第19話 過去の家族

 シャンタム・ボランティアセンターは、自分から声をかけなければ誰も話しかけてくれない。会員制度はないし、自由で楽な場所だ。催し、ボランティア活動、何もかも無料で気軽に参加できた。


 センターの建物は、個人宅だという。家主はトラタ共和国出身で、日本に帰化している四十代のアディという小柄な男性だ。ちょびひげを生やし、頭が薄いせいか五十代に見える。ビジネスホテルの経営者で裕福らしく、エレベーター付きの三階建ての自宅で、地下と一階をセンターとして提供していた。以前は地下にプールがあったそうだ。それを改造して事務所と多目的ホールにしている。アディが聖シャンタムの熱心な信奉者であることは間違いないだろう。


 渚沙は、聖歌とボランティア活動に参加するようになった。病院と障害者施設、新宿のホームレスの自立を促すための活動の三種類で、週末や祝日に行われた。渚沙はそれら全てに参加した。家から通うには遠かったので、近場にアパートと職を探した。すぐに見つかり、生活も安定した。

 センターの事務所にいる人たちは、別に自分の職を持っている。ボランティアで何かしらの役割があり、休日や空き時間にセンターで活動していた。新しい人を寄せ付けない壁があったが、ボランティアに参加するうちに事務員ではない四、五人の人と仲良くなった。会社員や、大使館に勤めている女性、モデルをしている子などだ。


 渚沙は恋に落ちていた。聖シャンタムのことを、恋人のように好きになってしまったのだ。シャンタムはもうすぐ七十歳である。その前に好きだった坂田部長が六十歳だったから、さらにひとまわり年上だ。シャンタムは未婚だ。昔から女性とは距離を置いており、そばには男性しかいないらしい。


 しかし、神さまだという聖シャンタムは便利だ。神さまというものは、人間が思えば、いつでもつながってくれるという。シャンタムの写真を見ているだけで確かにそこにいるような感覚があり、渚沙はよく写真のシャンタムに話しかけるようになった。

 不思議なことに写真の表情がわかりやすく変わる。こちらが恋人のように思えば、写真のシャンタムのほうも恋人を見るような眼差しになる。これは妄想か? 渚沙が病気になったのか? いや、そうではないようだ。これは神技かみわざに違いない。写真のシャンタムは生きている。その証拠の一つといえるかもしれない経験がある。

 当時、渚沙はよくシャンタム宛てに手紙を書いた。そして、それをシャンタムの写真の前に置く。すると、悩み事はすぐに解決され、些細な願い事も即叶ったのである。何十という数の手紙を書いたが必ず聞き届けられた。 

 シャンタムの手伝いをしたい。彼はおそらく今の世で最も重要な役割を担っているはずだ。その仕事を何らかの形で手伝えたら本望だ。の心がよみがえり、うずく。その思いは日に日に強まった。


 ある日、聖歌に参加した後、渚沙はセンターでボランティアをしている女性に話しかけた。四十代に見える人の良さそうなその人は溝口安江みぞぐちやすえといった。彼女の職業はフリーライターで、時間のある時にセンターにきて雑務を手伝っているらしい。地下の事務所の枠に自分専用のデスクを所有していた。文章を書くのと英語なら少しできますというと、安江はすぐに近くのデスクの、六十歳くらいの男性のところへ連れていって、何か仕事がないか聞いてくれた。彼は、振り向くと渚沙の額をじっと見つめた。

 変わっている。初対面の人に会うのに、目じゃくてまず見るのが額なのか、この人は……。

「それならこの本、訳してみる? 」

 彼は、渚沙の名前も訊かずにすぐに一冊の洋書を差し出してきた。薄いピンク色の表紙にハスの花がデザインされている。著者はアメリカ人で女性のようだ。

 彼は渚沙の額が気になるらしく話している最中もそちらを凝視している。そうやって渚沙の何かを読み取っているように感じた。

「はい、ありがとうございます。やってみます」

「この本はね、著者が私にプレゼントしてくれたものだから大事にして欲しいんだ」

 裏表紙に著者のものらしきサインがしてあった。元々彼が翻訳するつもりで持っていたものらしい。そんな大事なものを素性もわからない、初めて会った人に渡してしまうとは。渚沙の額に記されていた何かが彼を動かしたように感じた。彼はシャンタムの講話の記録が書籍になったものを日本語に訳していた。すでに十冊以上の本が出版されていた。


 渚沙は毎週、聖歌やボランティア活動でセンターに顔を出していたので安江とはよく話をするようになった。翻訳家の彼は既婚者で、安江は独身である。仲はいいが、ただのボランティア仲間でしかない。しかし、二人は前生で夫婦だったことがあると互いに認識しているという。

 渚沙はこの二人のことをなんとなく親のように感じていて、そのことを一年くらいしてから安江に話した。特に深い意味はなかったのだが、渚沙と初めて会った日、二人共渚沙のことを「あの子は私たちの子だったね」と認識したという。不思議な人たちがいるものだ。複数の人たちが自分の過去を覚えていて、互いに当時の関係を確認できるとは。安江とは親子ほどは年が離れていないはずだが、会えば母親のように感じるし、安江も渚沙のことを娘のように可愛がり気に掛けてくれる。


 渚沙は失恋後に、達也のことを息子のように大切に思っていたことに気づいたが、もしかしてそういった過去が本当にあったのかもしれない。

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