第11話 彼は千人に一人の男性か
千人に一人、いや、万に一人の男性が渚沙の前に現れた。男嫌いの渚沙が、この人なら結婚してもいいかもしれないと思ったのだ。青天の
入社してほどなく、取引先で好感の持てる男性に出会った。彼は渚沙より四つ年上で、明るくて誠実で、絵に描いたような爽やかなスポーツマンである。仕事もできるらしい。外見も男らしくてなかなか素敵だ。もちろんイケメンホストのようなタイプではない。自衛官、警察官というイメージがぴったりくる。
渚沙は学生時代に、父親みたいな人と結婚したいと思っていた。父親は西洋人のような容貌で、なかなかハンサムだ。性格は真面目で頑固な亭主関白だが、ユーモアもけっこうある。取引先の彼は真面目すぎてちょっとつまらない気がした。
たまに社内で見かけると互いに挨拶していたので、雑談をするようになり、実家が近いことがわかった。なんと親同士が顔見知りだった。バレンタインデーに軽い気持ちでチョコレートを渡したら、普通に喜んでいた。たまたま会ったついでに二度食事に付き合った。といっても、色気もなく駅前の吉野家だったしデートではない。それ以来会う機会がほとんどなくなり、恋愛には発展しなかった。渚沙は特に彼のことを好きではなかったが、誰もいなかった場合の結婚相手の最終候補として密かに脳内保存しておいた。
一方、彼の渚沙に対する思いはだいぶ違ったようだ。ずっと後になって渚沙の実家に手紙が届いて知るのだが、彼は、妻は渚沙しかいないと思いつめ、一人で燃え上がっていたのである。内容が重すぎで返信できなかった。渚沙の気持ちを尋ねるとか、交際を申し込んできて返事が欲しいという手紙ではなく、必ずあなたにふさわしい人になって迎えにいくで終わっていたのである。一方的すぎる。
数年後にまた手紙が届き、別の誰かと結婚するからあなたとは友達のままでいますと報告してきた。よりいっそう一方的な内容になっているではないか。渚沙は彼の恋人でもなければ友達だった記憶もない。実際にはただの顔見知り、知り合いの域を超えていない関係だ。文面から、最後の最後に試されている気がした。
『待って。じつは私もあなたのことが好きだったのです。結婚するなら私と……』という反応を期待していたのだろうか。いずれにしろ、あまりにも独りよがりな内容で、今度こそ本当に返信できなかった。最初の手紙で今の自分にはその気がないことを伝えておいてもよかったのだが、結婚相手の最終候補として捨て切れなかったのもある。そのまま忘れてもらって全然かまわなかった。それにしても、顔を見る機会もなく、手紙を出しても相手が無反応だったら脈なしだと諦めるのが普通だろう。恋愛にあまり慣れていない不器用な人だとわかった。渚沙も人のことはいえない――告白できない、断ることも、別れを告げることもできない。対照的だが渚沙も彼と同じ恋愛下手なのだ。
その手紙が届く前のこと。ある日、同僚がにやつきながら、応接室に落ちていたという小さな紙を渡してきた。渚沙宛で、一番下に彼の名が記されている。ノートかメモ用紙から少し雑に切り取ったような紙切れに、『あとで会いましょう』とあまりきれいとはいえない字で書かれていた。渚沙を見かけたら渡そうと思っていたのか、誰かにお願いするつもりだったのかもしれない。突然思いついて書いてみたが迷った末に諦めた。または紛失してしまったのだろう。すでに彼が来社していたという日から数日経っていたし、渚沙は見なかったことにした。
その紙切れのせいで、女子たちの間に勝手な想像が知れ渡り、羨ましがられた。渚沙は知らなかったが、彼はなかなかの人気者で、目をつけていた女子社員が何人かいたらしい。彼女たちは、渚沙に遠慮してしまったようだ。その必要はまったくなかったのだが。
渚沙が退職して行方をくらました後、彼は、その中の一人と結婚したことを風の噂で知った。彼女は渚沙の先輩に当たるが年齢は二つ下で、どこから見てもお嬢様に見える、上品で性格も良く素敵な人だ。彼女は、よりおしとやかに振舞おうと懸命に努力していたが、もともと行儀は良く、家庭で厳しく躾けられたらしい。いい妻、良き母になっているはずだ。お似合いの二人である。
渚沙も、高校時代からよくお嬢様に見られた。彼はお嬢様タイプが好みだったのだろうか。渚沙の場合、作っていたのではなく自然体でそうだった。しかし、あくまでも外見だけだ。中身はどっこい、中性的な面がかなりの幅をきかせている。外側に騙されて結婚でもしたら地獄を見ることになるだろう――主に相手側が。生意気なので、渚沙の結婚相手は、渚沙が絶対に頭が上がらないような亭主関白、しかも人格者でないとだめだと自覚している。中身ができていない人だと馬鹿にするからだ。
取引先の彼が、自分でなくいい人と結婚できてよかった。彼女となら幸せになれるだろう。渚沙はバレンタインデーにチョコレートを渡したことや、手紙の返信をしなかったことで彼を苦しめたのではないかと感じていたが、その罪悪感からようやく解放され、安堵できた。
結論として、好きにはなれなかったが、彼は千人に一人の男性だったと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます