第82話 蝋燭を灯して

「電車が止まってたんで二駅歩いて来たんですよ」

「それは大変でしたね」


 雪子の夫、晴臣はるおみは会社のコンピュータシステムが動かないので、いつもより早めに退社できた。だが、電車は動いておらず自転車の置いてある駅まで歩く羽目になり、いつものように保育園と幼稚園に寄って娘たちを連れて来たと渚沙に説明した。


 少しすると、都心にあるサニー本社に勤める雪子が、晴臣と渚沙にメールをよこしてきた。電車が止まっているので今夜は帰れないという。雪子は、避難することになったら子供たちをよろしく、と渚沙に伝えてきた。

 何も憂慮せずただ楽しく学生時代を共に過ごした友人が、今や母となり、子に対する愛情ゆえの必死の願いが渚沙の心に触れた。どうにか雪子を安心させたかったが「みんな元気だから大丈夫」と返信すること以外、思いつかなかった。  


 余震が続いていたので晴臣だけが、自分や子供たちの荷物を置きに五階に上がって行った。そして、晴臣が戻って来ると、M駅とは違うもうひとつの最寄りの駅の近くのレストランへ行ってみることにした。

  

 晴臣と渚沙は子供たちの手をつないで道路を歩いた。下の子は、遠足に出掛けるかのように楽しそうにスキップをしている。それに比べて上の子は、「お母さん」と口にしながらベソをかきだした。


 陽はすっかり沈んでいる。明りが灯っているビルもあれば、停電で真っ暗な建物もある。駅前のスーパーの明かりが煌々と点いているのが見えてくると、渚沙は安心した。

 スーパーの前のバスターミナルには、バスの姿は一台も見当たらないのに、会社員らしき人々の長蛇の列が幾つも出来ている。道にまではみ出している勢いだ。多分、こちらの駅でも電車が動かず、電車通勤の人々もバスで帰宅することにしたのだろう。ホテルは近いところで二、三軒くらいしかない。この町に勤めに来ている人たちの千分の一も収容できないはずだ。それで、帰宅するしかないのだろうが、バスも諦めたほうがよさそうだ。運よくバスやタクシーに乗れたとしても、渋滞で動けず、結局家には辿り着けない気がする。渚沙は、バスステーションに並んでいる会社帰りの人々に同情し、早く今日明日の食料と寝床をここで確保したほうがいいですよ、と勧めたくなった。 


 晴臣と渚沙は、飲食店に入る前に最小限必要な買い物をすることにした。

 スーパーの中は人でごった返している。半数以上はスーツ姿の会社員だ。その多くは社内泊することになったのだろう。早々に帰宅を諦めた彼らは、外で永遠に来そうもないバスを待っている人たちより利口かもしれない。

 晴臣は、ちょっとした食料品の他、蝋燭ろうそくや除菌ウエットティシュを買った。


 スーパーを出てから、レストランや喫茶店を覗いてみたが、どこも満員で入れる店は一軒もない。もともとそんなにたくさんの飲食店がない町なのだ。仕方なく、そのままマンションに帰宅した。 


 マンションのライフラインはまだ復旧しておらず、当然エレベーターも動いていない。渚沙は上階へ上がる抵抗感を抑えて覚悟を決めると、晴臣とその子供二人の後について、非常階段を使い五階に上がって行った。

 外は暗いが、ベランダに面した大ガラス窓のお蔭でなんとか室内を動くことが出来る。まず蝋燭の火を点けた。水道もガスも使えない。晴臣は簡易コンロで湯を沸かし、ボトルのミネラルウォーターでみんなの分のカップラーメンを作ってくれた。


「ラジオはありませんか」渚沙が尋ねると、

「そうだあった」と晴臣が席を立った。

 修一郎はすぐにラジオを探し出してきた。


 ラジオの声は、震源地は東北、仙台で、津波警報と余震に注意するようにという単純な呼びかけをひたすら繰り返していた。情報はそれしか入ってこなかった。

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