第27話『My honey』
まだ口の中には、林檎の甘い香りが残っている。
あの後、ハートさんは「少し1人にしてください」と自分の部屋へ戻って行った。そっとしておくしかないだろう。僕には、何も出来ないし、するべきではないのだろう。
ふとテーブルのほうに目を向けると、先程までアップルパイが乗っていたお皿と、ティーセットが置き忘れられている事に気がついた。ハートさんが忘れて行ったのだろう。僕はそれを手に取り部屋を出る。お皿を洗うためだ。
思えばお皿を洗うのなんてかなり久々である。ここに来る前も、最近は結構ハニーが洗ってくれていたりしたのだ。
リビングを通過し、やたらと広いキッチンへと向かう。どれくらい広いかというと、大きな冷蔵庫が2つ置いてあるようなキッチンと言えば、分かりやすいかもしれない。もはや、小さな厨房である。
水道から水を出して、スポンジでお皿を丁寧に洗い、ティーセットも綺麗にした。が、問題が発生した。
「…………仕舞う場所が分からない」
この家に来てから、僕は一回も家事をこなしていない。そのため、このお皿を仕舞う場所も、ティーセットを仕舞っておく戸棚の位置も分からない。
僕の家に来たばかりのハニー状態である。とりあえず、流し台のそばに置いておく事にしよう。
僕はため息をつきながら、やたらと広いキッチンを出て、リビングへと向かう。
すると、来る時には居なかったが、リビングのソファーに中ボスさんが座っていた。
中ボスさんは僕を見つけると、ふりふりーと手のひらを泳がせた。
「やっほー、僕ちゃん」
「中ボスさん、チャラ魔––––じゃなくて、あの生意気な奴とは仲直り出来たんですか?」
「うーん、それがねぇ、『俺は農業がやりたい!』って、頼み込まれちゃってぇ〜」
「何言ってんだよ、アイツ……」
「『俺は農業がやりたいから、お前も一緒に来い!』って、言われちゃたの」
中ボスさんは「本当におバカなんだから」と優しく微笑んだ。
チャラ魔も、チャラ魔なりに色々あるのだろうと僕は脳内で勝手に補足しておく事にした。
まぁ、それは置いて置いてと中ボスさん。
「お姉さんハートちゃんを慰めてあげないと〜、彼女、次の魔王になるそうだしねぇ」
「……どういうことですか?」
「あれあれ〜? 聞いてなかったの〜?」
何か言っていた覚えはある。確か、「人間と魔族との協定の件なら心配しないでください」だったか。
「ハートちゃん––––つまり、勇者が魔王の椅子に座っちゃう事で、その仲を内部からとり持つんだって〜」
確かに彼女ほどの人物ならそれも可能なのだろう。
中ボスさんは「それにしても……」と話を続ける。
「あのハートちゃんを振るような人がいるなんてね〜」
「あ、えっと……ごめんなさい」
「僕ちゃんが謝る必要なんてないよ〜、でもでも〜、お姉さんはハートちゃんを応援してたんだけどね〜」
中ボスさんはそう言うと、ソファーから立ち上がり、僕に手を差し出してきた。
「送ってあげる」
「何処にですか?」
「着いたら、分かるよ〜」
僕は何も言わずに差し出された手を取った。
*
中ボスさんは、僕に「じゃね〜」と手を振ると一瞬にして姿を消した。
移動先は見慣れた場所であった。魔王城付近の街。僕が住んでいた街。
そして明かりが付いている。僕の家に明かりが付いている。深夜なのに。
最初は空き家になって、他の人が住んでいるのかと思った。
何故なら窓に見慣れない花が飾ってあったからだ。でも、何となく違うという予感もしていた。
僕は深呼吸をしてから、扉をノックした。栓抜きを外す音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。
扉から銀色の綺麗な髪が見えた時に、僕の心が踊りだしたのは内緒だ。
「何よ、結婚式なら行かないって言って………………ダーリン?」
ハニーは目を真ん丸にして、僕の事を信じられないといった表情で見つめ、僕の頭をポンポンと叩いた。
「何するんだよ、背が縮むだろ」
「あ、あぁ、えっと、幻かと思って…………おかえり」
「ただいま」
僕は1週間ぶりに我が家に帰宅した。家の中は予想外に綺麗であり、仮にハニーが1週間ここで1人で生活していたとしたら、僕はゴミ屋敷になっているんじゃないかと、内心思っていたりもした。
ハニーはまだ信じられないといった目付きで、小首を傾げる。
「急に帰ってきてどうしたのかしら? 忘れものでも取りに来たの?」
僕は「違うよ」と答えた。
今日あった事を順を追って話そうと思ったが、それよりも先に伝える事がある。
「ハニー」
「何かしら?」
「話があるんだ」
「いいわよ、聞いてあげる」
「好きだ、僕と結婚して欲しい」
ハニーはその言葉を聞くと、驚いた表情を浮かべ、次に目元に涙を浮かべ、そして最後には僕の好きな顔で笑ってくれた。
そのあとに何か言おうとしたが、泣きじゃくるハニーの声は聞き取り辛く、何言っているのか判別出来なかった。
僕は初めて自分から、ハニーを抱きしめた。が、勢い余って押し倒してしまった。
それでもハニーは怒りもせずに、僕の背中に腕を回す。
「ハニー、その一応返事を聞いてもいいかな?」
その問いにハニーは涙を浮かべながら、悪戯ぽく微笑んだ。
「嫌よ」
「え⁉︎ この流れで⁉︎」
「うそよ」
ハニーはゆっくりと僕に口に自身のくちびるを重ねる。だが、お互いの歯が当たってしまい、僕とハニーは苦笑した。
初めてのキスは蜜の味ではなく、きゅうりの味がした。甘いキスではなくて、青臭いキスという意味で。
いや、本当にきゅうりの味がするぞ。
「………………きゅうりの味がするんだけど」
「食べれるようになったの、ダーリンのおかげね」
ハニーはそう言って、最高にチャーミングな笑顔を僕に向けてくれた。
ハニー・チャーミングは見た目だけ勇者から、ただのハニーになった。
その意味はハニー・チャーミングの名前としてのハニーではなく、恋人を親しみを込めて呼ぶ時のハニーとして。
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