第37話 命を懸けて

「渚沙ちゃん、何か嫌なことがあったからって川に飛び込んで死んだりしちゃだめだからね」

 渚沙はぎくっとした。な、なんでそんな言葉が出てくるの、ねえ……。

 井上のアシスタントの小島栄こじまさかえがいつもの親しみのある明るい顔でそういった。ちょっと面白がっている様子だ。

「まさか、それはありませんよ」渚沙は笑顔をつくろいごまかした。

 それは、井上たちが渚沙を寺院に置いて聖ナータの地を去ろうという日だった。渚沙は日本であることを意識してナータの地に来ていたが、それが実現しなければ川に入って死のうと、ナータの寺院の脇を流れる広大なニール川を見て決心したばかりだった。

 トラタ共和国では多くの寺院が川沿いに建てられている。ナータの寺院の隣にも昔の著名な聖者の寺院があるし、川向かいにも破壊神をまつるための小さな古い寺院が立っている。もちろん、入水自殺をするためではない。トラタ共和国では川は母なる女神であり、参拝者がその川の神聖な水で沐浴をするためだ。ニール川は国外では知られていないが、トラタ共和国の古い聖典にも出てくる神聖な川のひとつである。


「渚沙はどうしてここに来たのか」ナータが、恒例のプライベートな集まりの最中に、みんなの前で尋ねた。

「奉仕をするためです」渚沙は迷わず答えた。

 翻訳であれなんであれ、生き神ナータのためにできることならなんでもしたい。今回の翻訳は井上からの依頼だが、日本の人が読んでくれれば彼らの人生の糧になるかもしれない。別の仕事もしたい。報酬なんかいらない。そんなものはもらいたくない。生き神であるナータのために奉仕をしたい。――強くそう思ってトラタ共和国にやってきた。見返りを求めない純粋な気持ちである。それにナータは、現地の貧困者への医療や教育奉仕に力を入れていた。これは、渚沙が学生時代からやりたいと思っていたことでもある。青年海外協力隊にはずっと興味を持っていたのだ。信頼できる人のもとで、本格的な奉仕の手伝いができるのは願ってもいない幸運だと喜んでいたところだ。


「もうひとつここに来た目的があるね。私はに興味がある」ナータは真剣な眼差しを渚沙に向けた。シャンタムにそっくりな顔をして。

 なんですって!? 今、ナータは重大発言をしたと思うんだけど……。

 それはナータにその気があるということだろうか。つまり、渚沙とするつもりでいてくれるのか。渚沙は、ナータと結婚できないならニール川で死ぬつもりだったがその必要はないということか。

 渚沙は最初にナータに会いに来る前から、ナータへの奉仕とナータとの結婚のためにトラタ共和国に行くのだと感じていた。決意とか願望ではなかった。だいたい一度も会ったことがない、何のやり取りもしたことがない相手と結婚したいと誰が思うのか。その時は恋愛感情は皆無で、それが自分の運命、定めだとはっきり感じていた。偽聖者カリルに質問したかったことも、ナータとの結婚が叶うかということだった。みんなの前だから、曖昧あいまいに「自分が望む結婚ができるか」と質問するつもりでいたが。カリルは「そのことは心配ない」といっていた。つまり、できるということだろう。


 渚沙は里見浩太朗の侍姿さむらいすがたの写真を一枚、トラタ共和国になんとなく持って来ていた。彼の写真はそれしかない。高校卒業記念に親友と二人で京都と奈良を旅行し、東映太秦とうえいうずまさ映画村で、いつにも増して美しい容貌の里見浩太朗の侍姿だったので思わず買ってしまったものだ。

 ある日その写真をナータとみんなに日本の有名な俳優です、といって見せた。は海外ではたいへん人気があるのでみんな喜んでいた。その時渚沙は、ふとナータは里見浩太朗に似ていることに気づいた。次の瞬間、ナータは渚沙の顔を見てうなずいたのだ。「私が君のサトミコウタロウだよ」といっているかのようだった。

 後に、ナータの写真の中にも、里見浩太朗の顔に似ているものを見つけた。

 里見浩太朗には、お芝居の中のヒーロー的役柄と共に美しい外見にかれているだけなのだが、実在するなら絶対に結婚したい――いるはずがないけれど、と思っていた。しかし、ナータならそれ以上の、理想以上の存在になる。しかもただのヒーローではない。生き神だから、超人ヒーローだ。スーパーマンやスパイダーマンとも比較にならない最強のヒーロー。そこまでの恋人や結婚相手を求めた覚えはないが……。

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