第26話『恋味アップルパイ』

 1番最初に目に入ったのは、彼女の黒いエプロン姿ではなく、お皿の上に可愛らしく盛り付けられたアップルパイとティーセットであった。

 その視線に気が付いたのか、ハートさんは「食べますか?」と勧めてきた。


「今、ですか?」


「前にお手紙でアップルパイを焼くと、書きましたのでっ♪」


 夜中だからとか、先程のチャラ魔の話などは一旦置いておいて、僕は素直にアップルパイを食べる事にした。どうやら、本当にお茶をしにきたらしい。

 備え付けられたテーブルに、ハートさんはティーセットとアップルパイを置き、慣れた手付きで紅茶をティーカップに注いだ。


「せっかくなので、この紅茶もアップルティーにしてみましたっ」


「いい匂いですね」


「ちょっといい茶葉を使ってるんですよ♪」


 おそらく、「ちょっといい」程度の茶葉ではないのだろう。

 いい紅茶は香りが美味しい。まだ口を付けていないというのに、その紅茶は香り豊かに舌を彩る。香りから味を想像する事が出来る。


「さっ、冷めないうちにどうぞっ」


「いただきます」


 ティーカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲む––––思ったより苦い。想像と違う。

 ハートさんはそれを見て、苦笑した。


「お砂糖、入れますかっ?」


「だ、大丈夫です」


「あっ、それでしたらアップルパイをどうぞ♪」


 僕はハートさんに勧められ、一口サイズに小分けされたアップルパイを1つ手に取った。まるで小さなバラとでも言うべきだろうか、こんな形のキャンドルがあったら、ハニーも喜びそうだ。

