第22話 妄想同棲生活

 バイト仲間の美野里みのりの自宅は成城にあり、両親と祖父母と一緒に住んでいる。一度遊びにお邪魔したことがあるが、庭が広く、近代的な造りの大きな家だった。

 美野里はお嬢様のはずなのに、少しも飾らず、中性的であどけなく可愛らしい。体の線が細く高校生くらいに見えるが、早稲田大学の三年生だ。フランス語が得意でフランス語の本を読んだり、アルバイトで翻訳している。何故フランス語なのか。単にフランス語が好きだから自分で勉強し、大学でも専攻しているらしい。フランス語の本や新聞を難なく読んでしまう彼女を尊敬した。


 渚沙は短大で英語英文科だったが、一年目に英語以外の言語の単位をとらなければならなかった。中国語、ドイツ語、スペイン語、フランス語の中から一つ選択する。無意味な勉強はしたくないのに、どれも興味がなくて困った。中国語とフランス語は難解だと聞き、即選択肢から外した。残るはドイツ語とスペイン語だ。行きたい国はドイツとスペインなら多分ドイツだろうと思い、ドイツ語に決めた。

 ドイツ語は渚沙にとって簡単な言語で、試験ではいつもほぼ満点を取っていた。教授の教え方がわかりやすく、彼の授業が好きだったからだ。二年目は自由選択できたが、将来ドイツ語を活かせる機会はないと思い、時間の無駄になるだけなのでやめておいた。じつは、二年目もとっておけばよかったと後悔する未来が待っている。そうすれば美野里のように仕事に活かせることもできただろう。勉強はできる時にしておくと後で役に立つ。婚約者のは、いつも若い子達にたくさん勉強して修士号や博士号、資格を取れるまで頑張るように励ましている。将来、仕事に有益だからだ。


 さて、渚沙は相変わらずシャンタム宛に手紙を書いていた。

 ある日、「家賃がとても安いところに住みたいです」と便箋びんせんに記し、封筒に入れて、いつものようにシャンタムの写真の前に置いた。だんだん手紙が増えて山積みになってきた。本当に出すわけではないから溜まってしまうのだ。

 三、四日後、バイト仲間の美野里とその友達と喫茶店でお茶をしている時、安い賃貸を探していると何気なく話した。すると美野里が「うちの親に聞いてみるよ」という。

「ええー、本当に? 」

「うん、多分大丈夫だと思うよ。ちょっと聞いてみるね」

 美野里はその場で店の公衆電話から電話をして母親に聞いてくれた。

「いいってさ。原宿なんだけどどう?」

「あ、ありがたいわ。それで月、いくらなの」あまりにもことが迅速に運ぶのでついていけない。

「お母さん、渚沙ちゃんが決めていいっていってたよ」

「そんなこと言われても……どうしよう。……やっぱりそちらで決めてくれないかな」

「渚沙ちゃんが決めなくっちゃ」

 どこのどんな物件でも文句は言わないけれど、一番問題なのが家賃だ。それを渚沙が決めていいという。こんなにうまい話があっていいのだろうか。

 渚沙は少し考えてから「じゃあ27,000円でもいい? 」と躊躇ためらいがちにいった。

「いいんじゃない」美野里はあどけない天使のような笑顔を見せた。

 シャンタム、これは全部あなたがしたことでしょう。私、わかってる。あなたが手配してくれたのね。この天使ちゃんを使って……。

 それでトントン拍子で引越しをした。幸い、シャンタム・センターで知り合ったユニークなおじさんが引越しを全部手伝ってくれ、一円も経費がかからなかった。彼はさらに、コンロや洗濯機、他必要なものをどこかから無料で調達してきてくれた。


 ラフォーレ原宿の前の道路を挟んだ小さなエリアには、数件の家やアパート、コインランドリーが密集している。美野里の親から借りたのは、そのうちの一軒家の二階だ。築五十年はする古い建物だ。美野里が生まれる前に親が住んでいたらしい。

 渚沙は、すぐそばに、隣にシャンタムがいるかのような気持ちで生活し始めた。同棲しているような感覚だ。毎日が楽しくてならない。トラタ共和国にも行きたいし、もう少し稼ぎが必要なのでバイトを辞め、ビジネスホテルで正社員として働き始めた。

 二階にはトイレがあったが、お風呂場がないので近くの銭湯に通った。歩いて五分くらいの近場にあり助かった。それを面倒だと思ったことはない。心の中でシャンタムと手を繋ぎ、デート気分で銭湯に行くのがとても楽しみだった。表参道を横切り、細い道に入ると小さな洒落た店がいくつか立ち並んでいる。雑貨屋やお茶屋、イタリアンレストラン、歩いているだけで心が和んだ。

 

 借りた家の階下には、子供連れの家族が住んでいた。保険会社に勤めている美人の奥さんと、人の良さそうな旦那さん、二歳と四歳の男の子がいた。すぐ近所に奥さんの実家があり、共働きなので昼間は子供をそこへ預けていたようだ。

 階下とは当然階段でつながっていて、自由に行き来できるが、渚沙は一度も使ったことがない。その階段は下の家族の物置場になっていて、ちょっと通りにくそうだ。二階には、外に出られる別の階段があったので渚沙はそちらを使っていた。たまに停電になり、旦那さんが中の階段を使って二階の大部屋にやって来てブレーカーを上げていたが、全然気にならなかった。その大部屋にはトラタ共和国の人に習い、シャンタムの写真を飾り、その前にキャンドルを灯し、香をいていたりしたからいぶかしく思っていたことだろう。しかし、彼は渚沙に何も尋ねなかった。赤の他人が同居しているのだが、お互いに完全に信頼していて、問題が起こったことは一度もなかった。

 美人の奥さんは子育てに悪戦苦闘しているようで、平日の朝夜と週末は、ヒステリックな怒声が筒抜けで聞こえてきた。つまり毎日だ。彼女と話をするととてもオープンで感じがいいのは、保険会社の営業レディだからというわけでもないだろうが、美しい外見からは想像もつかないキレようである。子供を叱りつけている間、旦那さんの声はまったく聞こえない。操縦不能で黙っているしかないのだろう。結婚前は、美人のハートを射止めた幸運に舞い上がっていたが、彼女が火を噴く怪獣に変身するのは想定外だったに違いない。


 その家には結局、渚沙の都合で半年も住まなかったが、我ながらハイセンスな暮らしを送っていたと思う。

 ラフォーレ原宿の真ん前に住んでいたという話をするとみんな驚く。後に、懐かしんでこの場所を訪れたら、その家はなくなり、大きなファッションビルが建っていた。階下に住んでいた親子はどこに引っ越してしまったのだろう。銭湯も閉鎖されたという。シャンタムとの甘美な思い出が丸ごと消えてしまって少し寂しかった。

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