金曜日:僕の神様

 また今日も、一日の終わりを告げるチャイムが鳴る。この終わりのチャイムが、放課後の始まりの合図だ。

 胸を弾ませながら廊下を駆けていく。教室で談笑している人が多いせいか、廊下はまばらにしか人がいない。

 階段を降り、下駄箱で靴を履き替え、校門を抜ける。途中で見知った誰かが僕を見て驚いていたが、それさえ気にならなかった。

 今日は金曜日。明日と明後日は、学校が休み。つまり、一日中彼女と遊べるのだ。それが何よりも嬉しくて、今からその事で頭がいっぱいになる。

 明日になったら何をしようか。彼女はカードゲームが出来るだろうか。それとも出来ないから、鬼ごっこでもしようか。川にも行きたい。森でかくれんぼもしたい。

 息が切れていることも足が疲れていることもどうでも良くて、いつもの道を走り抜けていく。

 走ってきたせいでまだ日は高い。アブラゼミとクマゼミが騒がしく話している。田んぼから溢れる湿気を帯びた熱気もいつも以上だ。

 ほんの少しの非日常ですら楽しくて、動かす足が軽くなる。

 もし彼女が知らないなら、これを教えてあげたい。この楽しさと、嬉しさを。

 汗で滲む視界に、変わらず僕を出迎える古びた鳥居が映る。鬱蒼うっそうとした森も、ガタガタの石段も昨日とは何も変わらない。変わらないのが心地良かった。

 息をはずませながら石段を登っていく。ここを登れば彼女がいつものように立っていて、「今日は早いね」なんて言って笑うんだろう。それに僕はきっと、1番の笑顔でこう答えるのだ。「話したいことがいっぱいあるんだ」って。

 ――そう信じて、疑わなかった。否、疑うことすらできなかった。

 深緑に包まれた暗い境内は静まり返り、僕の乱れた呼吸音しか聞こえない。ひんやりと冷たい風が、火照った体を冷やしていく。

「……真白?」

 ゾクッと、背筋に嫌な汗が流れた。虫の知らせのような落ち着かない気分に襲われ、僕は慌てて辺りを見回す。しかし見えるのは木々だけで、彼女の痕跡こんせきは見当たらない。

 別に、彼女がここにいないのはおかしいことじゃない。付近を散歩しているのかもしれないし、僕を驚かそうと隠れているのかもしれないし。そう考えると合点はいく。

 だがそれでも、ざわつく胸が抑えられない。

 これまで一度もこんなことはなかった。たった五日間しか通っていないだろう、と言われればそれまでだが、それでも言いようのない不安に駆られる。

 僕が身動みじろぎをすると、不自然な程に大きな砂利の音がした。

「……探さないと」

 そう声に出した途端、考えるまでもなく足が動き出す。じっとその場で待つ、という考えがなかった訳では無い。ただ、それは間違っている気がしてならなかった。彼女を探さないと後悔する気がして、境内の森を奥へ奥へ駆けていく。

 初めて踏み入れるその森は、思った以上に手が入れられていなかった。地面から出た太い木の根に足を取られたり、膝丈程の草でズボンに傷ができたり、木と木をまたぐツルに視界を遮られたり。人が進むにはあまりに険しかった。

