何か言い訳をしようと口をパクパクとさせていると、私よりも先に善太が言った。


「やっぱり久しぶりにご両親に会うのが楽しみなんだね」


 優しい微笑みで見つめられ、先ほどとは別の意味で赤くなる。

 善太は特別顔が整っているわけではない。だが、私はあの柔らかいタレ目にやられた。あの目がふにゃりと笑うと私は骨抜きになってしまうのだ。


「……俺はすごく緊張してるけど」


 文字通り背骨を抜かれたようかのようにふわふわする心地の私とは違い、彼は固い口調だった。


「ほんと? そうは見えないけど」


 言ったあとで思い至る。

 そういえばこの男はあまり表情に出ないタイプなのだ。顔に張り付いたニコニコ仮面のせいで、ババ抜きその他心理戦ゲームで彼に勝てた試しがない。


 だが、そう思ってみるといつもよりほんの少しばかり笑顔がひきつっているように見える。


「大丈夫だよ、うちの両親だいぶ緩いし」


 そう励ましつつも、そりゃそうだよなと思う。


 私が彼のご両親にお会いした時などは、顔面蒼白でゾンビみたいになっていた。

 こんなおばさんでいいのかなとか、もしお許しを得られなかったらどうしようとかいろいろと考えたものだ。

 私がそうだったのだから、娘さんをくださいと父親に言わなければならない善太はなおさらだろう。


 彼を励ますつもりで手を取ると、思いのほか冷たくなっていた。その冷たさに彼の真剣さを感じ、ふいに心の泉から愛しさが溢れだした。


「大丈夫」


 強く手を握る。

 彼の手へと伝わる体温と共に、この気持ちも届けばいいと思った。


「ありがと」


 善太がふんわりと微笑む。肩の力がほんの少し抜けた気がした。


「ねえ、ひとつお願いがあるんだけど」

「ん、なぁに?」

「あのさ、愛子さんのご両親ってどんな人?」

「どんな人?」

「そう、なんか怖いイメージばかりが浮かんじゃってさ」


 なるほど。少しでも情報を手に入れて安心材料にしようとしているらしい。


「そうだなぁ」


 彼が安心できるような優し気なエピソードはないだろうか。

 記憶を探るように空を見上げると、円を描くように一羽のトンビが飛んでいた。時折間の抜けた声で鳴いている。


「お母さんは」


 頭の中に母の姿を思い描く。いまはもう少し皺が増えてたりしてるのかな。


「料理が上手なの、私と違ってね。得意料理はハンバーグ」


 言いながら最近食べてないなぁと思う。少し粗目の挽肉を使った、肉汁たっぷりの本格派。ケチャップで食べるのが私のお気に入りだ。思い出して口の中に涎が溢れる。


「そうそう、たまにお弁当にもちっちゃいハンバーグが入っててさ、そんな日は一日ルンルンだった」


 へぇ、と善太が意外そうな声をあげる。


「なに?」

「いや、愛子さんにもそんな可愛い時があったんだなと思ってさ」

「それ、いまは可愛くないってこと? そりゃもう三十路を過ぎたおばさんですけど」


 精一杯可愛い子ぶって頬を膨らませて見せる。それを見て、口元に手を当てて善太が笑う。


「いまも可愛いよ。じゃなきゃ、娘さんをくださいなんて言う勇気でないもん」


 まっすぐに私を見て言ったセリフにこちらが思わず赤面する。

 善太は時折歯の浮くようなセリフをさらりと言ってのける。

 そのたびに私は心を鷲掴みされているのだ。


「そ、そんなお世辞言ってもなにも出ないからね!」

「お世辞じゃないよ、ほんとに思ってる」

「もう、もういいの! この話終わり!」


 これ以上言われたら困る。

 なにに困るのかわからないが、とにかく困る。


 彼の肩を照れ隠しにバシバシと叩いていると、火照った顔にふと涼しさを感じた。

 顔をあげてみると空から幾筋も斜線が走っている。


「雨……?」


 乾いた地面に点々と黒い跡を残していくそれは紛れもなく雨だった。

 いつの間に雨雲がやってきたのかと空を見上げるが、空は表情を変えず青々と広がっていた。端のほうでトンビも飽きずにくるくると回ってる。


「天気雨だ」


 善太が伸ばした手に雨粒を受けながら言う。

 太陽の光を受けて雨がキラキラと光る。


 ――わぁ、まるで宝石が降ってきたみたい!


 ふいに耳の奥で響いた幼い声をきっかけに、忘れていた情景が目の前に広がる。


 半熟卵みたいにとろりと広がる夕日。

 稜線だけ残して影に沈む山。

 雲のない晴れ渡った空から降る不思議な雨は、キラキラと世界を彩る宝石のようだった。


 親子三人手を繋いで夢のような光景をじっと見ていた。

 その手の温もりさえも思い出せる。

 そして父の――。


 そこで思わず笑ってしまった。善太がどうしたのと訊いてくる。

 私は大切な宝物を見えるような気持ちで話し始める。


「子供の頃にね、親と一緒にここで天気雨を見たことがあってさ」





 あれはサーカスを見た帰りだった。


 初めて見た綱渡りや空中ブランコ、ライオンの火の輪くぐりに興奮しきった私は帰りの電車ですっかり眠り込んでいた。


 駅につき優しく起こされた私は眠い目を擦りながら改札を出た。

 すると、そこには不思議な光景が広がっていた。


 夕日を受け煌めく雨。

 空から降る無数の宝石。

 まるでまだ夢を見ているかのように綺麗だった。


「こういう天気を『キツネの嫁入り』っていうのよ」


 母がそう言った。


「キツネさん? どこにいるの?」


 私がきょろきょろと辺りを見回すと母は笑ってあの山の辺りかなーと指さした。


「えー、アイちゃんキツネのおよめさんみたい! きっとすごくかわいいもん!」

「ねー、お母さんもみたいなぁ」

「キツネのおよめさんだって! すごいね、お父さん!」


 父ともこの楽しい気持ちを分け合おうと思い見上げると、父はむっつりと黙り込んでいた。


「お父さん、どうしたの?」


 父は私の質問に、拗ねたように尖らせていた口を開いた。


「愛子ちゃんも……」




 そこまで話した時にロータリーに一台の車が滑り込んできた。鮮やかな空色の軽自動車。


「あ、きたきた」


 隣で善太の身体が固くなるのがわかった。背筋が定規をいれたようにピンと伸びている。


「そんなに緊張しないの。リラックス、リラックス」

「う、うん。大丈夫」


 車から母が降りてくる。開いた扉に手をかけて立ち、もう片方の手を大きく振っている。

 私は小さく手を振り返す。善太が深く腰を折りお辞儀をした。


 運転席側の扉も開き、父がぎこちない動きで降りてきた。善太がそちらに向けてもう一度お辞儀をする。


 置いていた鞄を取り、車のほうへと歩き出す。

 次第にふたりの顔が大きく見えてきた。

 母は満面の笑みを浮かべ、父は――。


 私はまたそこで笑ってしまった。


 唇を尖らせた父の表情は、思い出のあの日とまったく同じだ。


 耳の中に父の声がよみがえる。


『愛子ちゃんもいつかはお嫁さんにいっちゃうんだもんな』


 そうだよ、お父さん。

 私はお嫁さんにいきます。

 でも、私はいつまでもあなたの娘です。

 私の帰るべき場所はここ。


「お父さん、お母さん――ただいま」

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