第76話 安江のお姉さん

 渚沙は、優香子と別れるとすぐにタクシーを飛ばし、午後九時までの面会時間ぎりぎりに病院に着いた。受付で、安江が確かに入院していることがわかった。溝口安江みぞぐちやすえの友人だと申し出ると、看護師がテレビのある小さな待合室に案内してくれた。看護師は、ある病室を覗くとすぐに戻って来て、そこで待つように渚沙に告げて行ってしまった。その病室に安江がいるのかもしれない。覗いてみたいけれど我慢しよう……。


 三十分ほどすると担架を走らせながら、四、五人の医師や看護師と見られる白衣のスタッフが、慌ただしく待合室の前を通り過ぎて行った。

 少し遅れて中年の女が小走りに後を追って来た。一目見て、安江の親族に違いないと思った。どことなく顔の雰囲気が似ていたからだ。渚沙は咄嗟に立ち上がって挨拶をした。

 すると、女はすべてを承知しているかのようにいった。「あー、あなたね。今日はごめんなさいね。安江、すごく気にしてて」

 その人は、安江のお姉さんで、先程担架で運ばれて来たのは安江だったことがわかった。たった今、四時間にも及ぶ手術が終わったそうだ。


 五分くらい経ってから面会が許された。

 安江は幾つかのチューブにつながれ酸素マスクをしたままで、「ごめんね」と苦しそうに謝った。半分泣いているかのように見える。「新しい布団をひと組買って置いたのよ」と続ける。

 渚沙は、お願いだからしゃべらないで欲しいと思い、「私は大丈夫ですから、気にしないでください」と、不安を隠し笑顔を見せた。

 安江が何度も謝ろうとするので、また明日来ると告げて渚沙は病室を出た。 


 先程の小さな待合室に戻ると、安江のお姉さんは機関銃のように話し始めた。一日でも手術が遅れたら死に至る悪性の大腸癌であったこと、現在も極めて危険な状態で、数日で退院することなどありえないなど、安江の容体について一通り説明すると、彼女は最後にこういった。

「それで、あなた。泊まる所に困っているんでしょ。私のところに来る? 今日だけは私の店に泊まってもいいから。ベッドはないけど。明日は他のところを探してね」


 つまり、当初一ヶ月の滞在を予定していた安江のマンションにはもう泊まれないということだ。安江と同居している母親には、心配させないように検査のための入院とだけ知らせてあるらしい。渚沙は一家の手伝いを申し出たが、お姉さんからきっぱりと断られた。

 安江はきっと手術前から、渚沙に泊まらせてあげて欲しいと、お姉さんに懇願してくれていたに違いない。そして、絶対に駄目だといわれたのだろう。なにしろ、渚沙がお姉さんに会ったのは初めてだ。安江にお姉さんがいることさえ知らなかった。安江は渚沙を娘のように可愛がってくれていたが、見知らぬ人をいきなり母親と一緒の安江のマンションや、自分のマンションに泊めるわけにはいかない、とお姉さんが考えるのは当然だ。


 時計を見ると、夜の十一時近くになっていた。所持金は少なく、今から安いホテルを探すのも困るので、有り難く厚意に甘えることにした。


 お姉さんは、自宅のマンションから近いので病院には自転車で来ていた。一緒に歩くのには少し寒くて遠いので、渚沙はタクシーで指定の交差点まで移動した。間もなく、お姉さんが自転車でやって来た。お姉さんのマンションは交差点の一角にある。安江のマンションもすぐ近くにあるという。交通量が多く排気ガスが充満し、こんな騒々しい通りによく人が住んでいるなと変に感心した。

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