第2章 分水嶺の旅

第16話 未知の国の人 その1

 どこのチャンネルを回しても、連日カルト団体が都内で起こしたテロ事件のニュースばかりだ。渚沙は、相変わらず外出できないので、テレビにクギ付けである。辞めた会社のことでうつに陥っていたのに、余計に悪化させる行為を続けていたのだ。

 その上、同期や先輩たちからは電話や手紙が来る。彼らからの電話には出たくないので自分では絶対に電話は取らず、母が取った時は断ってもらった。手紙の返信もできない。仲の良かった同僚たちへの同情心と罪悪感も手伝って、鬱が改善することはなかった。


 ある日、蒲田かまたより子という女性から電話があった。渚沙の母より少し年上だ。岐阜の人だ。

 渚沙は、一ヶ月前に一度だけ外出し、京都に出掛けた。高校生の時に着付けの師範である母のつてで知り合った年配の着物作家から、展示会に招待されたからだ。渚沙は彼のことを人生の教師のように慕っていた。この時、旅費と宿泊代まで出してくれた。

 展示場の作品を見て回り、一時間ほど楽しんだ後、着物作家は五、六人の客だけを別室に呼んでお茶と菓子を出してくれた。蒲田より子はそこにいた客の一人だ。言葉を交わす暇はなかった。新幹線に乗る時間が迫っていたので、五分もしないうちに帰ってしまったのである。彼女と連絡先だけ交換したことを思い出した。


「渚沙さん! 私、に行くの。に会いに行くんだけど、あなたも一緒に行かない?」蒲田より子は電話越しにいきなりこういった。

「行きます」渚沙は間髪入れずに返事をしていた。不思議なことに、渚沙の心を重く包み込んでいた黒い霧が瞬時にして晴れたのを感じた。


――聖シャンタム。すっかり忘れていた。自分とは縁がないと思っていた遥か遠い国にいる人物だ。

 半年前のこと。まだ勤めていた渚沙は、隣の部署の上司から、一冊の本を勧められた。またかと思った。本の虫である知的な彼は渚沙より十五歳くらい年上で、ちょくちょく声をかけてきては可愛がってくれるが、興味のない本ばかり勧めてくる。だいたい、本自体に興味がないのだ。

 渚沙は、昔は本好きで、町や学校の図書館で本をどっさり借りて来た。小学校低学年の頃は可愛らしいお化けのシリーズ本、高学年になるとミステリ小説や探偵物を好んで読んでいた。だが読書は高校を卒業する頃には一切興味を失い、若い女性向けの雑誌も短大一年の頃には買わなくなって、図書館にも本屋にも足を運ばなくなった。主な理由は、作り話に魅力を感じなくなったからだ。ノンフィクションでも自分からわざわざ求めて読みたいと思うテーマはなかった。それで彼から、あれこれの本を勧められると、ちょっと苦笑しながら「はい」と答えるものの一度も読んだ試しがない。


 最後に勧めてくれた本の時は、何故か彼の態度が違った。なんと彼は、本を差し出して読めといってきたのだ。貸してくれるらしい。初めてだ。いつもは自分で買えと言わんばかりに、本の表紙を自分の胸の辺りにかかげて見せるだけなのだが。この本だけはよほど読んで欲しいらしい。渚沙は仕方なく本を借りることにした。寮に持ち帰るとすぐに自室の本棚に入れた。読む気はさらさらなかった。

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