第77話 冷たいコンクリートの床で

 安江のお姉さんは、上階に自宅のあるマンションの一階に店を構えていた。渚沙が想像した「店」は飲み屋の類だったが大外れだ。珍しいアンティークショップで、家具類や人形、古着などが売られていた。


 お姉さんは、安江と渚沙の付き合いがかれこれ十五年になることを知って、「あらあ、そうなの」と一変して安心したような声を出した。だからといって、翌日以降の宿泊先を提供してはくれなかったが。


 渚沙はアンティークショップに並んでいる品々に目をやった。リカチャン人形に、ウルトラマン、仮面ライダーや、渚沙が知らないさらに昔のヒーローらしきフィギュアが並んでいるガラスケースがある。ペコちゃんグッズも多い。不二家の前に置いてある定番の大きなペコちゃん人形が一体あり、特に目を引いた。

 お姉さんは、壁に掛けられたペコちゃんの時計を指さして、これは三十万円もするものだといった。そんな高価なものを買う人などいるのだろうか。渚沙は改めて店内を見回した。


 外から入って来たばかりで、店の中は暖かく感じるけれど、時間が経つにつれ深々と冷え込んでくるに違いない。床は灰色のコンクリートがき出しになっている。

 お姉さんは、店の奥に置いてある洗面所を見せてくれた後、商品であるはずの古着や椅子、家具を好きなように使っていいという。何かあったら電話してと口にし、店の奥の戸口から出ようとしていた。商品の注文が来ていて、これから仕事をしなくてはいけないそうだ。多忙なところに突然やって来た見知らぬ者に、ここまでしてくれるのだから感謝しなくてはならない。


「あ、電気消す?」

「あっ、私、寝る時は電気消さないんです」と渚沙が慌てて答えたのは、店の奥のコーナーに古い日本人形が何体か置いてあって、ちょっと薄気味悪かったからだ。暗がりで動き出す人形を想像するより、電気を煌々こうこうとつけて人形に目を向けないようにすることのほうが千倍いい。


 渚沙はお姉さんが出してくれた毛皮のマットの上に、何枚かの古着を重ねて横になると、携帯を手にした。

 さて、翌日からの滞在先をどうにかしなくては。関東に知人友人は多いが、たいていいつも帰国していることを知らせずにさっさとトラタ共和国に帰ってしまうので、いきなり泊めて欲しいと頼める人は限られている。


 それで渚沙は、最近帰国時によく会い、たまに泊めてもらっている高校時代の級友、平井雪子ひらいゆきこにメールで事情を伝えた。

 真夜中だが、ちょうど子供を寝かしつけてやっと自由を楽しんでいる頃だろう。案の定起きていたらしく、雪子から「是非、うちに泊まって」とすぐに返事が来た。急だし、大丈夫だろうと思って聞いたわけではなかった。だが、いつものようにまったく迷うことなく、少しも陰りのない善意で雪子が喜んで受け入れてくれるのを感じ、とてもありがたく思った。


 川崎に住んでいる雪子は、家族持ちで夫と小さな娘が二人いる。共働きで忙しいというのに、雪子はいつも快く泊めてくれ、自分たちが仕事に出掛けて留守にしている間も、何でも食べて、何でも自由に使っていいといってくれる。渚沙にはもったいないほどいい友達だ。


 横になってからそれほど時間が経っていないのに、店のコンクリートの冷たさが毛皮のマットを通して伝わってきた。仕方なく、アンティークのソファと椅子を合わせてベッドを作ってみたが、それでも寒さは止まらない。少しの間遠慮していたが、渚沙はとうとう、上階にいるお姉さんに電話して店の暖房を入れてもらうことにした。


 奇妙な体験をすることになったものだ。こんな珍しい貴重な体験はなかなかできることじゃない――と渚沙は肯定的に考えるように努めるが、もともと寒さに弱いので肉体的にかなりこたえる。トラタ共和国では冬の一番寒い時期でも十五度前後だし、暑さなら四十度以上でも楽々耐えられるのに。


 やはり、安江が緊急入院するというメールを知らせてきた時点で、東京行きを思い留まるべきだったのか。若干後悔の念に駆られる。目前になにかしら障害が立ちはだかる時は、それに逆らわないほうがいいということを、渚沙は頻繁に経験してきたが、今回はどうしても場所を移動しなければ気が狂いそうだったから仕方なかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る