第84話 校長室

 歩いて十分もしないうちに、学校らしき建物が見えてきた。それが目指してきた高校だった。避難所のひとつに指定されているというのに人気ひとけがない。隣接している中学校も同様だ。

 その中学校の建物に沿って右回りに歩いて行くと、裏側の一階に明かりの点いている部屋があった。職員室のようだ。中に十人くらいの人の姿が見える。

 晴臣はるおみは二人の子供の手を引いていたので、渚沙が避難所について聞きに行くことにした。半分ガラス張りのドアに近付くと、何人かが渚沙に気づいて、男性職員がドアを開けて応対してくれた。


「学校は避難所になっているので私たち職員は待機しているんですが、まだ誰も避難しにいらしてないんです」

「まあそうなんですか。私たちのマンションでは……」

 渚沙と会話をしている男性職員の右肩の奥に、テレビが点いているのが見えた。ここではすべてのライフラインが通常通り供給されているようだ。マンションからはそんなに離れていない場所なのに、なんという地域差だろうか。会話の最中、そのテレビのスクリーンに一瞬だけ目をやった。昼間、家や大木が土色の濁流に流されているシーンだった。これが震源地、東北の映像なのだろう。まだ実感が湧かない。


 渚沙は、自分たちの住んでいる地域のマンションでは電気も水もガスも使えず、しかも子供たちの母親が勤務先から帰れないという事情を説明した。すると、その人は「可哀想に。すぐにお入りください」と構内に入るよう勧めた。


 晴臣に説明してから、みんなで学校の中に入ろうとすると、下の子がやたらと嫌がる。人見知りする子なのだ。晴臣と渚沙が「まだ誰も来ていなくて、自分たちだけだから大丈夫」というとしぶしぶ動いてくれた。 


 案内されたのは、なんと校長室だった。その部屋に入った途端、子供たちが嬉しそうな声を上げた。

 一人の先生が「今、暖房を入れたので、すぐ暖かくなりますから」といってくれたが、外から来た渚沙たちには既に暖かく感じられる。


 明るくてなんとも広い部屋だ。部屋の中には、真ん中に穴の開いた巨大な楕円型だえんけいのテーブルが置かれていて、その周りに簡易式の椅子がずらりと並んでいる。学校の職員が全員座れる数らしい。職員会議はこの校長室で行われるようだ。いざとなったらその頑丈で大きなテーブルの下に隠れられると思うと渚沙は随分安心した。ふかふかとしたソファのセットもある。冷蔵庫やテレビもあり、好きなように使っていいらしい。


 晴臣は、「すごいお部屋だね、お父さんは校長先生になったんだよ」と子供たちに向かっていった。

 二人は先程からはしゃぎっぱなしで、母親の香織のことなどすっかり忘れてしまったかのようだ。実際に、学校では、一言も「お母さん」という言葉が出てこないのだが、母親が安全なところにいるのを信じていて、自分たちも安全なことを実感しているからだろう。


 その学校の職員たちは、まるで特別な客を扱うかのように四人に接した。特に、メガネをかけた五十くらいの男の先生が何度もやって来て、とても親切に世話を焼いてくれる。

 温かい飲み物やジュース、食べ物を運んできてくれ、封を切っていない非常用の毛布のパックも持ってきてくれた。

「まだありますから、寒かったらいってくださいね」

 渚沙はあまりの待遇に申し訳なく感じて、物が運ばれてくる度に、先生方の分はあるのですかと確認してから、頭を下げて礼を伝えた。 


 晴臣が状況を知りたいというので、ソファの傍にあるテレビを点けてもらった。

 どのチャンネルも地震のニュースばかりだ。

 流される大量の家や車。夜の闇に広く燃え盛る町の映像には胸が痛む。気仙沼という場所らしい。

 他にも、石油コンビナートで大規模な火災が展開していた。実際には、暗過ぎてその場所が工場地帯なのか林なのか、住宅地なのかは識別できない。消火作業に当たっているらしいが、火が大き過ぎて無意味に思える。自然に燃え尽きるまで待つしかなさそうだ。多分朝まで。その闇の大火を見ていると、人間の限界と無力さを感じた。


 官房長官が取り乱さず、淡々と会見し続けている様子には頭が下がった。それにしても、被災地の映像はどれも信じ難い。映画なのではないかと思えるほどの凄まじい光景だ。「地上の天国」という言葉はよく耳にするが、この有り様には「地上の地獄」という表現がぴったりくる。これが現実に、今、この日本で起こっていることとは……

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