第12話 愛しの部長

 渚沙が結婚相手の最終候補だった取引先の彼を好きになれなかったのは、じつはある人をずっと思っていたからだ。

 隣の部署の坂田部長である。重役秘書室は三つの部署に別れているが、衝立ついたてがないので毎日彼の姿を目にできる。席の位置も五メートルくらいしか離れていない。

 自分好みの素敵な人が複数いて、毎日会える相手と、年に二、三回しか会えない相手では恋愛力に大きな差が出てしまう。取引先の彼に勝ち目はなかった。異性としての魅力、質、中身も負けていると思えた。


 坂田部長は妻子持ちで六十歳という熟年者だが、彼に憧れていたのは渚沙だけではない。社の若い女という女が――おそらく八割近くの女子社員が彼に首ったけのようだ。そのくせ浮いた話は皆無なのだ。誰とでも寝る男を一番軽蔑する渚沙には、そこが最高に魅力的に映る。

 坂田部長の背は平均より低いが、しぶくて、清潔感と気品がある。ちょっと強面こわおもてで近づき難い。実際に厳しいが愛情深い。そのため、個人的な相談に乗ってもらおうと、男女関係なく社員たちに頼られているのだ。

 彼らは昼の休み時間や終業後を狙って部長のデスクにやって来る。叱責されたり、説教に発展することもよくあったが、めげずに足を運ぶ。圧倒的に若い女が多い。表情を見ている限り、彼女たちの真の目的は異なるようだ。

 社に入りたての身である渚沙は、坂田部長に何かを相談しようと思ったことは一度もない。色仕掛けしたこともない。三年目を迎えて、初めて後輩ができても渚沙の控えめな姿勢は変わらなかった。しかしながら、部長とはわずかに接する機会が毎日あった。

 

 渚沙は毎朝、朝食をかき込むと、寮を誰よりも早く飛び出し一番電車に乗る。これを真似できる者は滅多にいない。後輩は、渚沙に申し訳ないと頑張っていたが無理だった。一度成功しても続かない。上下関係が厳しい環境で、渚沙は全然気にしなくていいからと後輩に寛大だったのは、誰もいない職場の掃除をし、早く出勤する上司たちにお茶を出すのが好きだからだ。

 隣の部署とはつながりが強く、坂田部長には挨拶をしに行く習慣があり、先輩たちからそうしつけられていた。部長にお茶を出す機会もよくあった。

 坂田部長は、渚沙がお茶を出すと、必ず顔をほころばせて他では見せない笑みを浮かべ「ありがとう」という。娘を見ているような表情だ。渚沙にとって幸せの絶頂の瞬間である。それだけで満足していた。部長と特別な関係になろうなどと思ったことは一度もない。渚沙は、他人のものを奪い、人の家庭を壊す人間には絶対になりたくないのだ。


 職場に慣れると、先輩が余計なことを教えてくれる。ある日、女の園である給湯室で、重役秘書室のおつぼね秘書が渚沙にいった。

「坂田部長、ちょっとなのよ」

 って……。生まれて初めて聞いた言葉だが意味はわかった。やらしいとか、変態、好き者、好色家というところか。

宇佐美うさみ先輩、もう少しで危なかったんだから」お局が続けた。

 もう一人の先輩も加わってきて、そうなんですよねとうなずいている。

 元の話題が何だったのかは覚えていないが、という言葉がやけにインパクトが強くて忘れられない。部長はいつもお堅い感じで、自分から社員に絶対近づかないので想像できないが、手をかけられそうになった女子社員がいるらしい。

――で、いったいどんなふうに危なかったのか? どういうシチュエーションでそんなことが起こり得るのだろうか。

 渚沙は少し気になったがけなかった。遠慮せずに訊いておけばよかったと今になって思う。


 その宇佐美という女性は、渚沙の入社前に寿ことぶき退職しているが、坂田部長の直属の部下だったという。重役秘書室長の部長は組織内でも特別な存在だ。社員が部長のデスクにやって来て相談に乗ってもらえても――それもかなり勇気がいることなのだが――プライベートに接することが可能のは通常同じ部署の人たちだけで、しかも年に一度の忘年会だけだ。何かあったとすればその時かもしれない。それしか思い浮かばないのだ。

 いずれにしろあまり現実味がない。お局秘書も、もう一人の先輩も笑顔で話していたし、それほど深刻な状況ではなかったのだろう。渚沙は軽く受けとめていた。

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