第10話 重役秘書室
渚沙は短大を卒業すると、三年間、都内にある大手企業に就職し、花形部署である重役秘書室に配属された。職場の上司や先輩、寮の先輩たちから愛情を受けたが、
会社の不正を知り辞職した後、改革派の重役から組織の代表的地位を継承してみないかという話を持ちかけられたことがある。わずか二十二、三歳の世間知らずの娘に何を期待しているのだろうと、渚沙は不思議でならなかった。
渚沙は人の上に立つことより、ボランティア活動に参加したり、重要な仕事の手伝いをしたりすることに大きな喜びを感じるタイプだ。秘書業は天職のように愛してきた。就職先は、日本や世界にとって有益な事業を行っている一般企業や、海外青年協力隊のようなボランティア団体、社会公益団体のような職場であればどこでもいい。だが、信じていた会社から裏切られた失望、世の中に対する絶望からなかなか立ち直れず、帰郷してから次の職を探せないまま三ヶ月家に引きこもっていた。
本当は、どうしても外に出られない別の理由があった。取引先や顧客の家が同市内にあり、渚沙の顔はよく知られていたのだ。近所や街中でばったり出会うことだってありえる。渚沙は入社当時から営業が得意で、先輩たち、上司さえ追い抜いて社内で毎月トップの成績を収めていた。文章を提出すれば、必ず講演会のスピーチに選抜されたし、全国に販売される小雑誌にも採用された。それで地元でも有名だったのだ。渚沙が社の『金の卵』と期待されていると同僚から聞かされたのは、退職する直前だった。そんな話を聞いてもいささかも嬉しくなく、吐き気さえした。倫理観に欠け、汚れた企業に自分が関わるのは、渚沙にとって
ごめんね――。
誰にもさよならをいえないことが心苦しかった。
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