 それでも、僕は前に進む。彼女がこの先にいる確証なんてどこにもない。行ったところで無駄骨かもしれない。それでも今は、ただひたすらに突き進む。

 足元が悪かったせいで時間はかかったが、程なくして視界に光が映る。出口だ、と思った時には、もう足がそちらに向かっていた。

 息も絶え絶えに森を抜けると、涼しい風が僕を包んだ。照りつける夕日が眩しく、キラキラと反射している。

「……川、だ」

 そこには、日の光を受けて茜色に染まる小川があった。あんな森を抜けてまで来る物好きは少ないようで、自然がそのまま残っている。

 川の流れを目で追っていくと、少し向こうに滝が見えた。何故今まで知らなかったのかと疑問に思う程に立派なその滝は、大きな水しぶきを上げている。

 吸い寄せられるように滝に向かうと、ぼんやりと人影が見えてきた。白いその影は華奢きゃしゃで、今にも消えてしまいそうだ。

 ……違う、

 透けたその後ろ姿には見覚えがある。いや、見覚えがあるどころじゃなく、今探していた姿そのものだ。

 慌てて駆け寄ると、人影がポツリと呟く。

「……バレちゃった」

 足元に視線を落とす彼女の表情は、今までに見たことないくらいに暗い。声色も沈んでいて、僕が口を開いてはいけない気がした。

 ごうごうと滝の音だけが耳を覆う。冷や汗をかいた僕の体は、その音だけでどんどん冷えていった。

「あのね、私、ここで死んだんだ。たまに聞くでしょ、入水自殺ってやつ」

 言葉が、声が、心臓を掴む。相変わらず表情は見えない。それが不安でたまらない。

「理由は本当に単純。クラスに居場所がなくて、希望もなくて、信頼出来る友達にも裏切られて。今思えばそんな下らないことだったのに」

 滝の音に掻き消されそうな程小さなその声は震えていた。下らない、なんて嘘だ。そう思っているのなら、こんなに泣きそうな声にならないだろう。

 そう言おうにも言葉が上手く出ない。思考が纏まらなくて、口を開いても空気が出るだけ。

「死んだあと、気付いたら私はここにいた。でも、成仏できない理由がずっと分からなくて、どうしようもなかったんだ。だけど――」

 ゆっくりと彼女は顔を上げ、視線を僕に向けた。透けた瞳には僕がはっきりと映っている。

「もう、分かっちゃった。分かっちゃったから、もう消えちゃうってことも分かるんだ」

 ……聞きたくない。聞きたいわけがない。

 真白が消える? 信じられるはずがない。信じたくもない。

「嫌だ……」

 絞るように喉から声を出す。情けない声で、そんな情けないことを言う僕が情けなくてどうしようもなくなった。

 そんな僕の頬に、ひんやりと冷たいものが触れた。

「私ね、友達が欲しかったんだ。本当の友達が欲しかったんだ」

 屈託のない笑顔で彼女は笑う。無邪気な子供のように、笑う。

「だからもういいの。だからもう、いいよ」

 彼女の言うことは、少し難しい。何がのか分からない。

 「忘れていいよ」、ということなのだろうか。「気にしなくていいよ」、ということなのだろうか。どちらにせよ、僕には認めることは出来そうもない。

 ぼやけた世界で、彼女はまだ笑っている。深い茜色に透けた手で、僕に触れている。

「……もう行かなきゃ。今日だけは私からさよなら、って言わないとね」

 頬の感触が消えていく。元からそこに存在しなかったような物悲しさが僕の胸を締め付け、ぼろぼろと瞳から雫が零れた。

「男の子でしょ? 情けないなぁ」

 情けなくてもいい。彼女がそこにいてくれるだけでいい。ただほんの小さな奇跡で構わない。

「……最後に、謝らないといけないことがあるんだ」

「謝らないといけないこと……?」

 僕が聞き返すと、彼女は申し訳なさそうに「君のことを救えなかっていうのもあるんだけど」、と眉を下げて微笑んだ。

「私、神様なんかじゃなかったんだ。ただの、独りぼっちだった幽霊なんだ」

 こんな状況でもそんな冗談を言ってのける彼女に、僕も笑い返した。精一杯の笑顔は、涙で歪んでいると思う。

「でも真白は、僕のだったよ」

 彼女は一瞬驚いて、へにゃ、と笑った。

「初めて名前、呼んでくれたね」

 彼女の体が、蒸気のように空気に溶けた。漫画やアニメのようにキラキラと輝くこともなく、呆気なく消えていった。

 もうここには、僕一人しかいない。誰ももう、僕を見て「泣いているの?」とは聞いてくれない。誰ももう、僕を待っててはくれない。

 頬を撫でるそよ風がよそよそしくて、つい顔をしかめてしまう。

 僕はこれから、どうすればいいんだろうか。またあの日々に戻るのだろうか。

「……もっと、一緒にいてよ」

 呟く言葉に返事はない。もう、僕の神様はいない。

 それを認識してしまった時、僕は久しぶりに声を上げて泣いた。滝の音なんて聞こえないくらい、大声を出した。

 彼女が見たら、どんな顔をするだろう。彼女も泣いてしまうのだろうか。もちろん、その答えを知ることは二度とできない。考えれば考える程泥沼に落ちていく。

 ――いっそ、僕も死んでしまおうかと脳をよぎる。だけど、そんなことはできやしない。勇気の問題でも、決意の問題でもない。

 どうせ今三途の川を見に行っても、「頑張れ」と押し戻されてしまうだろうから。

 少しだけ涙を止めようと深呼吸をする。だが、涙は止まってくれない。止まるはずもない。

 遠くで彼女が、笑っている気がした。


 どれだけ経っただろうか。空は既に星がきらめいている。帰る時間はとっくに過ぎているようだ。

 いつの間にか泣き疲れて寝てしまっていた僕は、硬い地面を睨みつけながら、凝り固まった体を起こした。全身と瞼と喉が痛い。まぁ、理由は言うまでもない。

 これは帰ったら大目玉を食らうだろう。しかもズボンは傷だらけで、ジャケットも土で汚れてしまっている。暫くは寄り道禁止になることも覚悟しないといけなさそうだ。

 眠ったせいか、随分と心は穏やかになっている。この先のことを考えて憂鬱ゆううつになれるくらいには。

 ぼんやりと辺りを見回すが、暗くてあまりよく見えない。このまま森に入るのは少々危険かもしれないが、戻らないことには始まらない。

 僕は重い腰を上げ、軽く制服の土を払った。

「……さて、と」

 今度は足を取られないように、慌てず僕は森へ足を踏み入れる。見えずらい分、今度は慎重に。

 森へ数歩入った時、僕は忘れ物に気付き、振り返った。

「それじゃあ、またね」

 僕の神様。

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