第5話 あの日の約束

 七里ヶ浜しちりがはまの浜辺で、牧之原まきのはらさんの名前を呼んだ時も、そうだった。

  

 咲太が、思い出したのは、覚えているのは、大切な日常だった。

 それは、苦しんで、あがいて、なげいて、きっと後悔こうかいしないように生きてきた日々だった。

 器用に思いを伝えられなかったから、遠回りもした。本音を言い合えるようになるのは簡単なことではなかった。

 そうしてきたからこそ、大切な思い出となっている。  

 

 だから、咲太はを忘れていたことに、責任を感じている。

 麻衣にとっての、咲太にとっての、大切な思い出を忘れていたのだ。

 

 は、正確には、咲太は知らないのだ。

 前に訊いた時には、卵焼きでごまかされてしまった。

 三階の空き教室だった。海の見える窓際の机だった。

 あの日のことは、咲太にとっては、経験していない事実として少しずつ色褪いろあせせてしまっていた。

 それでも。

 もう二度と忘れないために、あの日の約束を守るために、咲太は麻衣に近づいた。

「ねぇ、麻衣さん。」

 咲太の落ち着いた声に気づき、麻衣は足を止めて咲太を見つめた。

「麻衣さんのファーストキスっていつだっけ?」 

 

 一瞬、漠然ばくぜんとした感覚だったが、世界が正しさを取り戻したように咲太は感じた。


 麻衣はまっすぐ咲太のことを見つめていた。

 少し照れた顔で笑っている。

「覚えてないなんて最低ね」

 麻衣らしい答えだった。

 それでも、前の時とは少し違うように聞こえた。

 それが、照れ隠しであることには咲太にも分かっていた。

 だから、咲太もいつものように返す。日常にもどって。

「ひどいな、麻衣さん。教えてくれていればこんな事にならなかったのに」


 ふたりで過ごしてきたなかで、麻衣しか知らないこと、覚えていないことがあった。

 一つ目は、麻衣が初めて思春期症候群に気づいた日のこと。この日、麻衣は江ノ島水族館を訪れていた。ふと、周りの人たちが自分のことを見えていない不安にかられた麻衣は、それがまぎれもない事実であることを、そのすぐ後に行った喫茶店きっさてんで知った。この日の四日後に麻衣と出会った咲太は、これを話で聞いただけであった。

 二つ目は、咲太が、世界が麻衣のことを忘れてしまっていた時のこと。麻衣の仕込んだ睡眠導入剤により深い眠りに落ちた咲太は、麻衣のことを忘れてしまっていた。後日、この間に麻衣が咲太にファーストキスをしたことを知ったが、それ以上のことは何も教えてもらえず、卵焼きでごまかされてしまっていた。


 この二つの思い出を、過去を振り返るたびに、咲太は少しずつ忘れていってしまっていた。

 そして、魚を見る麻衣の横顔を見たときに、過去を振り返ると、咲太は思い出を欠けた状態にしてしまった。

 だからこそ、世界は正しさを保つために、麻衣は江ノ島水族館の事を忘れてしまった。

 でも、咲太はそれに違和感を感じていた。

 正しさのために、思い出が消されるなんてことは認められなかった。

 覚えている人の数で思い出が変えられる事なんて許せなかった。

 ふたりで過ごしてきた日常の中に、たしかにあった、辛いこと、悲しいこと、楽しいこと。

 それが、記憶だけではなくて、心にもあったから――。

 麻衣もそうだと信じていたから。

 心に残った思い出を引き起こせれば、助けられる自信があった。


「なによ、私のせいって言いたいの?」

 麻衣は咲太をからかうように、下から見上げた。

「ちょっとくらいは責任感じてほしいなー」

「ふーん。咲太にとって私のファーストキスは忘れちゃうくらいのことだったんだ」

「麻衣さんがここでキスしてくれたらばっちり思い出すかも」

「生意気なこと言わないの」

 少し顔を赤らめて走り出した麻衣を追いかけるように、咲太も走り出した。


 ふたりとも、互いが笑顔でいることに気づいていた。

 ふたりで幸せになる。

 咲太も麻衣も、気持ちは一緒だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青春ブタ野郎はキスする彼女の夢を見る 秋山洋一 @NatuMizu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