 ……また、ハニーの事を考えてる。


「もしかして、アップルパイお嫌いでしたか?」


「あ、すいません。そんな事はないです」


 不安そうに僕の顔を覗き込むハートさん。僕がアップルパイを手に取ったまま、中々口を付けなかったからだろう。

 僕はゆっくりと、食べる前から美味しいと分かっているアップルパイを頬張る。美味しい。お店で売っている物ではなく、家庭的で暖かみのある味だ。


「すごく美味しいです」


「よかったです♪」


 ハートさんは「もう一つどうぞっ」と僕にアップルパイを勧めてきた。

 断る理由も、意味も無いし、そもそももっと食べたいと思ったので、僕はアップルパイをもう一つ取り––––頬張る。美味しい。


「もう一つ食べてもいいですか?」


「このアップルパイはまーくんの為に作ったので、好きなだけどうぞっ」


 笑顔でアップルパイを勧められた僕は、その後も手を止める事なく、全てのアップルパイを平らげた。

 ハートさんはアップルパイを勧めるばかりで、自分では一つも食べなかったが、僕の食べる姿を見て、ニコニコと屈託のない笑顔で笑っていた。


「ご馳走さま、美味しかったです」


「はーいっ、お粗末さまでーす♪」


 ハートさんはそう言いながら、空になったお皿を満足そうに眺めた。


「アップルパイって、恋の味なんですよっ、甘酸っぱくて、ふんわりとしていて、それでとろけるように甘いんです」


「うん?」


 唐突にな話題と、脈絡のない内容に僕は首を傾げる。

 ハートさんはそんな僕の事を、ジッと見つめる。そして、何かを言おうとして、やっぱり辞めて、また言おうとして、また辞めて、それから、こう口にした。


「やっぱり、ハニーちゃんの事が好きなんですか?」


「うん」


 僕は少し躊躇したが、即答で答える事が出来た。いや、答えてから、躊躇したという感じだ。答えてから、少しモヤモヤとした感情になる。

 答えは考えずとも口から出たが、結論は全然だ。


 ––––なんでハニーの事が好きなのかが、分からないからだ。

 ハニーのどこが好きなのかが分からない。顔ではないし、ましてや胸のデカさでもない。

 それこそ、それをいうなら目の前のハートさんも同じくらいいいし、ハートさんはハニーより、人間が出来ている。

 逆にハニーは全然ダメだ。料理もまだまだだし、態度はデカいし、朝は中々起きないし。褒め言葉より、悪口の方が先に出てくる。

 それでも僕は、ハニーが好きなのだ。理由は分からないが……。

 ––––いや、それでいいのかもしれない。それが正解なのかもしれない。

 恋は盲目とはよく言ったもので、好きの理由は分からない。見えない。

 回りが見えなくなってしまうほど好きで、理由がはっきりとしないから好きなのであり、好きの理由は千差万別、人それぞれだ。

 そして、僕がハニーを好きな理由は「分からない」だ。

 言うならば、『女の子とあまり話した事がない男子が、可愛い女の子と一緒に住んじゃったら、好きになっちゃうよね』とでも言えば納得して貰えるだろう。


 好きに理由なんて無い、好きだと思うから好きなのだ。


 ハートさんは僕の事を怒るわけでも、悲観するわけでもなく、微笑んだまま見つめていた。

 そして、笑顔で言う。


「では、私との縁談は破談ですねっ」


 何故、笑顔でそんな事が言えるのだろう。彼女は本当は僕の事が好きではないのだろうか?

 それとも"大人"だからだろうか……。


「あっ、人間と魔族との協定の件なら心配しないでください、私に考えがありますからっ」


「でも、えっと……」


「最初に言ったではありませんか、『まーくんの意思は尊重する』って。それに私は分かってましたよ、まーくんがハニーちゃんの事が好きなのも」


 僕が自分の気持ちに気が付いたのはついさっきだというのに、この人はそれよりも前から気が付いていたとでもいうのだろうか。

 なら、彼女は、モノクローム・スイートハートは最初から––––


「まさか、最初から僕がハニーの事が好きだと分からせる為に……」


 ハートさんは「残念っ」と笑う。


「少しハズレです」


「少し?」


「私は悪い大人ですから、上手く行けば、まーくんをハニーちゃんから奪えると思っていました」


 字面だけ見れば、悪女のそれであるが、表情や仕草、口調からはそんな事は微塵も感じられず、むしろふざけて言っているのかと誤解してしまうような言い方であった。


「でも、失敗しちゃいましたねっ」


 そう言ってから、ハートさんはアップルティーを一口飲む。僕もなんとなく、残ったアップルティーを飲んだ。まだほんのりと温かい。


「私は自分の立場や、世界平和という理由にかこつけて––––いえ、格好付けて、まーくんと一緒になりたかっただけなのかもしれないです」


 ハートさんはそう言うと、初めて僕から視線を外し、俯いた。

 そしてゆっくりと言葉を噛み締めるように話を続ける。


「それこそ、大人の勇者の私の、大人ではなく、子供みたいなわがままだったのかもしれませんね」


 彼女は俯いたまま、口角を上げ、視線を上げ、僕を見つめる。

 その黒い瞳の奥に、僕の姿が映っているのがはっきりと見えた。

 聞きたい事は沢山ある。僕のどこが好きなのかとか、どうして、そんなにもいい人でいられるのかとか、でも、彼女はそれ以上何かを聞いたら、壊れてしまいそうな程に、こちらから何かアクションを起こしたら、崩れてしまうかのように見えた。

 いつもは凛としていて、キリっとしていて、背筋は綺麗に伸びていて、それでいて表情は柔らかく、優しい彼女が、この時だけは、揺らいでいた。

 そして、彼女は、モノクローム・スイートハートは、祈るように、懇願するように、まるで僕にお願いするように、想いを綴る。


「まーくんが好きです、私をあなたのお嫁さんにしてください」


 その告白に対する返答は、簡単予想出来るものだというのに、彼女はあえて僕に告白してきた。

 僕はハニーの言葉を思い出す、「人を振るって事はそういう事なのよ、ちゃんと覚悟して振りなさい」と言っていた。

 思えば僕は、この言葉から目を背けていたのかもしれない。お見合いを断りきれなかったのも、ディアの時も、そもそもハニーと偽物の夫婦を演じたのも、全ては振るのが嫌で、それをする事によって相手の傷付く顔を見たくないという甘えから来ていたものなのかもしれない。

 でも、それじゃダメなんだ。相手は想いを伝えて、好きだと言ってくれたのだから、僕もそれに答えなきゃいけない。


「ごめんなさい、僕はハニーが好きなんだ。ハートさんとは結婚出来ない」


「………………ですよねっ、知ってました」


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