水曜日:泣かないで
今日も学校は――いや、朝は、苦しかった。朝なんて来なければいいとまた思ってしまう程に。
歩き慣れた狭い道を、早足で抜けていく。早く真白に会いたい。会って、話を聞いてもらいたい……なんて。これじゃあ僕の愚痴に付き合わせてしまうだけだ。文句を口にしたところで、変わらないものは変わらない。この息苦しい生活だって、このひねくれた性格だって。
早足のお陰か、今日はまだ日が高い。僕と同じくらいの身長の影が、同じ歩幅で隣を歩いている。
いつも騒がしいセミの声が、やけに遠くで聞こえる。汗が頬を伝い、まだ着慣れない制服が体に張り付く。どれもこれも、脇目も振らず神社へ急いでいるせいだろう。他のことを気にする余裕もない。
両脇に広がる田んぼは見通しが良く、鬱蒼とした森の入口までよく見えた。この暑さのせいか、農作業をする人も見当たらない。トラクターとも出会わない。
心の隅で、ほっと息を
しかしその一つがなかっただけで、僅かに心が休まる。僕は単純だな、と自分で自分を少し笑った。
道を抜けた先の見慣れた鳥居。日に照らされ、剥げた木の色がしっかりと見える。時間が違うだけでこんなにも印象が違うのか、と驚く。が、実の所は僕の気分の問題なのだろう。「古びた鳥居だ」と冷たく言い放ってしまいそうなのは。
鳥居をくぐり、微かに光を反射する石段を登って行く。一歩踏み出すごとに木々の囁き合う音が大きくなり、モヤモヤと胸につかえていた何かが溶けていく気がした。
最後の段に足を乗せる。その時、隣に誰かの気配がした。
「おかえり」
木々のざわめきより、セミの合唱より、何よりも近くに感じる声。
「……ただいま?」
語尾に疑問符を浮かべながら声のした方を向くと、真白がにっこりと笑った。自意識過剰なのかもしれないが、僕が来て嬉しいと感じているようなその表情が、少しこそばゆい。こういうことに、あまり慣れていないのだ。
「ただいま? じゃなくてただいまなの!」
得意気に胸を張る。何を得意気にする必要があるのか分からず、その動作が滑稽に見えた。
「ここ、僕の家じゃないんだけど」
笑いそうなのを堪え、冷たく返す。笑ったら絶対に「なんで笑うの!?」と絡まれてしまうから。
僕の応え方が悲しかったのか、「うっ」と声を漏らし、目を逸らし始めた。
「そうだけど……なんとなくじゃん……」
地面をガリガリと足で削る。もちろん削れはしないが、不満だということを伝えたいということは分かった。
その動作が子供そのもの。年上とは思えない反応に、遂に僕は噴き出してしまった。
さっきまでの暗い考えが嘘のように消えていく。愚痴の一つでも聞いてもらおうと思っていたのが馬鹿らしい。愚痴を言ったところで心は楽にならない。笑った方が楽しい。
僕が噴き出したことで彼女は頬を膨らまし、より一層不機嫌になる。怒り方まで子供だ。年下の女の子を見ているようで、心が安らぐ。
「子供みたい」
不意に、そう言葉にしてしまった。これは怒られる気がする。ピタリと動きを止めた真白から、ゆっくりと目を逸らしていく。
「あーさーぎーくん?」
僕の視界は古びた社とその周りを囲む大きな木に覆われているが、耳に届くのは怒気の混じった呼び声。見たらダメだ、絶対怒ってる真白が立ってる。
「これでも高二だからね! 浅葱くんより絶対年上だから!」
そんなことは知っている。だが「知っている」と言おうものなら「ならなんで」と一層怒られるだろう。黙っていよう。
目を逸らし続けていると、彼女から視界に入ってきた。ふわふわと浮かぶ体が突然視界に入るのは心臓に悪い。
「怒ったぞー」
どう見ても怒っていない。ぷんすこと効果音が付きそうだ。しかも若干笑いかけている。つられて僕の口角も上がっていく。
「……ぷっ」
先に笑い出したのは彼女だ。その笑い声に触発され、僕も笑い出してしまった。理由を聞かれても上手く答えられないが、とても楽しい気分で笑っているのは確かだ。
「っははは!」
目を合わせてひとしきり笑うと、二人同時に深呼吸をする。彼女は息をしなくてもいいはずなのだが。それも少し面白い。
笑い終えた後、ほんの少しだけ静寂に包まれた。風が強く吹いて、木々の枝を揺らしていく。
「本当はね、子供っぽいって言われて嬉しいんだ」
思わず頭に疑問符が浮かぶ。子供っぽいというのはあまり褒め言葉にならないものだが、彼女にとっては違うようだ。
