第14話 監視 その1
渚沙が退職して一ヶ月後、地下鉄サリン事件が起きた。前代未聞の無差別テロ事件が日本と世界を
事件で注目されていたカルト教団の幹部の男が、公然とカメラの前で刺された場面に、渚沙はショックを受けた。そのまま亡くなるとは思っていなかった。彼は悪人にはまったく見えなかったのに……。洗脳されて、良いと思っていたことを懸命にやっていただけなのだろう。渚沙は、この幹部の男にいささか過剰に情が移り、その死を深く
上に立つ人間が悪人だと社会は崩壊する。知らぬ間に犠牲になるのはその下で働く部下や社員、信者たちである。渚沙が退職した理由もそうだった。会社でも宗教でもなんでもいい、今の世に存在する組織には善良なリーダーがいない――渚沙の目には、世の中が絶望的で文字通り灰色に映っていた。
ある日、社で親しくしていた先輩から手紙が届いた。
「あなたが辞めたことで、いろいろな憶測が飛び交っているよ」
その一文を読んで、自分の
直属の上司は、渚沙が突然退職したことを気にする顧客たちに、渚沙には近づかないようにいったらしい。最後の最後に、自分の上司が重役秘書室で一番まともだと思ったが、これにはがっかりした。結局上層部は、
渚沙は副部長からお願いされ、退職を三ヶ月も延期していた。本当はすぐさま会社と縁を切りたかったが、部下が勝手な辞め方をすると社長からお叱りを受けるというのだ。社長のことは腹立たしいが、世話になった上司たちの顔を
自宅からだとバスと電車を乗り継ぎ、片道二時間かかる。それでも寮にいるより何倍もましだ。心が最大限に会社に行くことを拒否しているせいで、体が
場所が変わっても渚沙は相変わらず一番電車に乗っていた。
ある朝、バスを降りて駅に着き、改札に向かって歩いている時ぐらぐらと少しの間体が揺れた気がした。
その大地震の二ヶ月後に大規模な同時多発テロ事件に襲われるとは。日本がとんでもない不運に見舞われ続けている。渚沙の父親は通勤で千代田線や日比谷線を利用しており、一歩間違えれば事件に巻き込まれた可能性があったと話していた。渚沙も少し前まで同じ線を利用していたのだ。
あの人たち。まさか
総務部長とたまにつるんでいる、重役秘書室の代表執行役の顔もおまけでついてきた。そちらは、
老ギツネは早朝、かなり早い定刻に出勤する。まず渚沙が机に置いた朝刊に目を通す。早々に読み終えて脇に寄せてしまい、秘書室で誰よりも大きな机上にはお茶と灰皿しか載っておらずいつもスッキリしている。縦にたくさん筋の入った細い首は簡単に折れそうに見えるが、見た目の割に、体は丈夫なようだ。運動を心がけ健康に気遣ってきたのだろう。出勤時と退勤時には背筋をピンと伸ばし、
にもかかわらず、老ギツネはとんでもない額の給料をもらっているようだ。こちらは毎日三時間しか寝ておらず、自分の時間も持てないくらい多忙なのに、信じがたい安月給である。給料を半分よこしてほしい。キツネは天下りで、昔もどこかの組織の重役だったようだ。頭が切れそうだし、エリートだったに違いない。
タヌキの総務部長もそうだ。以前、合併して名称が変わってしまったが元フジ銀行本店の人事部長であった。ただ代表執行役のキツネとは異なり、総務部に行くとタヌキが机でぼーっとしていることはなく、いつもたくさんの書類が机上に積まれていて何かしらの仕事をしているように見えた。
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