火曜日:いつもと違う夕暮れに

 どこかでスズメが鳴いている。いつもより軽い瞼を開けると、空は既に明るかった。

 手探りで枕元のアナログ時計を手に取る。アラームの鳴る時間までは、あと数分あった。もう一度眠るにはいささか、いや、全く時間が足りない。しかし、いつもより目覚めはいい。これなら、校内で眠気に襲われることはないだろう。多分。そう信じたい。

 再度時計を枕元に戻し、惰性で寝返りを打つ。窓の方を向いてしまい、ガラスに反射した光が目を差した。思わず目を瞑るが、光は容赦なく差し込み続ける。僅かに明るい瞼の裏、ふと昨日のことを思い出した。

 非科学的なこと――幽霊も然り――は、あまり信じていない。信じるたところで、存在していないなら意味が無いと思っていた。しかし、僕はこの目で見てしまったのだ。ありえないはずの幽霊を。

 一晩眠っても、やはり夢とは思えない。昨日の僕はあんなにも余裕をかましていたのに、今になって驚きと不可思議さを感じていた。なんなら、あの人は本当に神様かもしれない、と思ってさえいる。幽霊がいるのなら、宇宙人だって神様だっているのかもしれない。……以前の僕なら考えられない思考だ。

 ともあれ、まだ頭の追いついていない部分は多い。彼女と話したい気持ちはあるが、理解の行き届いていないものへの恐怖は僅かに残っている。好奇心半分恐怖半分、と言ったところ。

 昨日の放課後のひとときを思い出して息を吐いた時、突然部屋に大きな音が響いた。

「っるさい!」

 目覚めていようと容赦なく鳴り響くアラームを、半ば叩きつけるように止める。

 ごちゃごちゃとしていた脳内は、今の一瞬で全て掻き消された。でも、それでいい。余計なことまで考えてしまいそうだったから。

 ぐぐっと体を伸ばし、徐ろに体を起こす。

 そしてまた、一日が始まるのだ。昨日より楽しみな放課後を連れて。




 放課後。昨日とほとんど変わらない道を辿る。変わったことと言えば、セミの声が大きくなったことくらいだろうか。いや、もう一つある。

 昨日よりも、気分が軽いことだ。一人で過ごすだけの放課後が楽しくなりそうな予感に、少し心が踊る。学校生活は変わらなかったが、僅かな楽しみさえあれば乗り越えられないことはないだろう。

 いつもの畦道に差しかかる。太陽はまた傾いていて、田んぼで作業をしているおじさんたちの影を長く伸ばしていた。

 雑木林からはセミの合唱。昨日よりも騒がしく、楽しげだ。

 トラクターを走らせるおじさんに今日も舌打ちをされたことを気にも留めず歩いた先には、いつもの神社が変わらず存在していた。

 ボロボロで今にも崩れそうな鳥居が、夕日に照らされて本来の朱を取り戻している。そんなこと、いつもは気付かなかった。ずっとずっと、地面でも見て歩いていたのだろうか。

 朱い鳥居を抜け、さほど長くない石段を登りきる。森のように木々が生い茂る境内。崩れそうな古い社。苔だらけの参道。

 こんなにじっくりと見回したのは、初めて来た時以来かもしれない。初めて来たのはもう何年も前だが。

 夏の気配が遠のき、木々の多い場所特有の静けさと涼やかさに包まれる。居心地は悪くない。それどころか、ずっといてもいいくらいだ。

 すぅ、と深く息を吸い込んだ時、「やぁ」と声を掛けられた。

 声のした方を見ると、が立っていた。少し暗い境内でもハッキリと見えるセーラー服は、昨日と変わらない。

「本当に来てくれたんだ」

 ニコニコと明るい笑顔を浮かべる彼女は、生者と何ら変わらない気もする。

 心底嬉しそうに笑う彼女の言葉に頷くと、彼女がより一層笑った。

「今日は泣いてないんだね」

「なっ……」

 彼女は無邪気にそう言う。しかし、僕にとっては傷口に塩を塗り込まれたかというくらいダメージの大きい発言だ。つい言葉に詰まってしまう程に。

 固まる僕を他所に、彼女は続ける。

「そうだ、名前! まだ言ってなかったよね。私は真白ましろ! 真っ白って書いて、ましろ!」

 笑顔で突拍子もない話を始める。しかしその笑顔が眩しくて、思わずふふっと笑った。

「真白、か。僕の名前は――」

 僕はそこで言葉を止める。もし彼女が本当に神様なら、名乗るのは少し危険かもしれない。

 昔近所のおばあさんに口を酸っぱくして言われたことがある。それは「神様には名前を教えていけない」ということ。なんでも、神隠しに遭ってしまうのだとか。真偽は定かではないが、本当ならばタチが悪い。

