第91話 手厚い待遇

 三月十五日火曜日の夜。渚沙はメグミのアパートを出てタクシーを飛ばした。渋滞もなく羽田空港に無事着いた。所持金も少ないのに、弁護士の筒井から連絡をもらったばかりのたった数時間後に羽田まで来て、彼の計らいでこれから飛行機に乗れるのが奇跡のように感じる。


 搭乗ロビーで待っていると、突然関東にいる人たちを置き去りにし、自分だけ逃げるような気持ちになって、涙が込み上げてきた。妹や弟のことを想った。妹には新パートナーがおり滞在を断られていたし、東京から遠距離に家がある家族持ちの弟のところに行く選択はまったく頭に浮かばなかった。


 弟は関東の駐屯地に所属する自衛隊員だ。弟のことが何よりも心配だ。としが十ほども離れているせいか、渚沙は小さな弟をとても可愛がっていた。渚沙は社員寮に入り、そのうち弟は学生寮に入ってしまって会うことがめっきりなくなったけれど、渚沙の中では自分の子のように愛しい存在だ。弟は遅かれ早かれ被災地に派遣されるだろう。そのことを考えると胸が張り裂けそうになる。


 震災直後から、多くの海外の友人たちから渚沙の安否をひどく気遣うメールが届いていた。日本政府は原発事故の真実を隠しているから即日本から出るように説得するドイツの友人、何か出来ることはないかと聞いてくれるオーストリアの知人たち、何人かはドイツに来るように、なんと渚沙の家族の分まで飛行機をとってあげると必死で勧めてくる。

 弟には声は掛けられない。こんな災害時に一番求められる自衛隊員なのだ。妹の真衣子まいこに、仕事兼プライベートの新パートナーと一緒にドイツに行くか聞いてみると、迷っていたが、パートナーが勤めているダンス教室のオーナーが逃げてはいけないといい張っているらしい。真衣子は渋々諦めた。

 

 渚沙本人は、少なくとも当初の予定の四月まで、大きな危機に直面している日本を離れる気持ちにはとてもなれない。だが、そこまで自分のことを思ってくれる知人、友人たちがいることに心を打たれ、メールを読みながら感泣した。


 夜遅く大阪空港に着き、指定された駅に向かうと筒井弁護士が待っていた。タクシーで移動しホテルに荷物を置くと、彼がよく知っているというけっこう高級な中華料理屋に渚沙を連れて行った。食事が終わる頃には閉店する直前だったが、まだ数人の客がいた。

 筒井はホテルまで送ってくれ、「今度、仕事関係のお客さんが来たら使っていただきたいと思っていた、オープンしたばかりの新しいビジネスホテルなんです」と渚沙に笑顔で説明した。彼は一週間分の宿泊費、食事代、移動費のすべてを払ってくれたのだ。

 筒井の事務所はそのホテルから歩いて十分ほどの場所にあり、渚沙のために空席を用意してくれた。しかもパソコン付きだったのでメールも仕事も好きなだけ出来た。


 いつも信じられないほど多忙であるにもかかわらず、筒井は、夕飯は毎晩違うレストランに案内してご馳走してくれ、忙しい昼時は事務員に頼んで渚沙には食費を払わせないように気遣ってくれた。朝食はホテル代に含まれていた。彼が、わざわざそういうプランを選んでくれていたのだ。ホテルの地下のレストランは、ビュッフェ式で和洋様々な食事を選べ、味も良かった。


 大阪に到着した翌朝、早速そのホテルのレストランに行ってみた。そこにはテレビがありニュース番組をやっていて、家族が行方不明という被災者の男性がインタビューに答えていた。妻や娘たちと一緒だったのに、水にさらわれて別れ別れになり、まだ見つかっていないという。実感が湧かないのだろう。まだ希望を持っているのかもしれない。その男性はけっこう落ち着いて話をしている。

 そんな被災地の報道を見て目頭が熱くなり、テレビの映像が見えなくなった。自分が温かな食事をいただけることが申し訳なく思えてきて、なかなか手をつけられなかった。


 震災時は大阪も相当揺れ、建物から大勢の人が出てきたというが、大阪の人たちは淡々と普通に暮らしていることに驚いた。仕事や学校、生活があるのだから当然だろう。何の被害にも遭っていないというのに関東の利己的な人たちが買い占めをして、スーパーやコンビニの商品がなくなるというようなパニックも起こっていない。渚沙はメグミのことを思い出していた。渚沙を泊めてくれたメグミは、そういうことはしない欲のない人だ。彼女は金銭的に不安定な生活している人なので、世話になった礼をしたいと思った。東京では売り切れという米を買い、西洋人たちがトラタ共和国訪問時に渚沙にくれた、メグミも好んでいた珍しい菓子などの食品を残らずメグミのアパートに送った。なんと彼女はそのことで、自分だけ逃げてこんな物を送って来てと腹を立てていたらしく、渚沙はすっかり呆れた。


 関西のテレビも被災地のニュースは多いが、通常通り他の番組もやっていた。みんな、他人事のように過ごしている。知り合いが何人かいたので京都方面に行くと、大きな寺院で被災地支援のための旗を掲げて何らかの奉仕活動を行なっている様子を見て、少しほっした。

 一九九五年、阪神大震災が起こった時、やはり東日本では同じように、渚沙自身や周囲の人々が通常通り過ごしていたことを思い出した。

 だが、東日本大震災は近代地震観測史上最大であり、阪神大震災の千四百五十倍のエネルギーの地震だという。おまけに地球を汚染し、多くの他国に迷惑をかける原発事故問題付きで規模が違いすぎる……。 

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