第89話 かの問題人物の元客
J町は、若者や大人にも大変人気のある洒落た町で、渚沙は秘書時代に仕事で何度も訪れたことがある。川西メグミのアパートは駅から歩いて七分ほどの閑静な住宅街にあり、そちらの方面に訪れるのは初めてだった。
アパートの小さな部屋には、ベッドとノートパソコンが載った小さな机があり、渚沙のために床に布団を敷いたら歩くスペースがまったくない。玄関口や台所、ユニットバスも驚くほど狭いが、家賃だけは一人前に高いという。それでもメグミは、みんなの憧れのJ町に住めることに満足していると渚沙に話した。
部屋に入ると、まず棚に置かれていた黄色い防災ヘルメットに目がいった。震災の日に、勤めている会社で、被って帰るようにと社員に配ってくれたものだそうだ。さすが日本。どこの会社でもそうしているのだろうか?
二日前の三月十一日金曜日、メグミは通常通り新宿に出勤していたという。本震時はビルの十二階で仕事をしており、ひどく揺れた。窓からからは近くのビルが燃えているのが見えた。
都内での被害は少なかったが、火事があったなんて……。
電車は動かず、メグミは帰宅するのに六時間も歩かなければならなかった。足が疲れ切ってしまったところで、「ナータ、もう歩けません」と心の中で訴えた次の瞬間、回送ランプを点けたタクシーが前方から現れた。メグミはそれまでの道中の経験から、どうせ乗せてくれないだろうと思いながらも一応手を挙げてみると、そのタクシーは止まってくれた。とても親切な運転手で近道を通り無事にアパートまで辿り着けた。メグミはその運転手がナータだったように感じたそうだ。
渚沙はメグミの話を聞いて、三月十一日にもたついて早目に出掛けられず、電車に乗っていなかったことを本当に感謝した。また、もし、当初の予定通り安江のマンションに滞在していたら、さらに恐ろしい体験をしていた可能性が高い。安江のマンションは東京の東寄りで揺れが酷かった場所に立地している。雪子のマンションはずっと西寄りにあり比較的新しい建物で耐震構造が強化されているが、安江のマンションは築二十五年ほどで、部屋は九階辺りにある。しかし、前者は揺れることで建物が崩壊することを防止すると聞いたので、実際にはどれくらい揺れの違いがあったのかは分からない。
ちなみに、三月十一日に面会出来なかった、他県からやって来た原島克昭とその知人は日帰りを予定していたらしい。電車が動かないので
実は翌日の十二日、原島克昭が今日は会えるかどうかと渚沙に確認してきたのだが、余震も続いていたし電車の運行状況が不安定という理由で断った。その日、彼らは帰宅するために特急電車に乗ったはいいが座れず、電車の走りも遅くて六時間立ちっぱなしだったそうだ。想像したくないくらい気の毒な話である。
数日後、原島克昭の元客たちが余計なことを渚沙に知らせてきた。三月十一日に原島克昭が渚沙に会わせたかった人物は、なんと「あなたは神の生まれ変わりだ」と原島克昭から霊視され、それを真に受けているという。また大層な病人をトラタ共和国に連れて行く羽目になったものだ……。
さて、メグミは、けっこうぎりぎりの生活をしているはずなのに、渚沙を精いっぱいもてなしてくれた。無理しないでとお願いしたが、迎えてくれたその日の夜は、近くの自然食レストランで夕食をご馳走してくれ、急な訪問であったにも関わらず居心地がいいように工夫し、お客さん扱いしてくれた。パソコンもネットも好きなように使わせてくれて、大変有り難かった。
震災後、ネットでの仕事はとても重要だった。三月十一日に、SNSでナータの警告をもっと多くの人に知ってもらおうと渚沙は誓っていたのだ。
メグミは、日頃から女性らしいセンスのいい気遣いができ、とても親切に振る舞える人で、渚沙は見習いたいといつも思っている。ひとつ、ふたつのこと以外は――
実は彼女は、カウンセラー、原島克昭の元客なのだ。原島克昭のいうことを聞いて酷い目に遭ったことがあり、大変腹立たしそうに渚沙にその話をした。信じた自分が悪いとは考えられないらしい。他の彼の客ほどひどい依存症ではないが、性懲りもなくその後もたまに原島克昭を頼っていた。寺院でも平然とルールを破る、典型的なスピリチュアル系問題児の一人なのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます