第9話 癒し

 アメリカから帰国して間もなく。霊能者のたぐいが好きな変わり者の伯母おばが、お節介なことに我が家の個人個人について、偉いお坊さまにてもらったといって、姉である、渚沙の母親に電話してきた。


 伯母は若かりし頃ファッションデザイナーだったが、後年にエステティシャンとして成功している。色白でなかなかの美人だが、勝ち気で仕事ができるために、男いらずで独り身のままだ。渚沙が小学生の頃、伯母が同棲していたのを覚えている。その後、結婚したい別の恋人ができたが、父親に会わせるのがいやで諦めてしまったのである。父親というのは渚沙の祖父にあたるが、神主の資格を持った人だ。伯母と祖父は一時期仲が悪かっただけだが、そんな理由で好きな人との結婚を諦めてしまうなんてじつに勿体無もったいない。その人と結婚して子供でもいれば、伯母の性格も丸くなり、幸せになっていたかもしれないのに、と渚沙は残念に思っている。


 つい最近、「セックスなんて、若い時いっぱいしたから飽きちゃったよ」と伯母がいった。

 未だにお堅い処女の渚沙には言葉もない。

 さらに「私、八人も流産しているんだから」とちょっと深刻な面持ちで付け加えた。

 初耳だった。それにしても、八人とはすごい数だ。伯母の若い頃の人生がどんなものだったのか想像がつかない。いつも仕事熱心で不良な人には見えなかったけれど。避妊はしなかったのだろうか。


――にその話をしたら、本当はおろしたんじゃないかといった。彼がいうなら間違いないだろう。その時、なっちゃんはあまりいい顔をしていなかった。流産は自然だが、堕胎だたいとなると殺人と同じだからかもしれない。それで少し罪悪感があって、伯母にしては珍しく控えめな口調だったのだろうか。――


 流産を打ち明けた後、「渚沙、まさかあんたまだ処女なの? 気持ち悪い」と伯母は顔を歪めた。

 無遠慮にものをいい、自分よりずっと年下の人間を追い詰めいじめるのは、渚沙が子供の頃から変わらない。それで従業員が次々に辞めていくが、伯母は自分の欠点を直そうとしない。

『余計なお世話なんだけどな。なっちゃんのせいで私が処女であることは有名だけど、いろんな男からしつこく言い寄られて困っているんだから。気持ち悪がられたことなんてないし、あまり品のないことを自慢しないでほしいわ』という言葉を渚沙は飲み込んだ。

 伯母とは価値観が違いすぎる。渚沙の住む世界では、処女や貞節は強力な力を所有する。こんなふうに男無用で人付き合いの下手な伯母だが、寂しがり屋で憎めないところがある。親や身近な家族を大事にする。めいである渚沙や妹、渚沙の弟であるおいをよく可愛がってくれ、いくつになっても会いに行くと喜ぶ。お坊さんに渚沙たちのことまでてもらった、というのも伯母の愛情ゆえなのだ。

 エンジニアで外資系企業の取締役である渚沙の父は、理論で説明できることしか認めないため、伯母のスピリチュアル人間的行為を軽蔑し、嫌悪している。母と渚沙たち子供も、時折スピリチュアルものに依存する伯母を遠くから見ていた。しかし、みんな父よりは柔軟性があり、精神世界の全ては否定しない。

 その時は、どこぞやの寺の偉いお坊さまが、渚沙に関して『その子は将来とてもいい人と結婚する』といっていたらしい。偉い坊さまということもあって、渚沙はそれを信じることができた。優秀なビジネスマン、年上で包容力のある男性が思い浮かぶ。運命の人にきっと出会える。そうしたら交際なんかしなくていい。直接結婚しよう。交際はいちいちイベントが多くてわずらわしい。誕生日やクリスマス等の義務的デートが嫌なのだ。

 こうして渚沙は、いとも簡単に失恋のうつから救われたのであった。


 達也と別れてから三年が過ぎた。渚沙は就職して寮生活を送っていた。週末の昼過ぎに用事を済ませて電車に乗るなり、達也としか思えない後ろ姿の男性が目に入って息を飲んだ。背格好、服装、髪型、何もかも酷似している。その人物は降車扉の前で足を少し大きく開いて立ち、窓の外を見ていた。車内は空いていたが、渚沙は反対側の扉から乗り、そこから動けずに立っていた。その人は背を向けたまま途中の駅で降りてしまい、とうとう顔を見ることができなかった。渚沙が知らない、周辺に何もない閑散とした駅だ。達也が行動する地域とは思えないので別人だろうけれど、彼の身に何かあったのではないかと胸騒ぎがした。寮に帰ると、なんと達也から電話があったことを管理人からのメモを見て知った。渚沙はすぐさま電話をかけてみた。


「どうしたの? 何かあったの? 」心配のあまり少し勢いのある調子で切り出してしまった。

「いや、なんでもない」

「突然電話なんてかけてくるから、何かあったのかと思って心配したよ。本当になんでもないの?」

「うん。なんとなくかけてみただけ」

「そう、それならいいけど」

 達也らしき人物を電車の中で見かけたことは口にせず、ほとんど話すことがなくて短時間で電話を終えた。


 後日、同級生と会ったら、達也は渚沙を合コンに誘おうとして連絡してきたことが判明した。電話で合コンの話はしていなかった。もしかして達也は、渚沙のことをまだ気にしているのだろうか。会いたくなってとりあえず合コンに誘おうとしたが、渚沙が何故か自分のことをすごく心配してくれ、軽い気持ちで誘えなくなったのかもしれない。いずれにしろ、渚沙は達也のことを異性として見ることはできない。心配したのは家族のような気持ちからだ。


 渚沙は合コンに参加したことが一度もない。同窓会やサークル、仕事仲間との打ち上げ、友達との飲み会なら付き合うが、それらも不運なことにお酒が飲めない体質だから、いつも高額な会費を払いただ損をする。何より合コンの軽さを軽蔑している。そのようなものに出る男の九割がたは、信用できない。遅かれ早かれ浮気するだろう。そのつもりはなくても酔った勢いとで簡単に起こりえる。本当にいい男は、そんなものに参加しなくても出会いに困らないはずだ。そういう理論で、合コンに出る男は全員だめ、という単純計算をする男嫌いだから、渚沙の中で、世の男性の多くは異性として嫌いな対象になるのだった。


 婚約者のなっちゃんは、お酒が飲めない渚沙の体質は神からの祝福、贈り物だといった。酒豪しゅごうと比較すれば、酒代に一生費やすお金を節約できるからだろうと渚沙は思ったが、それだけではないようだ。人気タレントが未成年にセクハラをして、芸能界を去る原因だといわれたアルコール依存症も馬鹿にならないけれど、もっと怖いことがある。合コンや飲み会で優秀な大学生が集団強姦事件を起こしたニュースや、お酒に睡眠薬を入れられ乱暴されたのに、酔って合意の上で性行為に及んだと相手から嘘を吐かれた上、飲み屋に行く段階ですでに承知していたことになるからお前が悪い、と世間から非情に叩かれる女性たちを見ていると、本当にお酒とは無縁でいたほうが安全だし、飲めない体質の自分は幸運だと実感する昨今である。

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