第15話 監視 その2

――会社が、女子寮がおかしい。組織内で何かが狂っているのはある女のせいだ。彼女は社長秘書のひとりで、ホステスのような顔をしており、他の素朴な雰囲気の女子社員とは異質な存在だ。厳しい社風と寮生活に縛られる中、あの女だけ好き勝手に振る舞い、いろいろ楽しんでいるのが疑問でならない。気がついている人は少ないが、みんなが彼女に振り回されて長年苦しんでいるのだ。


 女は、多数いる社長秘書のひとりだ。社長秘書は十人以上いて、男性がリーダーである。彼も含めて男性は二人、あとは全員女性で例の女はその中で最年長の二十八歳だ。

 彼女と同期の女性が一人だけおり、そちらは女子寮の寮長を務めている。女子寮は独身専用で都内と郊外の二箇所に分かれており、都内の寮では社長の女秘書がリーダー的存在であるにもかかわらず、寮長には後輩が就任していた。女秘書が門限を守らず、全員が出席すべき集会に頻繁に欠席するからだろう。にもかかわらず、この女が実権を握り、すべてを自分の都合のいいように決めているのだ。それで、もう一方の寮にも職場にさえも悪影響を与えていた。


 本社の社長室は最上階にあり、そこに何があるのか、どんな仕事をしているのかは秘書たちしか知らない。他の秘書たちは大きな行事がある時以外は全員門限を守り、寮の夜の集会にも必ず参加している。重要な業務はふたりの男性秘書が行なっているのため、古株とはいえ、この女秘書が度々門限に遅れるほどの仕事をしているとは思えない。

 女の行いを問題視した渚沙は、署名を集めることにした。喜んで署名してくれた人が多い中、意外な人間が保守派であることが判明した。人柄がよく、いつもにこやかなのに、署名をお願いすると首を小さく左右に振り表情が固まってしまったのである。動き出して間もなく奇妙な空気を感じ取った。誰かが上層部に報告し、署名集めを止めようと試みているらしい。それで渚沙は気づいた。署名はこの会社では無意味だと。渚沙は馬鹿馬鹿しくなって署名集めを放棄した。


 翌日から、タヌキの総務部長と、老ギツネの代表執行役が渚沙を監視かんしするようになった。奇妙だ。ただの女子社員が別の平社員に関する署名運動をしたことを問題視しているらしい。あの女秘書だって若手女子社員の中で最年長であるだけだ。秘書として特別有能というわけでも、他にひいでた才能があるわけでもない。

 老ギツネの代表執行役はもともと渚沙がいる秘書室にいるが、総務部は一つ下のフロアーにあるのでタヌキの部長は階下からわざわざやって来る。そして、二人で突っ立ったまま時折渚沙の方に顔を向け、神妙な顔つきで話し込んでいるのだ。いつも朝から終業時間までマネキンのように座ったままの老ギツネが、フロアーのど真ん中に立っているのは新鮮な光景だ。雰囲気は悪かったが。


 上司に辞職願いを出してから一週間後、突然タヌキの総務部長から呼び出された。総務は人事の管理もしているので、上司から報告を受けたのだろう。総務部のフロアーにある会議室で待っていると、タヌキはすぐにやって来た。

「あなた、なんで辞めるの?」ドアを閉めて一息つくと、タヌキは渚沙を射抜いぬくような鋭い眼光でにらみつけてきた。

 タヌキのこんな悪人面あくにんづらを見たのは初めてだ。

「仕事にきたからです」渚沙はわざとらしく答えた。

 

 たかが入社三年目の女子社員が辞めるからといってこの男がしゃしゃり出てきて、詰問きつもんすることはまずない。彼の直属の部下だったら別だが。渚沙は病んだ会社を侮辱したつもりだった。多くの社員がこの会社に勤めることを誇りに思っているし、社外の人間からも羨望されている。仕事に飽きたという言葉は発する社員はいるはずがない、いても絶対に口にしてはならない空気がある。

 タヌキには、渚沙の答えが嘘だとわかっていただろう。渚沙が辞める本当の理由を知っているに違いない。内部に広まり、外部にれでもしたら非常にまずい理由だ。


 渚沙が一番驚いたのは、タヌキが本性を現したことである。彼はいつもおとなしく、わずかに笑みをたたえ穏やかな顔つきをしているので、社内で『ほとけの総務部長』と呼ばれてきた。素顔を見たのは、おそらく渚沙だけではないだろうか。普段見せていた温和な顔は、人間味があって魅力がある。みんなから愛称で呼ばれていたのはその温かな雰囲気に好感を持てたからだ。しかし、本性を表した顔はただ醜かった。性格まで露見させていた。


 帰宅途中、車内でいくつかの社の秘密を渚沙に明かした上司は、問題の秘書は社長と男女関係にあると渚沙に教えたのだ。

「社長も坂田部長も、若い時に遊んでないからそうなるんだよ」

 そういい切る上司には、なかなかきれいで従順な奥さんと小さな男の子が一人いる。家庭は大事にしているようだから、昔は遊んでいたということか……。全ての男性に該当するかはわからないが、一理あるだろう。そういう男は渚沙とは無関係なことはたしかだが。


 社長を敬慕していた渚沙は、次々と秘密を明かす上司の前で平静を装っていたがじつは酷いショックを受けていた。帰寮して自分の部屋に入ると、ベッドに顔を押し付けて悲痛な声をあげて泣いた。その日はたまたま渚沙が一番に帰寮し、他に誰もいなかったので遠慮しなかった。いい大人になってこんな泣き方をするとは予測していなかった。渚沙は、世間知らず過ぎた自分に同情した。

 泣いているうちに、社長への敬慕がみるみる嫌悪感と憎しみに変わった。坂田部長の不倫など比較にならないほど重大だ。別の企業なら普通にあることでも、ここは少し違うから渚沙は就職を希望したのに。

 社長はモラルにはとても厳しい人で社風も伝統的にそういった傾向にあった。だから社内不倫をする者はいなかった――坂田部長を除いてだが。それを壊していたのは社長本人だというから信義しんぎにもとる。社長と秘書の不倫は、財政問題、業務管理にまで影響を及ぼしていた。百万単位の顧客を裏切っていたことになる。政界の主要人物、首相や大臣たちとも交流がある。外に漏れればちょっとしたスキャンダルになって社会的信用を失い、顧客も激減するだろう。


 直属の上司は渚沙の勇気を讃え、入社時の裏事情を教えてくれた。重役たちが、学業の成績が優秀だった渚沙の配属を求めたにもかかわらず、タヌキの総務部長が、渚沙を社の核である重役秘書室に配属することを反対したというのだ。

「あの子はいつか何かやらかす」そうタヌキは予言したという。

 タヌキめ。さすがフジ銀行の人事部長だっただけある。その能力を良いほうに生かせないのだろうか。タヌキは、限られた者しか同席できない最重要会議に呼ばれ、社長に意見をいえる数少ない人間だ。社にとってプラスになる逸材として引き抜かれたはずなのに、正しいアドバイスはできなかったのだろうか。世の中には、人より優れた能力に恵まれながら、悪用する人が多いがこれはいい例だろう。タヌキは、間違いなく組織と日本社会の癌を増殖させるマイナス要素だ。闇をさらに暗く、地獄に変えるために地の底から派遣された男なのだろう。

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