第13話 瞬時で消えた愛念
禁断の思いゆえ、意図的に好意を表に出したことはない。そういうつもりがなくても、好意や敬意は自然に相手に伝わることはあるだろう。
いつの頃からか、坂田部長が渚沙に対し、以前とは異なる関心を持っていることに気づいた。日帰りの社員旅行で、部長がさりげなく渚沙に寄り添ってきたことでより確かなものになった。嬉しくて身も心もふわりと天に昇るような感覚がした。これくらいささやかな幸せを味わうのは許されるだろう……。部長はそれ以降何もしてこなかったし、渚沙のほうもさらなるアプローチを待ったりしなかった。不倫だからだ。
その後渚沙は、職場での部長の視線にストレスを募らせた。少しこわいとさえ感じた。渚沙が恐れながらお茶を出したり、挨拶に行ったりすると、部長はあからさまに不機嫌な顔をした。彼は何かを期待しているのだろうか。渚沙は、お
『妻子持ちのあなたを好きになってしまったのは仕方ありませんが、スーパーモラルな女だから今後何も起こりません。それだけは自信を持っていえます』というのが渚沙の正直な気持ちだ。
自分の思いを抑制するのに苦労して、渚沙はよく体調を崩した。特に重度の腰痛や生理不順に悩まされた。お陰で初めて産婦人科に行く羽目になった。もちろん、女医しかいないところを選んだ。残酷で痛い経験だった。あの診察は強姦に匹敵しないか。あれで処女を失ったとはいえないか、と何度も真剣に考えた。
就職三年目の秋。同じ重役秘書室の四十代の上司と帰宅電車が一緒になった。ラッシュ時の少し前だったので、席を二人分確保できた。
「間違ってることを、間違ってるってちゃんということは正しいよ」上司は腰を下ろすといきなりそういった。
半ば興奮気味だ。何に関することかは上司は言及しない。そして
上司は、あの坂田部長が受付の女に手を出したといったのだ。部長は外部でもちょっとした有名人なので、これが知れたら大変な問題になってしまう。受付の女は先輩だが、高卒で入社しており渚沙と同じ年だ。部長のデスクに一番頻繁に足を運んでいた社員である。そういえば最近、まったく彼女の姿を見かけない。
いつのことだったか、ある土曜日の終業後、会社の門を出ると、坂田部長と例の彼女が和やかに談笑しながら神田方面に歩いていくのを目にしたことがある。重役秘書室の部長クラスの人間と、しかも他部署の社員が個人的に行動を共にするとは前代未聞だ。彼女の押しの強さに負けたのだろう。それは、渚沙から見て純粋に微笑ましい光景だった。昼時だったので、部下として上司に相談事に乗ってもらうために食事に行くのだと、渚沙は信じて疑わなかった。自分もあと数年勤めれば、そのような機会に恵まれるかもしれないと希望さえ持った。
本当はあの日、二人はホテルに行ったのかもしれない。そういうデートを重ねているうちに親密な仲になったのかもしれない。職場付近の神田方面にはいくつかの高級ホテルがある。週末にホテルのレストランで昼食をし、そのまま部屋をとって……といったことはあっておかしくない。
しばらくして、彼女が朝礼で突然退職の挨拶をした。その表情と口調には怒りが込められていた。女子社員はたいてい
秘密を教えてくれた上司によれば、彼女は処女だったようだ。
「化粧が急に濃くなっただろ。男を知らなきゃあんな顔にはならないんだよ」
「はあ、そうなんですか……」
まったく新しい知識に少し戸惑う。いわれてみればそうかもしれない。最近、頬紅の濃さと目の当たりの化粧がやけに色っぽい。前はそんな化粧はしていなかった。
しかし、よく見ているものだ。男はみんなそうなのだろうか。上司には、渚沙が処女であることも見透かされていたに違いない。
受付の彼女は九州の田舎町出身で、高校を卒業して上京し、就職と同時に会社の女子寮に入った。なかなか忙しい部署にいたし、自由時間もほとんどないから、恋愛の機会には恵まれない。それはみんな同じだった。渚沙も含め、睡眠時間は毎日平均三時間。土日も半日は仕事をしていた。若いからそんな無茶な生活ができたのだろう。営業で出会いはあっても、なかなかデートもできないので社内恋愛くらいしか望めないのだが、社内の未婚男性は
若い女に何度も誘惑され、部長も結局男だから拒まなかったのだろう。しかし、いただいてしまったお菓子にはすぐに関心をなくし、興味はよそへ――おそらく渚沙に移っていたと想像できる。彼女はそのことを知らずに辞めていったはずだ。彼女を社内で見かけたり、すれ違ったりすることはあったが、渚沙のことは眼中にない様子だった。もし渚沙がいなければ、部長と彼女の関係は続いていた可能性があるが、渚沙に罪悪感はない。部長も悪いが、あの女は部長の人生に汚点を残し、家庭を壊すようなことをしておいて、少しも悪びれた様子が伺えない。自分のことしか考えていないのは、退職時の態度を見れば一目瞭然である。彼女と同年齢であることを恥ずかしく感じた。
渚沙は部長への想いが瞬時に消えてしまったことに、自分で驚いていた。部下たちの相談に乗り、説教めいた話をするくせに、妻や家族を裏切る理性のない平凡な男に魅力はない。いくらいい寄られたからといって、乙女の処女をいただいておいてゴミのように使い捨てる態度も大人気ない。
じつはあの時車内で、坂田部長の不倫発覚よりもっと衝撃的な社の秘密を上司から明かされたのだ。信頼していた社の内情は修正が効かないほど腐敗していた。渚沙は、お茶汲みや出張管理といった秘書業務や営業だけを行なっていたのではない。それも好きだったが、渚沙の文章力、その他の能力を発掘してくれた部署内外の上司たちから、面白くてやりがいのある仕事を折々にもらっていた。渚沙にとっては、恋より会社のほうが何倍も重要であり、不義な男に、三年近くも体を壊すほど恋い
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