第83話 マンションを出て

 地震の起こった三月十一日。渚沙は晴臣はるおみと初めてまともに会話をした。普段から晴臣は、社交的な雪子の友人たちとは口を利こうとしないのだ。

 

 雪子と晴臣は、酔った勢いの「できちゃった婚」で愛情は皆無の関係だという。

「人生にはが必要だから結婚した」と妙に冷めた話をする雪子を、渚沙たち同級生は理解できず、受け入れられなかった。高校時代は恋愛で盛り上がっていたし、短大では男遊びをしていたというのにやけに現実的な大人になってしまった。

 最初はあまりにも夢がなくて嫌だなと思ったけれど、雪子はけっこう古風というか、賢いのかもしれない。考えてみると、トラタ共和国でも同じように認識されている。結婚は社会の基盤なので、愛情が冷めたら終止符が打たれがちな恋愛結婚よりもお見合い結婚が良しとされている。

 だが、晴臣を嫌っているとしか思えない発言も時々雪子の口から漏れてくるから心配になる。二人をつなぎとめているのは小さな二人の娘のようだ。


 渚沙をはじめとする友人に対して思いやりがあって寛大な雪子は「夫が休みの日だけ出掛けてくれれば、自由に何でも食べて、何でも好きなように使っていいよ」と、休日の外出だけはいつもお願いされる。気持ちよく友人に滞在してもらうための術なのだろう。

 だから、渚沙が晴臣と行動を共にするのは、この震災の時が初めてだったのだ。


 二人の小さな子供がいてくれるお陰で、話題のほとんどが子供のことになり晴臣と会話をしやすく助かる。

 晴臣にも渚沙にも、互いへの関心はまったくなく、普段男たちからいい寄られることを何よりも嫌う渚沙も安心しきっていたが、この時は誰と一緒だろうと、このマンションで朝まで過ごすことだけはどうしても避けたい。昼間の本震の揺れが脳裏を去来し、渚沙を恐怖に陥れるのだ。

 余震は未だに止むことなく続いている。蝋燭ろうそくの明かりに照らされたマンションの部屋で、ベランダから取り入れた洗濯物干しハンガーが小刻みに揺れるのを見ていると、渚沙は一刻も早く別の場所に移動したくなった。


 上の子は母親がいないのと、電気がつかないので時々ぐずつき、蝋燭の火がすぐに消えないかとやたら気にしている。スーパーには短い蝋燭しかなかったのだ。

「明日、お母さんは帰って来るから」と渚沙と晴臣は何度も子供たちを慰める。渚沙は「お母さんは一番安全なところにいるから大丈夫だよ」と話をすり替えてみたりもした。

 だが、それは本当だった。翌日帰宅した雪子が、巨大な防災壁が会社の建物の周囲に出てきて驚いたという。十五年近く勤めるベテラン社員も知らなかったとは。さすが、世界に名を誇る大企業サニーだ。


 晴臣が、すぐ近くの中学校と高校が避難所になっているというので、渚沙は、そちらに行ってみないかと提案した。学校なら広い校庭があるし、せいぜい高くても四階か五階建くらいだろう。このマンションのように大揺れすることはないはずだ。これから室温は下がっていくばかりで、余震も止まず不安で眠れたものではない。晴臣が避難所に行くことを賛成したので、みんなで簡単な荷造りを始めた。子供たちの暖かそうな服が見つからないので、渚沙は自分のセーター類を使ってもらおうと出来るだけたくさんの衣類を大きめのバッグに詰め込んだ。晴臣と子供たちは、食料や飲み物を入れた小さなリュックや荷物を持って非常階段を下りた。


 マンションは真っ暗で、人の気配がまったく感じられない。夕方、車で出掛けなかった住人たちは、部屋の中にこもっているのだろうか。 

 学校までは歩いて十分ほどかかるという。道路ですれ違う人も車もほとんどない。その辺りは一軒家が多いが、明かりの点いている区域とそうでない区域があった。みんなどこかに避難しているか、屋内の暗闇でじっとしているのだろうけれど、どこもかしこも静まり返っていて無人の町のようだ。渚沙は突然、自分が虚偽の世界にいるような気がしてきた。人生の中で、大災害が起きて避難することを予め想像する人などいるのだろうか。

 渚沙はふと、自分が映画の中にいるように感じて、これからどうなるのだろうと、心のどこかでわくわくし出した。この状況で「わくわく」なんてありえない。どうかしている。それくらい信じ難い出来事だったし、被害らしい被害をまったく目にしていないため心に余裕があったのだ。 


「まるで映画のようですね」

 晴臣は渚沙の言葉に「本当にそうですね」と同意してから、子供たちのほうを向いて優しくいった。

「こんな経験をするなんて、一生に一度か二度、あるかないかっていうくらい珍しいことなんだよ」 

 二度もあったら困るなと渚沙は考えていたが、小さな二人の子供は、「ふうん」と無邪気に父親の言葉を聞いていた。 

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