第90話 弁護士からの招待

 三月十四日月曜日。

 川西メグミのアパートで滞在二日目の夜、彼女は仕事から帰ってくると腹立たしそうに、渚沙に外に働きに行けといい出した。その理由が妙なのだ。メグミは、自分が震災の日に六時間も歩かなければならなかったことが気に入らず、月曜日から自分も働いているのだから、渚沙にも外で働かせたいらしい。

 渚沙が予定していた面会は震災ですべてキャンセルになり、今はパソコンでやるべき仕事が山ほどある。加えて、渚沙の右膝はどんどん悪くなっている。その日、月曜日は雪子のマンションに行って荷物を取りに行ったため、帰路には二、三百メートルも歩くとしばらく休まなければほとんど歩けなくなっていた。出掛けたりしたらどんなことになるか――少なくとも松葉杖は必要になること間違いなしの痛さだ。渚沙は、普段善良なメグミが一度おかしくなると止まらなくなることを経験から知っていた。


 翌日、三月十五日火曜日の午後、メグミが出勤している間に次の滞在先を探すことにした。

 まず思いついたのが、時々会っている都心に住む医者一家の奥さんだ。 

 奥さんに電話してみると、有り難いことに「是非いらして。二十二日からならいつでもいいわよ」と即答してくれた。

 その時はちょうど、普段は彼女の姉妹と同居している母親の面倒を一時的に家で見ているらしく、三月二十二日まで自由にならないからだそうだ。


「今は食料や水の問題もあるでしょう。本当にお邪魔して大丈夫なのですか?」渚沙は迷惑をかけてはいけないと、一応確かめた。

 すると、奥さんは明るい声でこう返事をした。

「それがね、震災の少し前にオーダーミスと、知人からもたくさんの米や食料、水が大量に送られてきて、困っていたところなのよ。だからまったく問題ないわ」

 そういうわけで、三月二十二日から四月初旬のトラタ共和国出発まで、医者一家のお宅に滞在させてもらうことが決まった。


 問題は、その日がまだ三月十五日だったことだ。二十二日までは一週間もある。だが、どうしようかと考える間もなかった。奥さんと電話でやりとりを終えるや否や、知人である大阪の筒井つつい弁護士から突然メールが届いたのだ。彼は震災の日、海外出張中でテレビのニュースを見てたまげたという。

 そして、帰国すると渚沙の現状を何ひとつ知らなかったのにもかかわらず、彼は「そちらは大変でしょう、すぐに大阪にいらしてください」と懸命に大阪に呼んでくれたのである。

 実は、具体的な日にちは決めていなかったのだが、随分前からこの日本滞在期間に関西の大叔母のところに見舞いに行く予定があり、筒井とも会う約束だけはしていたため、彼は渚沙が関東にいることを知っていたのである。 


 筒井は、早速その日の羽田発大阪行きの最終便のひとつ前の便を用意してくれた。渚沙はすぐに出掛ける準備にとりかかった。ネットで調べて見ると、近辺の空港行き専用バスは既に遅すぎて乗れず、電車は震災の影響で不安定だったので、仕方なくタクシーで移動することにした。金欠問題の他に渋滞を心配したが、タクシー会社に問い合わせると一番早くスムーズに行けそうだったのでお願いした。


 荷物をまとめているところへメグミが帰宅した。

 これから大阪に行くと話すとメグミは出発の手伝いをしてくれたが、すっかり誤解していた。東京は放射能汚染で危ないから逃げると思ったらしい。前日は渚沙を脅迫するような勢いだったのに、突然不安そうな態度に変わった。メグミには話していなかったが、被災地の人々ために奉仕をしようと震災翌々日から動いていた渚沙が、逃げるはずがない。メグミのところを去ることに決めたのは、彼女の脅しにも近い言動のみが原因であり、それでも東京を出るつもりはなかった。自然な成り行きで、一週間、滞在先が大阪になっただけである。


 そんなこととは露知らず、メグミはその後「人って、いざっていう時に本性が出るのよね」と渚沙の前で当てつけがましい言葉を何度も吐くようになった。日本人はもちろん、トラタ共和国にメグミがやって来た時は、渚沙が長年つきあっている親しい西洋人たちにも、この話を悪気のない感じでいいふらしているようだ。渚沙はすっかり呆れてしまい、誰にも弁解する気になれずずっと黙っていた。一生いわれ続けてもかまわない。神だけはすべてを知っているのだから。それで十分だ。ただ、二〇一一年三月十三日に行き場に困っていたあの日、メグミが快く渚沙を泊めてもてなしてくれたことはとても感謝しているしずっと忘れないだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る