第36話 渚沙、倒れる

 井上との約束では、渡された本の訳を三ヶ月で終わらせることになっていた。トラタ共和国の入国ビザもちょうどそれくらいで切れてしまう。ところが、滞在し始めて二週間が過ぎた頃、ひどい下痢げり嘔吐おうとに襲われ渚沙はすっかりダウンしてしまい、作業どころではなくなった。

 

 よくある話だ。多くの外国人がトラタ共和国に来ると、といわれるものを受ける。つまり下痢をするのだ。嘔吐おうとを伴うことが多い。出された水を安易に飲んだり、安い外食をしたりすると覚悟しておくべきだ。現地人だって病気になるくらいだ。そういった場合は危険な病に感染していることもあり馬鹿にならないが、聖地の中で起こる場合は、体の浄化と考えられている。

 病気か浄化か見分けるのは意外に簡単なことがわかった。浄化の場合は回復後、病み上がりの顔をしていないのだ。普通ならげっそりしたり、顔色が悪く見えたりするはずなのに、「顔が輝いているけど何かいいことでもあったの?」「あなた今日はすごくきれいだけど、どうしたの?」といろんな人から聞かれる。思わず耳を疑う。全然いいことなんかなかったんだけど……と忘れたい不快な苦しみを思い起こす。調子が良くなったとはいえ、自分がまだ肉体的にボロボロの状態にある感覚が残っていて、周囲の言葉にただ戸惑う。


 医者にてもらうと、渚沙は感染病ではなかった。外食もしていないから当然だろう。寺院の食事は新鮮で清潔だし、水もミネラルウォーターを買って飲んでいるので安全面に問題はない。症状は五日でおさまったが、体調が優れないまま帰国の日が近づいてきた。


「イノウエからの翻訳の仕事は終わったのか」ナータが渚沙に尋ねた。

「それが、まだ全然です」ほとんど寝込んでいたので作業ははかどらない。

「ナギサ、あなたは翻訳の仕事を終わらせなくてはならない。新しいビザを取って戻ってきなさい。イノウエにここに来られるように助けてもらいなさい」

 日本で翻訳の続きをするつもりだったのに、思いがけずナータがまたトラタ共和国に来るようにいってくれたことは単純に嬉しい。

 

 日本に戻ってからさっそく井上に連絡した。井上は渚沙が翻訳の仕事を終えられなかったことはさほど怒っていなかったが、渡航するためのサポートを拒んだ。初回の必要経費はすべて出してもらっていたし、約束の仕事を仕上げられなかったのだからそれは当然だろう。そう思いつつ、この案はナータからのものだと一応伝えたがやはり聞き耳を持ってくれなかった。

 渚沙はわずかな貯金をはたき、母親からへそくりで援助をしてもらい二週間でトラタ共和国に舞い戻ってきた。特例で滞在費を免除された。

 それから一ヶ月も経たないうちに、渚沙がオフィスで翻訳の仕事をしていると、ナータが本を手にとり「この本は良くない、翻訳はやめなさい」といった。

 渚沙の訳がだめだという意味かと思ったが、本自体がだめという意味もあったようだ。その本は結局、ドイツ語や他の言語にも訳されることもなく、英語はわかりにくいし、面白くないと批判されて忘れ去られる運命にある。


 こうなると、井上から無理やり頼まれ、翻訳のために聖ナータのところに来たのに、その仕事はまるで渚沙がここへ来るための単なるきっかけに過ぎなかったようだ。

 トラタ共和国の人は『神のたわむれ』という言葉を頻繁に使う。神話の中にも頻繁に出てくる人と神の出会いや様々な奇跡的な出来事に関するユニークなエピソードを読むと、なんだか自分と似ているとおかしくなってしまうのである。渚沙のケースも、神によって計画された、神のたわむれに違いない。

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