第6話 やけ酒

 かたち的には自分から傷つけずに、達也との関係に終止符を打てたのは幸運だった。それなのに、渚沙はしばらく立ち直れないほど傷心していた。おそらく、別れを告げられた側がより苦しいはずだから、こんな辛い思いを罪のない彼にさせなくて本当に良かったと心底から思っていた。

 ずいぶん長いこと会うことも連絡することもなく、すでに縁が切れているような状態だったので、そのまま自然消滅していれば、両者とも傷つくことはなかっただろう。達也がそういう選択をしなかったのは、自分から交際を申し込んだ手前、けじめをつけたかったのかもしれない。

 渚沙はいえる立場ではないが、「どんな状況でもできるだけ相手を傷つけないように配慮しなくてはいけない」と婚約者のはいう。後に出会う異世界の人たちも、相手を傷つけることでごうをつくることになるから、渚沙は傷つけられる側でよかったのだといった。

 渚沙は達也との別離で、生まれて初めてうつを経験した。当時は鬱というものについて認識がなく、自分がひどく落ち込んでいると感じていたが、明らかにただの落ち込みではなかった。鬱という言葉がぴったりくる症状だった。心が異様に重たかった。

 幸い、短大にはきちんと通えた。就職のことを考えていたからだ。高校ではいろんなことが楽しすぎてまったく勉強しなかったので、私立の短大に行かせてくれた親に申し訳ないからと真面目に勉強することを誓った。表面上では普通を装っていたが、何をしていても暗闇の中にいる気分だった。通学途中もそうだ。バスに乗って窓の外に顔を向けて人の目を逃れると、途端に涙がこぼれた。


「他の人を好きになったんなら、もう達也を取り戻すことはできないよ」渚沙の親友は、そう断言した。

 高校の時は、困難な状況でも互いの恋愛成就を目指して希望を捨てないよう励まし合ったのに、どうしたのだろう。親友が突然遠く感じた。彼女だけは「きっと戻ってくるよ」といってくれると期待していたのに。親友さえ頼りにならない、と勝手な思いを抱く。渚沙はどうしても苦しみから自由になれず途方に暮れた。


 渚沙は大学に付属する女子短大に通っていた。英語の合同サークルで一緒の大学の先輩が、達也に少し雰囲気が似ているのでこの際付き合えないだろうかと、渚沙と仲のいい由香ゆかという女の先輩に投げやりにこぼした。

「ええ、そうなの? あいつにはもう彼女がいるよ。どうすんのよ」

 由香が真顔で同情してくれたので、本気でいったわけではないといいづらくなってしまった。それにしても初耳だ。つい最近まで、あの先輩には彼女なんていなかったはずだ。渚沙に関心を寄せていた先輩だったのに。人間の心は移り気だ。


 それはちょうど合同学園祭が終わり、大学の広めの講義室で打ち上げを行なっていた時だった。使い捨ての透明のコップにジュースやお酒がついであり、自由に飲めるように数カ所の机上にまとめて置かれていた。渚沙は、こんな時はやけ酒をするに限ると、たまたまそばにあったウイスキーのコップを手にとった。

「あんた、お酒飲めなかったでしょ。平気なの?」由香が隣で心配している。

「はい、これくらいは」渚沙は二度に分けて飲み干した。

 それほど大きなコップではなかったが、普通のお酒や甘酒一口で顔がほてる人間がウイスキーを一杯飲んだらどうなるのか。即顔に熱を感じ、頭がガンガンと強烈に脈打って痛み始めた。

「うわー、もう顔が赤いよ。大丈夫?」由香が水を持ってきくれた。

「ちょっと、だめかもしれないです……」


 その日は夜遅くなるので、短大のすぐ隣の、同級生のアパートに泊めてもらうことになっていたから助かった。翌日、腕と太ももに蕁麻疹じんましんが出ているのに気づいた。一週間、かゆみが止まらず、馬鹿なことをしたと後悔した。自分でも不可解だが、失恋し、こんなボロボロの精神状態でも、達也とよりを戻して結婚するのは絶対に嫌だと思っているのだ。


 一ヶ月ほどすると渚沙は、達也のことを『家族の一員』のように大切に感じていたことに気づいた。しかも、奇妙なことに『息子』としてである。嫁に息子をとられ、捨てられた母親の心情なのだ。

 恋人や結婚相手は、自分より精神年齢が大人の年上でないとだめだと渚沙は悟った。

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