第4話 キスする彼女

「江ノ島水族館に来たのは初めてよ。昨日話したの忘れたの?」


 思春期症候群――。


 麻衣が何を言ったのか、それを受け止めるまでに時間がかかった。

 言葉の意味は理解できた。それでも、その事実が咲太には、どこか遠い出来事のように感じられた。

 それは、受け止められないのではなくて、受け止めたくなかったから。

 ふたりの思い出が変えられたことを。

 

 それでも、どこかで楽観的になっていたのかもしれない。

 そう思い始めて、体の緊張きんちょうがほぐれたとき、咲太の意識を完全に取り戻したのは、麻衣の声だった。

「言い訳は後で考えなさい。行くわよ」

 少し突き放したような声。

 それでも、いつもと変わらない、麻衣の声。


 いろんなことがあった。

 泣いて、叫んで、悩んで、こらえて、あがいて、決断した――。

 辛いこともたくさんあったけど、でも、約束したから。

 

 「さてと、順調に落ち込んだことだし、そろそろ元気になるか。ゆっくりしてると、麻衣さんに怒られちゃうし」

 迷いなどなかった。不条理ふじょうりな世の中に立ち向かうことへの。


 たくさんの思い出を、ひとつでも欠けたまま過ごすことなんて出来ない。

 不思議な出会いをした。

 本音を言い合った。

 それでも、少しずつ世界から麻衣さんが消えていった。

 ふたりだけで遠くまで行った。

 麻衣さんのことを覚えているのは咲太だけになった。

 麻衣さんのことを覚えているのは誰もいなくなった。

 それでも、懐かしさが、悲しみが、楽しさが、嬉しさが、こみあげてきた。

 麻衣さんと、もう一度、それからずっと、話すことができた。

 幸せな時間を過ごした。

 大切な約束もした。


「まったく、後で麻衣さんにご褒美でももらわ――」

 違和感。

 何かを、大切なものを見落とした。

 見落とした。

 ふたりの思い出を――。


 すぐに、分かった。

 見落としていた、大切なものがあった。

「あーあ、まさか、僕が原因だったとは」

 自信があった。絶対に、乗り越えられる。

「いや、まてよ。麻衣さんにも責任があるぞ、これは」

 心が弾む。

 もう、咲太は、麻衣を助けた後のことを考えていた。

 助けた後には、麻衣の責任を追及ついきゅうして、本当のことを教えてもらおう。

 顔を赤くするだろうか。

 それでも、今回はごまかされない。


 前のように、卵焼きでごまかされたりはしない――。

 


 

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