第17話 未知の国の人 その2

「あの本は読んだか」

本を借りてから数日後、上司が笑顔で訊いてきた。

「まだです」渚沙も笑顔で返す。

 二、三日すると、また訊いてきた。奇妙なことがあるものだ。それまで何度も本を勧められたが、読んだかどうかたしかめられことは一度もない。渚沙がいいえと正直に答えても彼は嫌な顔ひとつしないので最初は気にならなかったが、四回目にとうとう降参した。


 帰寮すると、本棚に入れっぱなしだった問題の書を手に取った。ごくシンプルな白い表紙で、難解な題名が記されている。読む気がしなかったのは題名のせいもある。理系の本らしい。父は渚沙に理数系の学科に進ませたかったのだが、残念ながら渚沙が得意とするのは文系や音楽、芸術の方面だ。そちらの成績はいつも良かったが、理数系の頭は持ち合わせていない。挿絵があれば少しくらいは気が進むものだが……。


 面倒臭いと思いながら読み始めたら、題名からはとても想像できない思いがけない内容だった。発展途上国であるトラタ共和国に行った科学者が自分の体験を綴った、たいへん興味深い本で読み出したら止まらなかった。著者は、といわれる聖シャンタムという聖人に会いに行くのだが……。

 渚沙は首をかしげた。『神の生まれ変わり』とはなんだろう? だいたい『神』とかいうものは存在しないはずだ。子供の頃、土曜の夕方に、テレビで『日本昔ばなし』を欠かさず見ていたが、時々出て来る『神さま』という存在は、子供に善悪を教えるために大人が作った話の登場人物でしかないはずだ。『サンタクロース』とあまり変わらない。

 それだけが不明だったが、聖シャンタムという人は、普通の人間とは違う特別な存在であり、世のため、人のために生きている純粋な人物なのだと信じられた。著者である科学者は、自身で見たもの、聞いたこと、感情、疑問を正直に書いていると感じた。


 シャンタムのような人が今の世にいるとは救いだ。なんてありがたいのだろう。勤めていた会社のことですっかり絶望していたが、まだ世の中捨てたものじゃない。単純にとても嬉しい――ただし自分とは無縁だが。


 本の終わりに差し掛かった頃、シャンタムが自分の死期を告げているという一文があった。今はまだ六十代後半で、寿命がくるのは二十年以上も先らしい。次の瞬間、渚沙は自分の右の頰を伝う温かなものに気づいた。涙だ。おかしなことがあるものだ。会ったこともない人の死の予告を聞いてもちっとも悲しくないのに、何故涙が出るのだろうか。それもたった一粒だけ。


 読み終えるとすぐ彼に本を返した。

「どうだった? 」彼がすかさず聞いてきた。

「良かったです」つまらない返答をしたが他に話すことは思いつかない。

「だろ」彼のほうも彼だ。会話はそれで終わり、以後その本について何もいってこなかった。

 そんなことだから、渚沙は、聖シャンタムもろとも本の存在を忘れてしまったのである。だいたいトラタ共和国とはどんな国なのか。写真も、テレビで見たこともない。もしかしたら、ちらりと学校の教科書やテレビの映像で目にしたことがあるのかもしれないが、まったく記憶にない。高校生の時に、トラタ共和国に行ってみたいという友達が一人いて、変な子だと思ったのを思い出した。もしかして地球にない国ではないのかと疑うほど無縁すぎる。聖シャンタムは素晴らしい人物でも、未知の国にいるゆえに渚沙とは全然関係のない遠い存在だった。


 そのトラタ共和国に、聖シャンタムに会いに行こうと蒲田かまたより子が誘ってきたことで、いきなり現実味が湧いて嬉しくなり「はい」と口にしていたのだ。相変わらず『神の生まれ変わり』については理解できないが、聖シャンタムはとにかくそれであり、科学者の本によれば、今の地球にとって大事な仕事をしている人物なのだ。しかも純粋に無償の奉仕だという。そのような人に会えるのであれば、是非会ってみたい。その好機を逃す手はない。

 大きな人間不信に陥り、懐疑的、しかも重症な鬱状態で、何故渚沙が聖シャンタムを受け入れられたのかはわからない。彼はある種のリーダーといえるはずだが、『リーダー』の類には、最近日本で起こったばかりのカルト事件と、辞めた会社の一件で、拒否反応が出ていたというのにどうしたことだろう。


 電話を切る前にどうしても気になって、蒲田より子に尋ねた。

「何故私を誘ったのですか」

「なんとなくあなたを誘わなくちゃいけないと思ったの」


 彼女は自宅の階下でスナックを経営しているが、ごく普通の主婦だ。娘が二人いて、孫もいる。ただ、より子には霊感があるらしく、聖シャンタムが家に現れ、トラタ共和国に呼ばれていると感じたそうだ。だが、渚沙のことは霊感とは関係なく誘ったらしい。彼女にとっても、トラタ共和国に行くのは初めてのことで、着物作家の展覧会に来ていた他の人には声をかけていないという。運命というものは、不思議な何かによって、あの人とこの人、あそことここ、というふうに特定の誰かを特定の場所へ、最初からちゃんと決まっていたかのように引っ張っていくのかもしれない。

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