第21話 もっとも遠く、もっとも近い

 聖シャンタムと結婚したがる女性が、世界中にごまんといるらしい。しかし、相手にされるわけがない。彼は聖人であり、すべての人の親であり、全世界のために存在するのに自分のものにしようとは……。できるならそうしたいがまず無理だ。無理すぎる。


 ある若い日本人女性は、公衆の面前で突然シャンタムに抱きつき「結婚して」とせがんだらしい。渚沙も彼に恋している一人として気持ちはわからないでもないが、ちょっとできない。その時シャンタムはどうしたかという、英語で「クレイジーガール」といってひとりしたそうだ。本当に蹴っ飛ばしたわけではなく、側近か現地のボランティアメンバーが彼女をシャンタムから引きがしたようだ。その話に温かみと愛情を感じた。彼は父親であり、女性を娘として扱っているのだ。聖シャンタムとの結婚は絶対に不可能だ。老齢まで独身、貞節を通している聖人である。渚沙は誰かと結婚するだろうから、シャンタムは心の中の結婚相手でいてくれればよかった。


 同年の秋、聖シャンタムの七十回目の生誕を祝うお祭りが近づいていた。ボランティアセンターの所長アディは、トラタ共和国へ行くツアーを企画した。現地でお祝いの催しに参加するためだ。だが、シャンタムは自分の誕生パーティーを開くわけではない。彼は毎年、自分の誕生日に世界平和会議と青少年育成のための世界青少年会議を行う。渚沙は絶対にそれに参加しようと決めた。わざわざ人間のために地上に降りて来た神の誕生日に感謝を捧げるのは、渚沙にとって当然のことだった。それに、なんでもかまわないから催しの手伝いをしたかった。渚沙はツアーに申し込んだ。

 参加者は約120人。著名な日本の作詞家がシャンタムの熱心な信奉者らしく、ツアーのリーダーの一人として参加することになった。アディの案なのか、日本から108本の桜の苗木を贈り物として持っていくそうだ。108というはトラタ共和国では宗教的な数字でよく用いられるらしい。


 シャンタムの聖地では誰でも無料で食事ができた。大きな台所があり、多国籍のボランティアが調理していた。その奉仕に参加しても良かったし、現地でできることならなんでもしてみたくて求人情報を集めるつもりだった。到着すると、桜の苗木を管理するボランティアを選抜するという知らせがあり、希望者が集まった。ツアー参加者の中でも、渚沙を含め、若い人たちがほとんどだった。選抜方法は古典的なジャンケンだった。渚沙はジャンケンが弱かったので最初から諦めていた。子供の頃から最初の一発で負けるのが常だ。

 ところがどうしたことか、渚沙はどんどん勝ち抜き、50人以上いた希望者のうちの7人に残れたのである。ジャンケンをしていたのは自分ではない気がした。一度や二度ならまぐれかもしれないが、渚沙がジャンケンで一度も負けずに勝ち続けることはありえない。奉仕をしたいという渚沙の強い願いがシャンタムに届き、都合のいいように手が勝手に働いてくれたとしか考えられない。


 聖地のすぐ近くに、世界平和会議の会場となる大きな野外スタジアムがある。108本の桜の苗はその会場を囲んで植えられた。スタジアム内の観客席の間にある小さな空き地にも植えられ、世界平和会議の式典の間、渚沙と4人の日本人がその空き地で見守りをする係になった。式典の終わりの聖火の儀式もそこで行われる予定だった。

 七十回目の生誕祭には前後一週間で現地と世界各国から百万人の人が集まった。当日は、トラタ共和国の首相や大臣たちが来賓らいひんとして参列していた。シャンタムはとして認識されており、生き神は昔から首相よりも高い地位にある。政治的な権力は持たないが、生き神には敬意を表し、祝福を得るために政界の人間が聖地を訪れるのは普通のことなのだ。


 元々近づくことが難しいシャンタムだから、こんなに大きな催しならゴマ粒ほどの姿しか見られないだろうと渚沙は思っていた。ところが、シャンタムは祭典の最後の最後に、渚沙がいる空き地に寄ったのである。渚沙も他のボランティアたちも自然に合掌がっしょうしていた。シャンタムは、渚沙のほうを向くと屈託くったくのない笑顔で右手を振った。他に誰かいるのかと思い、後ろを確認したが誰もいなかった。シャンタムはいつも厳しい顔をしているので意外である。渚沙は、後に優に千枚は購入したが、聖地の外に並ぶ小店で売られている何千、何百という写真にもない満面の笑顔だった。


 二日後の朝、いつものようにシャンタムの姿を見られる時間が終わり、人々は神殿の中から出て行った。渚沙と少数の西洋人がまだそこに残っていた。叶わぬ恋に寂しさを覚える。片思いをしている少女の気分だ。男女関係なく、生き神シャンタムを思う気持ちは同じなのではないか。渚沙は何気なく顔を上げた。すると、すぐ真上のバルコニーからシャンタムが渚沙を見下ろしていたのだ。距離にして五メートルくらいのところにいる。その時のシャンタムは静かに笑みをたたえ、なんと恋人を見るような眼差しを渚沙に向けていた。

 渚沙の心が喜びと興奮で打ち震えた。しかし、彼は人間ではないのだ。――鏡だ。渚沙の心を見せているのに違いない。『神は鏡』という言葉をシャンタム語録の本で読んだ。神は、その性質として生きとし生けるもの、万人を愛しているが、人が歩み寄ることによって繋がりを深められる。神を愛すれば、神も愛してくれるという。

 バルコニーのシャンタムに気がついているのは渚沙だけだった。しばらくすると他の人たちも気がついて近くに集まってきた。シャンタムはゆっくりとバルコニーの奥へ消えてしまった。


 シャンタム――なんて遠い人。しかし、渚沙は内的に強いつながりを感じるようになっていた。親友のように、家族のように、恋人のように。シャンタムは確かに神であり、神はもっとも遠く、最も近い存在だ。


 渚沙は、繰り返しシャンタムの本を読んだ。すべて何かの行事や祭事でシャンタムが講話をした時の記録だという。

 最初の旅行のツアーのリーダーだった井上潤次郎が面白いことをいっていた。「神の生まれ変わりは本を書かない」と。

 そういえば、神といわれるようなイエス・キリストやブッダ、その他神話に出てくるような歴史の神々が、著者とされている書物は一冊もない。弟子や信奉者、他の聖人たちが記録を残したり、神から啓示を受けて書き残しているのだ。


 一年前、シャンタムが神と宇宙、真理について説明している書籍を読みまくったが、まったく理解できなかった。何度か読み返した。線まで引いてみたけれどやはり分からなかった。諦めて何ヶ月か間を置いて同じ本をなんとなく読んだら、不思議なことに小学校三年生くらいの教科書を読んでいるかのようにすらすらと理解できたのである。シャンタムへの愛を培い、思うことが力になったのかもしれない。聖歌を歌い、ボランティアを行い、祝福を得ることでも『霊性』というものが向上するらしい。霊性が高まれば、真理、英知の理解力が得られるという。霊性を測る方法はないみたいだが、理解不能だったシャンタムの真理の講話を、一年後に容易に理解できるようになったのは、霊性が高まった証といえそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る