聞き返そうとしたが、先に彼女が口を開く。
「それって、素直ってことでしょ? 私、あんまり素直になれなかったから」
へらへらと笑っているが、少し空気は沈んだ。
別に彼女が悪いわけではない。でも少し、彼女の内側に触れてしまった気がした。
長くこの話を続けるのは悪いと直感し、話題を変えようと模索する。しかし良い話題はない。そもそも思いつく話が身の上話くらいしかないというのは如何なものだろうか。
考え込んでいると、また彼女から言葉が発せられた。
「浅葱くんは、あんまり素直じゃないの?」
……その質問は、少し難しい。素直でいたいとは思わないが、素直じゃないのもどうかと思う。そんなどっちつかずの意見が、僕の態度にも出てしまっているように思えるから。
「……どっちかというと、そうかな」
本当は相談に乗ってほしいのに、それを言わないのは『素直』とは言えなさそうだ。むしろ、素直な部分なんてほとんどない。自分を偽ってばかりな気がする。その中でも比較的素直にいられるのが、ここなんだけど。
僕が答えると、彼女は「ふーん……」と何かを考えるように腕を組んだ。何を考えているのだろうか。
数秒経って、彼女がキリッとした目で僕を見つめ、
「浅葱くん、なんであの時泣いてたの?」
と言った。本当にこの人は何を考えてこんなことを聞いてくるんだ。傷を抉りたいのか。
そっと目を逸らすと、小さなため息が聞こえた。彼女なりに何かを考えて言ってくれていたのだろうか? だとしても、理由はまだ教える気にはならない。馬鹿にされることはないだろうが、この空気感を壊すのは嫌だ。
ちらりと横目で彼女を見る。俯いていて表情は上手く見えない。どこか考え込んでいるような表情にも見える。
それを見ながらふと思う。本当に真白は死んでいるのだろうか。幽霊のふりをしているだけじゃないのだろうか。僕よりもしっかりと物事を考えていて、よく笑ってよく怒る。生身の人間のようだが、やはり何度見ても透けている。心做しか、昨日よりも透明に見えた。
そんなことを考えていると、不意に彼女が顔を上げた。
「浅葱くん。相談ならいつでも乗るよ。涙なんて、全部消してあげるから」
瞳が潤んでいる。僕が泣いていたのは、僕の悩みが原因なのに。彼女が泣く必要はないはずだ。
慌てて触れようとするが、その手は宙をかいた。泣いてほしくない。なのに、何も出来ない。何も言えない。
「だから、もう泣かないでいいよ」
彼女が笑う。今にも泣きそうな顔で笑う。それが辛い。僕のせいで泣いてしまいそうな彼女に、なんと声をかければいい?
「……う、ん」
彼女の言葉に頷くことしか出来ない。不甲斐なくて、涙が出そうだ。でも、泣いちゃダメだ。また彼女を悲しませてしまう。
……そういう、ことか。彼女が泣きそうなのは。
泣いてほしくない人が泣いているから、悲しいんだ。頼ってほしいんだ。今まで知らなかった。そんな風に思う人もいなかった。
流れる前の涙を腕で拭い、彼女の顔を見る。
「大丈夫。もう泣かないから。だから……」
泣かないで、と言うだけなのに。その一言が喉に引っかかった。
泣いてほしくないのは本当だ。でも、そのセリフが恥ずかしい。言う機会のない言葉だったから。
視線が右往左往している僕を見て、彼女が微笑んだ。
「私も泣かないよ」
その一瞬で肩の力が抜ける。張り詰めた空気が緩む。思わずため息をつくと、彼女の笑い声が聞こえた。
「真面目だよね、浅葱くんって」
よく意味が分からない。この流れで、何が真面目だというのだろうか。むしろ馬鹿者だろう。
「自分のせいで、って思ってるんでしょ?」
完全に図星だった。上手い言い逃れは出来そうもない。
小さく頷くと、また彼女が笑った。
「気にしなくていいのに。勝手に私が悲しくなってるだけだしね」
本当に可笑しいといった笑い方の彼女に嘘はなさそうだ。そのいつもの笑顔にほっとする。
僕も笑い返した時、辺りが暗くなっていることに気が付いた。そろそろ帰る時間だ。早かったような、長かったような水曜日の放課後はこれで終わり。
僕が空を見た理由を察したのか、彼女が「またね」と手を振る。僕も「また明日」と手を振り返す。
まだ始まったばかりのこの日々が、ずっと続けばいいのに。
――なんて小っ恥ずかしいことを考えていた。
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