第5話「でっかい女になってくれよ」その2

 渚沙には小さい頃から、早々に物事を諦める癖があった。まだ小学校三年生だったのに、バレエを習うには遅すぎると判断した。三年生で同じクラスになった友達が裕福なお寺の娘で、バレエを幼少時から習っていて優秀なバレリーナだったからだ。バレエは、一生人の宝になるスポーツの一種だと渚沙は思っている。体が柔軟で血流がいいから健康にいいし、芸術的な活動やある種のスポーツにも大いに役立ってくれる。後に渚沙は、バレエを習わなかったことを折々に後悔した。

 また、子役タレント養成所に通ってテレビやコマーシャルにも出始め、賞をもらったことがある。それと同時に、特別な才能はないと自分を見限って芸能活動を辞めてしまったのが小学校六年生の時だ。もう少し続けてもよかったかもしれない。他のドラマ等に出演する機会に恵まれただろう。セクハラを受けたり、枕営業を強いられる年齢になるまでなら問題ない。

 達也の件もそうだ。まだ十代なのに、初めて付き合った彼を傷つけたくなくて別れられないから、留学や魅力的な仕事、自分が求めている未来を諦めて、すでに異性として愛を感じない彼との結婚を覚悟する、というのも前例と似ている。


 人生において、価値ある何かを早々はやばやと諦めるのは勿体無もったいない。ただ、もし過去に戻ることが可能で、人生をやり直せても、達也のことだけはどうにもできない気がするのだ。何か因縁いんねんがあるのかもしれない。


 短大一年目の初秋、なんと達也のほうから別れを告げてきた。久しぶりに電話をかけてきたかと思うと、聞いたことのない冷たい声で「別れてくれよ」といった。

 その調子が例によって『格好つけてます』のガキモードだった。セリフをずっと考えていたのだろう。呆れながらも、渚沙は顔から血の気が引いたのを感じた。その別れ話は、ぽかんと口を開けて無防備でいたところへ、いきなり竹刀しないで頭を殴られたくらい衝撃的だった。地の底に叩きつけられた気分だ。


 その後、「でっかい女になってくれよ」と達也は続けた。

 はあ? 何をいっているのだろう。そんな別れの言葉は聞いたことがない。

 次の瞬間、渚沙が以前『何か世の中に役に立つような大きな仕事をしたい。たとえば、NASAとか宇宙に関係するようなこと』という話をしたのを思い出した。それだ、それしかない……。

「どうしたの? 好きな人でもできたの?」渚沙は焦って訊いた。

「それもある」達也はひゃっひゃっひゃっと悪魔みたいに奇妙な声を上げて笑った。まるで別人だ。

 これは渚沙に対する復讐に違いない。高校を卒業してから物理的にも精神的にも距離が遠くなり、達也の気持ちが自分と同じで冷めているように感じていた。だがそうではなく、留学したいとか、大きな仕事をしたいと口にしたことで、別れを想像させ達也を傷つけていたのではないか。渚沙が、達也の喫煙と飲酒を批判したことはおまけのような理由だろう。 

 いずれにしろ、達也が別人のようになってしまったのは自分のせいだと渚沙は感じた。新たな女性の存在はおそらく真実だろう。無理に好きになろうとしているのかもしれないが。とにかく今の達也はそちらへ傾倒しているようだ。

「そう、それなら仕方ないね」他に好きな人がいると聞いて、渚沙はあっさり引いた。

 この状況で、恋人を取り戻そうとあがいても嫌われるだけだ。その渚沙の反応が意外だったようで、達也の調子が突如変わった。話し方も声も、昔の穏やかな彼に戻っていた。相手はアルバイト先の子だという。彼が駅構内のドーナツ屋でアルバイトを始めたと知った時、なんだか女々めめしくて嫌だなと思うと同時に、新しい女性との出会いがありそうだと予想し少し心配した。それが現実になってしまった。

「もらった指輪は返すね」

「それは持っていてくれよ」

「売ったらいいんじゃないかしら」

「売ったりはしないよ」

「じゃあ、また私のことを好きになったらちょうだい」

「わかった」

「借りてたCDと一緒にバイト先に届けとくけど、それでいいかな」

「うん、そうしておいてよ」

 会話は平和そのもので、別れ話をしているような雰囲気ではなかった。その間、渚沙の涙はとめどもなく流れていたが、普通に話していたので達也はまったく気づいていなかったようだ。指輪は、渚沙の誕生日に店で選ばせてくれたもので、誕生石のサファイヤが施されていた。学生の身分で買うには高価だったし、捨てるのも、未練がましく自分が持っているのも嫌で、買ってくれた本人に返すのが一番だと判断したのだ。達也の自由にしてもらえばいい。扱いに困るだろうから売れば一番いいと本当に思っていた。自分から提案していた時点で、指輪は絶対に返してもらいたくなく、少なくとも自分の側でそれはあり得ないと確信していた。別れは辛いが、結婚して退屈な人生を送るのはどうしても嫌だった。相手は達也だからではないだろう。彼はよくいる普通のいい人だ。


 駅構内にあるドーナツ屋に行った時、達也はいなかった。顔は合わせないほうがいい気がしたからホッとした。

「あの、すみませんが、これを今藤くんに渡しておいていただけますか」

「ああ。わかりました」男性の店員がにこやかに応対し、渚から指輪とCDを入れた手提てさげ袋を受け取った。

 最初の「ああ」で、店員は渚沙が来ることを承知していたように感じた。こちらの名前すら訊かなかった。

 達也のやつ、なんて説明したのだろう。「ふってやった元カノが来るからよろしくー」なんて自慢げに話したのではないか。達也の幼稚な思考回路が容易に想像できてしまう。

 内容はともかく二年も付き合ったのに、電話一本で関係が終わるとは。これでも最初は純愛だったのに後味が悪い。これが普通なのだろうか? 他人と比較するものでもないが、なんとも呆気なかった。


 その後、達也は、同級生で二人を知る共通の仲間に、渚沙と結婚するつもりでいたと明かしたそうだ。それを聞いて、申し訳ないけれど別れて正解と安堵あんどした。別れの本当の理由は何だったのか、仲間たちには話したのだろうか。渚沙はとても気になったが、尋ねなかった。当時、二人を結びつけようと応援してくれ、楽しく幸せな時を共に過ごした同級生たちは残念がっていた。

「あいつ、別人みたいになっちゃって……。彼女も渚沙とは全然違うタイプでなんか嫌だよ」仲間の一人である男友達が寂しげにいった。

 やっぱり自分のせいだと渚沙は感じた。彼は、ドーナツ屋の新しい彼女とも会ったそうだ。達也と付き合ってるかどうかは不明だが、軽くて派手な女らしい。タバコもお酒も一緒に楽しめる相手のようだ。今達也は、彼女との初体験を狙っているはずだ。童貞を馬鹿にされないように、日々必死に予習しているに違いない。

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