 ちらりと彼女の表情を伺う。もし彼女が何かを企んでいるのなら、表情に出るはずだ。

 だが、彼女はいつもと変わらない顔をしている。「どうしたの?」と言いたげに首を傾げて。

 その表情に、疑った自分が可笑しく思えた。少し失礼な言い方だが、こんな人が何か企むことは出来ないだろうと感じたからだ。

「ううん、なんでもない。僕は浅葱あさぎ。浅葱色の、あさぎ」

 そう名乗ると、彼女は顔をもう一段階明るくした。まるで花が咲いているようだ。

「浅葱……浅葱くん! いい名前だね、私は好きだなぁ」

 にへら、と効果音の付きそうな笑顔を浮かべ、彼女はこちらを真っ直ぐ見る。名前を褒められたのは初めてで、少し気恥しい。その輝く視線から逃げるように目を逸らすと、夕日が目に付いた。

 茜色に輝く光が、堂々と視界を覆う。太陽はもう半分沈んでいて、日没まではあと一歩だ。

 二人を沈黙が包む。

「私は、夕焼けより朝焼けが好きなんだ。夕焼けはさよならだけど朝焼けはよろしくだから」

 彼女の言葉は、少し哲学的だ。哲学なんて微塵も分からないが。

 突然どうしたのかと彼女に視線を移すと、目を細めて夕焼けを見ていた。茜色の光に照らされる彼女の影は、伸びない。透けた横顔がやけに儚く見えて、手を伸ばしてしまいそうになった。

「浅葱くんは、どっちが好き?」

 彼女なりに気を使って話を続けてくれているのだろう。あまり人と話すことが得意じゃない僕としては、とても助かった。

「どっちって、夕焼けか朝焼けかってこと?」

 彼女はこちらに視線を移し、笑顔で頷いた。その笑顔も、微かに透けている。

「……僕は、どっちも好きかな」

 ちょっとだけ、嘘をいた。本当は、どっちも嫌いだ。

 朝焼けは一日の幕開け。地獄のような日々の。

 夕焼けは一日の終わり。また明日が来てしまうのが僅かに怖くなる。

 だから本当は、どちらも好きになれない。いや、好きになろうとしていないだけなのかもしれない。

 だけどそれをそのまま伝えると、彼女を悲しませてしまうような気がした。

「そっか、それも素敵だね。朝焼けは一日の始まり。夕焼けは、明日の始まりだもんね」

 やっぱり彼女の言葉は、哲学的だ。どこか子供っぽい部分があるのに、彼女の内面はしっかりと自分の考えがあるようだ。

「……私が朝焼けを好きな理由はもう一つあるんだ。ううん、さっき出来たんだ」

 彼女が今日一番の笑顔で、笑った。

「だって朝焼けは、浅葱色だから」

 ……その言葉に、一体どんな意味があるのだろうか。否、分かりきっていることだった。

 言い様のない感情が、胸を流れていく。誰かに話せば「恋だろう」と言われるような言葉だが、この感情は少し違った。

 僕を認めてくれたような、ここにいてもいいと言われたような、そんな気がしたのだ。それを認めるのに僕の自己肯定感の低さが邪魔をするが、多分それで合っているのだろう。

 家族以外に認められたのは、これが初めてだ。いつも僕ははみ出しもので、周りと馴染めなかったから。

 じわりと視界が滲み、世界が茜色に染まる。

 あぁダメだ、泣いてたまるか。また明日、真白に「今日は泣いてないんだ」と言われてしまう。

 泣きそうなのを必死に隠し、僕は笑った。

「ありがとう」

 ゆっくりと日が沈んでいく。彼女の表情は薄暗くてぼやけていてもよく見えた。

「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」

 満面の笑みで彼女が笑う。今日は彼女の笑顔を見てばかりだ。でもそれは、悪いことじゃないだろう。

 日が暮れてしまったから、もう帰らなければならない。あまり遅くなると心配されてしまう。

「じゃあ今日はこれで」

 少し冷たくなってしまった気がする。それを打ち消すために大きめに手を振ると、彼女も振り返してくれた。

 石段を降りて振り返っても、それは見えた。僕も振り返し、家路を急ぐ。

 紫の空が、暖かかった。

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