第14話 監視 その1

 渚沙が退職して一ヶ月後、地下鉄サリン事件が起きた。前代未聞の無差別テロ事件が日本と世界を震撼しんかんさせた。社の関係者たちに会うのを避けるために外出できずに渚沙がやることと言えば、テレビで昼のドラマかニュースを見るくらいで、連日サリン事件の報道ばかりが続いて気が滅入る。

 事件で注目されていたカルト教団の幹部の男が、公然とカメラの前で刺された場面に、渚沙はショックを受けた。そのまま亡くなるとは思っていなかった。彼は悪人にはまったく見えなかったのに……。洗脳されて、良いと思っていたことを懸命にやっていただけなのだろう。渚沙は、この幹部の男にいささか過剰に情が移り、その死を深くいたんだ。お陰でうつ気味だったのが悪化した。


 上に立つ人間が悪人だと社会は崩壊する。知らぬ間に犠牲になるのはその下で働く部下や社員、信者たちである。渚沙が退職した理由もそうだった。会社でも宗教でもなんでもいい、今の世に存在する組織には善良なリーダーがいない――渚沙の目には、世の中が絶望的で文字通り灰色に映っていた。


 ある日、社で親しくしていた先輩から手紙が届いた。

「あなたが辞めたことで、いろいろな憶測が飛び交っているよ」

 その一文を読んで、自分の目論見もくろみが成就したのを渚沙は知った。意図的に、二人の上司以外誰にも何も言わずに突然退職し、同僚に対する無言のメッセージを残しておいたのである。結果を知り、少しだけ救われた気持ちになった。昔から不満を持っていた上司や先輩、薄々企業の闇を感じていた古株がわずかにいたので、渚沙が会社を辞めた理由は、噂となってある程度知れ渡ったはずだ。 

 直属の上司は、渚沙が突然退職したことを気にする顧客たちに、渚沙には近づかないようにいったらしい。最後の最後に、自分の上司が重役秘書室で一番まともだと思ったが、これにはがっかりした。結局上層部は、くさい物にふたをする意気地なしなのだ。

 渚沙は副部長からお願いされ、退職を三ヶ月も延期していた。本当はすぐさま会社と縁を切りたかったが、部下が勝手な辞め方をすると社長からお叱りを受けるというのだ。社長のことは腹立たしいが、世話になった上司たちの顔をつぶすわけにはいかない。せめて寮から出たくて、自宅通勤に切り替えさせてもらった。会社から騙されている同僚たちの顔がとても見られなかったのだ。

 自宅からだとバスと電車を乗り継ぎ、片道二時間かかる。それでも寮にいるより何倍もましだ。心が最大限に会社に行くことを拒否しているせいで、体がなまりのように重い。まるで重労働者のような感覚で通勤していた。


 場所が変わっても渚沙は相変わらず一番電車に乗っていた。

 ある朝、バスを降りて駅に着き、改札に向かって歩いている時ぐらぐらと少しの間体が揺れた気がした。目眩めまいだろうか。その日の昼休み、関西方面で大きな地震があったと社員たちが騒いでいた。阪神淡路大震災であった。朝、改札で揺れを感じた時刻とほぼ一致する。あんなに遠く離れているのに、関東にいる人間に体感させたのだ。

 その大地震の二ヶ月後に大規模な同時多発テロ事件に襲われるとは。日本がとんでもない不運に見舞われ続けている。渚沙の父親は通勤で千代田線や日比谷線を利用しており、一歩間違えれば事件に巻き込まれた可能性があったと話していた。渚沙も少し前まで同じ線を利用していたのだ。


 あの人たち。まさかうちの近くまできて監視していないよね――渚沙は、総務部長の顔を思い出して気分が悪くなった。背が低く、白髪頭は人より大きく重たそうだ。お腹の部分が目立ってタヌキのような体型をしている。

 総務部長とたまにつるんでいる、重役秘書室の代表執行役の顔もおまけでついてきた。そちらは、せて年老いたキツネにたとえられる外見だ。年齢は八十歳前後。あの暇な老人は、朝、新聞を読むことしかせず、他には何の仕事もしない。一日中自分の席に座り、ぼーっとしている。たまに書類に捺印なついんするが、それも月に一、二度、あるかないかくらいだ。

 老ギツネは早朝、かなり早い定刻に出勤する。まず渚沙が机に置いた朝刊に目を通す。早々に読み終えて脇に寄せてしまい、秘書室で誰よりも大きな机上にはお茶と灰皿しか載っておらずいつもスッキリしている。縦にたくさん筋の入った細い首は簡単に折れそうに見えるが、見た目の割に、体は丈夫なようだ。運動を心がけ健康に気遣ってきたのだろう。出勤時と退勤時には背筋をピンと伸ばし、颯爽さっそうとした姿で歩く。社長に呼ばれる時も、突然動きが機敏になる。意識もしっかりしているので、何もせず机に着席している八時間近くの間、何か有益なことを考えているのだろうか。渚沙だったら死ぬ。仕事がなかったら退屈すぎて死ぬ。

 にもかかわらず、老ギツネはとんでもない額の給料をもらっているようだ。こちらは毎日三時間しか寝ておらず、自分の時間も持てないくらい多忙なのに、信じがたい安月給である。給料を半分よこしてほしい。キツネは天下りで、昔もどこかの組織の重役だったようだ。頭が切れそうだし、エリートだったに違いない。

 タヌキの総務部長もそうだ。以前、合併して名称が変わってしまったが元フジ銀行本店の人事部長であった。ただ代表執行役のキツネとは異なり、総務部に行くとタヌキが机でぼーっとしていることはなく、いつもたくさんの書類が机上に積まれていて何かしらの仕事をしているように見えた。

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